
島根県出雲市大社町日御碕に鎮座する「日御碕神社」(ひのみさきじんじゃ)、その境外摂社に「推恵神社」があります。

どこにあるかというと、同じく日御碕神社の境外摂社「月讀神社」の参道途中にあるのですが、ご覧のようにそこは山の中となります。

当記事は、月讀神社を参拝した時のものをリライトしたものです。

しばらく山道を歩いていると、シシ避けの柵があるので、止金を外して中に入ります。
中に入ったら、扉を閉めて止金をかけるのを忘れずに。

推恵神社の祭神は、日御碕神社86代宮司「小野尊俊」(おのたかとし)で、”祟り神”なのだと云われています。
祟り神となった由来については、彼の美しい妻に横恋慕した松江藩主「松平綱隆」(まつだいらつなたか)が、小野隆俊に無実の罪を着せて流罪としたからだと伝えられます。

細部においては諸説あり、中には尊俊は神通力を持っていた、などとする奇想天外な話もあるのですが、基本的には実録本である『雲陽秘事記』がベースとなっているようです。
『雲陽秘事記』は作者・成立年代とも不詳で、松江藩松平氏初代の直政から6代宗衍までの藩主とその周辺人物の事績について書かれた実録物となっています。
「実録」とは、江戸時代に執筆された、当時の社会的事件を題材にした読み物であり、表向きは事実性を標榜していますが、実際には虚構を多く含む、いわば「見てきたような嘘」を多分に含む「歴史娯楽小説」のようなものと考えられます。

日御碕神社検校(宮司)の小野氏は、素戔嗚尊の五世孫「天葺根」(天之冬衣)の末裔とされ、60代の小野高光を小野家の創始者として現当主は98代となります。
スサノオを出雲王国初代スガノヤツミミ王だとすれば、アメノフユキヌは富家・神門家に別れての7代王ですので、おおよそ合っていることになろうかと思われます。
小野家からは出雲国造家である北島家や千家家に嫁ぐ者もあり、98代高慶氏の姉君・礼子氏は、出雲大社権宮司・千家国麿氏の母君となっています。
つまり、小野氏は古代から、それなりの地位と勢力を有した一族であったろうと考えられるのです。

一方、出雲では大社と肩を並べる日御碕神社ですが、戦国末期に一時衰退しています。
現在の社殿は、三代将軍家光の寛永12年(1635年)に、松江藩主・京極忠高が奉行となって行われた「日御碕の天下普請」によるものですが、忠高は途中で病死し、代わって普請を引き継いだのが雲州松平家初代の「松平直政」です。
社領は中世末には四千石に達していましたが、戦国の争乱や朝鮮出兵などによって減少したらしく、京極氏、松平氏のもとで徐々に増加し、明治元年には、出雲国内で杵築大社に次ぐ千二百八十五石余になっていたということです。

小野尊俊の美しい妻に横恋慕したという松平綱隆は、松平直政の長男で雲州松平家の2代。
彼も日御碕神社の社領拡大に貢献したと考えられます。
綱隆は領民のために心をくだく名君だったという話もありますが、藩内では先代・直政の治世末期から続く財政悪化に加え、度重なる火災と水害に遭い、その対処に追われていました。

松平綱隆は藩政の疲れと、日御碕神社再興への影響力の奢りから、小野隆俊の妻欲しさに、彼に無実の罪を着せて流罪とするような行為に及んだのでしょうか。

29号線脇の入口から10分ほど歩いてきたでしょうか。
推恵神社の社が見えてきました。

日御碕神社は日々大勢の参拝客が訪れますが、ここへ来る人は稀でしょう。
ポツンと寂しげな社殿があるばかりですが、境内は綺麗に履き清められています。

社殿の背後の木はかつては取り払われていて、ここで合掌すると、隠岐海士町の推恵神社も同時に拝むことができるように作られてたのだとか。

祭神は「尊俊道命」(たかとしじのみこと)と「清操辺命」(すがみさべのみこと)。
日御碕神社検校・小野尊俊と彼の妻の御魂を祀ります。
「推恵」とは恵みを推し及ぼすの意。またそれは、”尊俊”の意を表しているともいわれます。

綱隆以降、松平家に続く不幸や因縁は、小野尊俊の祟りだと噂され、松平家の別荘地であった楽山に推恵神社を建て、彼の霊を弔いました。
その後、日御碕神社にほど近い当地と、隠岐の流刑先である住まいの地に、同じ推恵神社を建てたということです。
死者を祟り神として恐れるのは、身に覚えのある者たちです。
3つの推恵神社が意味するところは何なのであろうかと、微かなざわつきが、胸をよぎるのです。
