
この川のせせらぎの、なんと美しく、清らかなことだろう。
神功皇后は、気丈にも兵士らを鼓舞し、ようやく仇の羽白熊鷲を討ち倒した。
皇后にとっては初めての戦であり、この先に続く大波乱の序盤戦に過ぎない戦いではあったが、
その胸に生まれた達成感は、これまでの血塗られた戦場を美しい楽天地に見せていた。
皇后の後ろには、これまで彼女を支え続けてきた武内宿禰も控えていた。
数刻前、皇后はこの場所で神託をもたらした神々を降ろし、戦勝報告の祭祀を行った。
橿日宮での神託は海の向こうの新羅を討てといっている。
もちろんそのつもりではある。
しかしその前に、憂いを残しては行けなかった。
大王の仇は討った。
筑紫最大の敵であった羽白熊鷲を倒した、
そのことが皇后に大きな安堵と自信を与えていた。
「襲津彦よ、こんなにも、私の心は安らかになりました」
「はい。」
傅きつつ名を呼ばれた武内宿禰は顔を上げる。
そこに広がる風景の中で、彼方を見つめる皇后の目には、
うっすらとにじむ涙が光っていた。


【射手引神社】
ついに追い詰められた羽白熊鷲は荷持田村を捨て、北東の嘉穂へと逃げ出します。
あと少しまで追い詰める皇后軍ですが、熊鷲はまたしても「益富山」という山中に逃げてしまいます。
山は熊鷲の領域です。
皇后軍も難渋したことでしょう。

その益富山のふもとに「射手引神社」(いてびきじんじゃ)がありました。

御由緒が書かれた看板の上に、なんとも愛らしい神功皇后のモニュメントがあります。

御由緒の社伝によると、神功皇后は羽白熊鷲を討伐される際、かなり難渋をされていました。

その折、貴船宮の社で休んで、「天手力雄命」(あめのたぢからおのみこと)を祀り、弓矢の加護を祈ったとあります。

射手引神社はもともと、近くにあった「香椎宮」と「貴船宮」を合祀したものだそうです。
香椎宮も神功皇后との縁を感じます。

手力雄命といえば、天照大神が天の岩戸に隠れてしまった時、
岩戸の蓋の大岩を、宮崎の高千穂から長野の戸隠まで吹っ飛ばした怪力の持ち主です。

そんな手力雄命の加護を受けた矢とはどんなに凄かろうか。

「綾杉るな」さんの説をいただくなら、「弩」(ど・おおゆみ)というクロスボウに似た武器が使われたのかもしれません。
弩なら非力なものでも、例えば皇后でさえ、雷撃のごとき一矢を正確に放つことが可能です。
弩は徐福渡来とともに伝えられていたようです。

拝殿の鳳凰の彫刻がとても素晴らしい。
まさに弩の一撃を連想させる力強さです。

そしてついに、羽白熊鷲は益富山山中にて射殺されることになります。


【益富山】
「益富山」(ますとみやま)は遠賀川の北岸にある標高189mの山です。
益富城趾があるというので行ってみました。

山中で「志祇神社」というのを発見。

気になって降りてみます。

奥に滝がありました。

苔むして雰囲気ある石垣を昇ります。

なにやら洞窟が。

これは古墳のようです。
かなりびりびり来ます。

さて、山頂に向かって車を走らせますと、開けたところに出ました。

益富城の城跡があちこちにあるようです。
熊鷲はこの山中のどこかで命尽きることになります。

彼の命を奪ったのは一本の矢。
大きな翼で飛ぶように山を駆け巡る羽白熊鷲を射ころしたのは、きっと雷撃のごとき一矢だったはずです。



【羽白熊鷲塚】
古代 我が郷土に一世を風靡せし人物を知らず
今彷彿として 羽白熊鷲の勇姿脳裏に去来す
我らは茲に 永遠に不滅の羽白熊鷲を
懇ろに顕彰し碑を建立して辞となす
山本 辰雄 謹選

朝倉市矢野竹に「あまぎ水の文化村」という施設があります。

休日には家族連れで賑わう、無料の水遊び施設です。

そこにあるこんもりと土が盛られた古墳のようなものが羽白熊鷲の墓だと伝わります。

とは言っても、これは後に作られたもの。
この施設を建設するときに小さな石だけが置かれた、羽白熊鷲の墓といわれるものがあったそうです。
それを移設し、きちんと墓らしく作り直したもののようです。

賑やかな子どもたちの声が響く場所で、安らかに眠るようたたずむ墓は、
物思いにふけっているようにも見えます。

羽白熊鷲も朝倉の発展に一役買った人物であることには相違ありません。
きちんとした形でその形跡を残せたことは、良かったのだと思います。



【美奈宜神社】(寺内)
羽白熊鷲を征した神功皇后は美奈宜川上の「池辺」で神託のあった三神を祀り、戦勝奉告を行います。

そこに流れる「佐田川」を皇后は「みな清し」と言ったことから「美奈宜」となったと伝わります。

やがてこの社は「池辺」から「喰那尾山」山頂へ移され、その後中腹、現在地へと遷宮されていきます。

広い境内は苔がむしていました。

そこは美奈宜の名にふさわしい、清々しい空気に満ちています。

熊鷲との戦いは、熾烈を極めました。

そして今、夫大王の仇を討ち取ったのです。

とても荘厳な雰囲気を漂わせる「美奈宜神社」拝殿。

香椎宮で仲哀天皇を祟った三神を祀るとされます。

しかしその神は、「新羅を攻めよ」と神託を残しています。

皇后はこれを成し遂げないといけません。
まだ若い皇后にとって、それがどれほど恐ろしい重責であったことでしょう。

しかし皇后は、少しずつ決意を固め、やがれこれを実践するのです。

その物語は次の「田油津姫」戦を行ったのちの話となります。
大きな初戦を終えて、皇后の胸には万感の思いで満ちたことでしょう。
「心安し」とつぶやいたその言葉が、この土地の「夜須」という名の由来となりました。
