
元乃隅稲荷神社を訪れた際、長門にも他に面白い場所はないかと探してみました。
そんな中で立ち寄った、B級スポットを紹介します。


【長門豊川稲荷神社】
元乃隅稲荷神社に向かう途中で紅葉が美しく、ちょっと気になったので立ち寄りました。
長門の山あい、湯本温泉郷にほど近い「大寧寺」(たいねいじ)境内にあります。

参道に「大内義隆公 兜掛之石」や

「姿見之池」などがあります。

「大内義隆」(おおうち よしたか)は戦国大名で、周防国の在庁官人・大内氏の第31代当主。
周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた人です。

一時は隆盛を極めるも、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされます。

山口を逃げ出した義隆は大寧寺に逃れますが、やがてここも包囲され、自刃します。

その時、寺も焼かれたそうですが、のちに再建されました。

大寧寺の境内奥に「長門豊川稲荷」がありました。

昭和36年に愛知県妙巖寺の豊川稲荷の分霊を勧請して創建されたそうです。
御神体は「叱枳尼眞天」(だきにしんてん)です。

日本全国に無数にある稲荷社ですが、稲荷神というと、実は大きく二つに分かれます。
一柱は秦氏と共に渡来した「宇迦之御魂/倉稲魂」(うかのみたま)の神で、古事記ではスサノオの子であり、京都伏見稲荷大社の御祭神です。
伊勢外宮の「豊受大神」の別名とも云われ、食物に関わる神です。
作法にのっとって祈願(感謝)をすれば豊穣を与えてくれると、人々の人気を集めました。
もう一柱は「荼枳尼天」(だきにてん)です。
荼枳尼天は空海が、民衆の願いをかなえる目的で勧請したインドの女神ダーキニーのことです。

荼枳尼天は、もともとはジャッカルの精霊と言われ、人間の肝や心臓をむさぼる夜叉でした。
それがシヴァの妻、殺戮の女神「カーリー」の侍女「ダーキニー」となります。
やがて「マハーカラ」(大黒天:シバ神の夜の姿)に敗れて、生きた人間の心臓を食べることを禁じられたダーキニーは、死者の心臓を食べるようになります。
そのため、人が死ぬと先んじてその心臓を手に入れられるように、人間の死を6ヶ月前に予知する能力を与えられ、強力な通力を得ることになります。
中世になると「ジャッカル=霊孤」と、同一視されるようになり、
荼枳尼天が乗る霊孤を日本古来の神・稲荷神の使いの狐と結びつけ、荼枳尼天が稲荷神と習合されます。
この頃から容姿も「狐に乗った天女」となり、「エロ可愛い」と貴族らにも大人気。
ただしやはり本質は変わらないので、命を捧げ一生信心すれば、多大な益を与えてくれるが、
途中で信仰をやめたり怠ろうものなら、途端に富も命までも奪われるというエロカワツンデレ教へと相成ってゆきます。
別の一面に人の魂を食う代わりに欲望を叶えるという話もあり、呪詛にも利用された歴史があります。
織田信長や徳川家康は天下統一の為に荼枳尼天を信仰したと云われているそうです。
また荼枳尼天を性愛を司る神と解釈し、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、「立川流」という真言密教の一派が形成されました。
これは荼枳尼天を祀り髑髏を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したと云われています。
立川流は邪教視され、江戸時代には途絶えたということです。

お稲荷さんはコワい、という印象をどことなく感じるのは、荼枳尼天信仰の一面があるからなのかもしれません。
それでも彼女のエロ可愛さ故に、僕も荼枳尼天にはどこか惹かれてしまっているのです。

本殿の横に「お人形堂」というものがありました。

中にはいろんな人形が祀ってあります。

コワい感じはありませんが、気持ち良いものでもありませんでした。



【魔羅観音】
長門の山深く、俵山温泉郷から離れた場所に「魔羅観音」があります。

ひっそりとした、小さなお堂。

寂しげに立ち並ぶ地蔵様。
なぜこんな寂しいところを訪れたかというと、
「まらかんのん」…
そう、その名の響き通りの

魔羅観音でした。
その姿、山中に生えるキノコの如し。

子孫繁栄の象徴として、男根を祀る場所は全国いたるところにありますが、ここの徹底ぶりには、もう笑うしかない感じです。

子孫繁栄、精力増強、良縁、恋愛成就、夫婦円満などに利益があると言われており、これらの男根を願い事を唱えながら、頭をなでるとよりご利益が増すそうです。

本堂の中には絵馬さながらに、奉納された男根の数々。

外にもぎっしり。

ついつい冷やかし半分で訪れてしまいそうなところですが、とても悲しい話が伝わっています。

先の、湯本「大寧寺」で最期を遂げた大内義隆公には息子がいました。

遺児は女装して、この俵山に潜んでいたところ、捕らえられて殺害され、さらに男児であった証拠に男根を切り取られたということです。

これを哀れんだ里人が霊をなぐさめるために建てたものだと云うことです。


【楊貴妃の里】
長門の外れ、油谷島方面の「向津具」(むかつく)というところに、「楊貴妃の里」と呼ばれている場所があります。
そこにはなんと、中国で亡くなったはずの絶世の美女「楊貴妃」の墓があるといいます。

楊貴妃の里とは「二尊院」というお寺になります。
境内に入ると、美しい楊貴妃像が目に入ります。

この像は、純白の大理石でできており、楊貴妃の没年齢38歳にあやかり3.8mの高さになっているそうです。
楊貴妃最期の地、「馬嵬坡」(ばかいは)に立つ像と同じもので、故郷の地を向いてやさしく微笑んでいます。

「世界三大美女」のひとりと讃えられる楊貴妃は、8世紀に生きた中国唐代の皇妃です。
彼女の悲劇は、「美しすぎた」ことでした。
楊貴妃は「玄宗皇帝」の息子の妃でしたが、楊貴妃のあまりの美しさに囚われた父皇帝は楊を息子から横取りして妃にしてしまいます。
それからというもの皇帝は異常を通り越すほどの寵愛を、楊貴妃に注ぎ込みます。
それは国が傾くほどの入れ込みようでした。

当然これに納得のいかない民・武将は「安史の乱」と呼ばれる反乱を起こします。
追い詰められた皇帝は、部下からも「皇帝をたぶらかした楊貴妃が悪いのです」と訴えられ、
ついには成すすべなく、玄宗は楊貴妃を処分する許可を出し、彼女は首を絞められて殺されてしまったということです。
この時、楊貴妃は抵抗することなく粛々と命令に従ったと云います。

「傾国の美女」と伝わる楊貴妃。
しかし彼女は贅に溺れる人ではなかったそうです。
当時高価なライチが好物だったと云いますが、それも身分を思えばささやかなもの。
自ら高価なものをねだったというような形跡はほとんどないそうです。

自殺を強要されて死んだとされている楊貴妃ですが、実は生きて日本に渡ってきたと伝わる場所があります。
これがここ。

実は反乱の後、楊貴妃の亡きがらは見つからなかったそうです。
二尊院には二冊の古文書「二尊院由来書」「楊貴妃伝」が伝わっていますが、それによると
「唐土玄宗皇帝の愛妃楊貴妃なるもの、空艫船(うつろぶね)にて、当村唐渡口(とうどぐち)という地へ漂着。
まもなく死去したまいぬれば、里人相寄、当寺院境内に埋葬」
とあるそうです。
「うつろぶね」とは古文書などに度々出てくるUFOかと思わしき船のことですが、何らかの舟に乗って楊貴妃はここへ辿り着いたらしいです。
しかし里人が手当したもののその甲斐なく、結局は息を引き取ってしまったと云うことです。

玄宗帝は楊貴妃が日本で亡くなったことを夢で知り、霊を弔うために使者に2体の仏像を託し、日本へ届けさせます。
その仏像は京都の「清涼寺」に届いてしまったので、全く同じ仏像を日本の仏師に作らせ、清涼寺と二尊院で1体ずつ分け合って安置することにしたそうです。

遠く海を眺めるように、「楊貴妃の墓」はありました。

美しすぎた故に、波乱の人生を歩まざるをえなかった女「楊貴妃」。
その墓標は哀しげでもあり、安らかそうでもある、不思議な空気に包まれていました。

