
「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 御禊祓へ給ひし…」
祝詞の冒頭にくる、伊邪那岐尊の禊(みそぎ)のシーンですが、これに関わる神社が宮崎には「江田神社」の他に二社あります。

その一社は宮崎の「住吉神社」です。
住吉の総本宮は大阪の「住吉大社」とされますが、これは神功皇后が大和に戻る過程で創建されたと伝えられます。
住吉大神は阿波岐原で伊邪那岐尊が禊をした時に生まれた神ですので、阿波岐原(あはぎはら)にある住吉神社が元宮ということになります。

早朝とあって、とても静かな境内です。

福岡、博多にも「住吉神社」があります。
僕は神功皇后の伝承地を訪ね歩くうちに、実は伊邪那岐が禊をした場所「阿波岐原」は博多湾、もしくは志賀島あたりではないかと思うようになりました。
博多には「小戸」という場所があり、住吉の神と一緒に生まれた「綿津見の神」を祀る「志賀海神社」があります。
そして住吉大社の元宮が博多の住吉神社だという話があり、しかもその更に元となった神社が那珂川の「現人神社」と伝わっています。

「天照大神」は「卑弥呼」とその後継者「台与」(とよ)の神格化ではないか、という説があります。
「邪馬台国(倭国)」は温暖で朝鮮半島と交流しやすい福岡の筑紫(朝倉から山門一帯)にあり、卑弥呼はそこの女王だったと仮定してみます。
卑弥呼の時代に、天の岩戸伝承と関係の深い事象で、九州北部に二年連続の皆既日食があったということが研究でわかってきています。
この最初の日食で先代卑弥呼が死亡し、そして二度目の日食の後、邪馬台国(高天原)を引き継いだのが日向出身の「台与」だったとしたら、
都が筑紫から宮崎(日向)に移され、そこに神々ゆかりの聖地を移したのではないか、と考えることができます。

更に都は、「神武東征と国譲り神話」に象徴される新・邪馬台国「日向倭国」の東征によって、奈良に移されたと僕は思っています。

しかし邪馬台国の東征の際に住吉大神は忘れ去られていくこととなり、時を経て神功皇后が筑紫へやってきた時、大神は祟り神として皇后に神託を下すのです。



禊に関連するもう一つの聖地、「小戸神社」です。

美しい杜のトンネルを抜けます。

小戸とは狭い水門や港を指します。
小戸神社は元は大淀川の河口にあったそうです。

門をくぐると、

「おがたまの木」の御神木の前に囲うように小石が集められた場所があります。

これは「磐境」でしょうか。

風格のある拝殿が姿を見せます。

福岡にも小戸と呼ばれる港(ヨットハーバー)があります。
そこが阿波岐原かと思っていましたが、綿津見大神を祀る安曇一族の最重要聖地「志賀島」の先端の海岸にも「大戸」と「小戸」の地名がありました。

志賀島の安曇族は龍宮の海人族と伝わり、安曇龍宮の姫に「豊玉姫」・「玉依姫」の名が見えますが、その両姫はこの後の「日向(ひむか)神話」の重要な人物として登場します。

とするなら、この宮崎の小戸神社は、日向安曇族の聖地だったのかもしれません。
境内に立つと、かすかに潮騒の音が聴こえたような気がしました。
