
仲哀天皇が崩御された後の3月、山門の姫は香春岳の麓にある兄の屋敷へとやってきていた。
「本当にやるのか。」
兄、夏羽は問う。
「兄さまは神夏磯様が受けた仕打ちをお忘れか。」
しばし沈黙が流れる。
仲哀天皇の祖父、景行天皇もまた、過去に九州を平定に来ていた。
その時に兄妹の祖「神夏磯姫」は天皇に帰順したが、それは決して快いものではなかった。
いやむしろ陵辱に等しいものだった。
その子孫らがまたこの筑紫へとやってきて、船を造るための材や労、食料といった重税を課してきた。
それを快しとしないものは「熊襲」やら「土蜘蛛」といった蔑称で呼び、虐殺していく。
いつものやり方だ。
豊かで尊い歴史ある筑紫で奪い、貪り、殺していく。
世話になっている山門でもかつての女王「葛築目」は景行天皇に殺された。
「今が好機なのじゃ、兄さま」
大王が崩御した。
そしてその祟り神の名を聞く神事が行われる。
姫も神夏磯の後継としてそこへ呼ばれている。
神事は神功皇后を激しく疲弊させるはず。
そこを狙えば、暗殺する隙が生まれよう。
「私が事を成し得たのちは、兄さまが軍勢を持って大和の者どもを討ち取ってください。」
…だが、しくじってしまった。
皇后をとりまく重臣たちは、並々ならぬ才の者たちだった。
皇后を打ち損じ、あわや捕まるところをなんとか抜け出し、山門まで逃れてきた。
その後皇后軍はますます力をつけ、ついにあの熊鷲も討ち取ってしまった。
今やその大軍勢が山門に押し寄せている。
姫は側近らと共に、山門の聖地「女山」の砦まで逃げてきた。
神功皇后は自分のことを土蜘蛛「田油津姫」と呼んでいるらしい。
恐怖と屈辱で、白く美しい姫の顔はさらに蒼白していた。
震えが止まらない。
「葛築目さま、 兄さま…」
山門の姫の嘆願は虚しくも、迫る業火にかき消されていた。


【高良玉垂宮】
久留米の重要な聖地の一つとして「高良玉垂宮」(こうらたまたれぐう)、「高良大社」があります。

高良山全体が敷地内という広大な神社です。

山の麓には「高良下宮」があり、山頂付近にある「上宮」の遥拝所となっています。

山に入っていくとすぐに「御手洗池」があります。

雰囲気の良い池に弁天様が祀られています。

その向かいに「高樹神社」(たかきじんじゃ)があります。
御祭神は「高皇産霊神」(たかむすびのかみ)で、高木神とも呼ばれます。

高皇産霊神は、古くは「高牟礼権現」(たかむれごんげん)と称した高良山の地主神です。
山頂にいた高木神は高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界としたため、
山頂に戻れず、ここに鎮座したと言います。

英彦山でも高木神から天忍穂耳へ聖地を譲り渡した話が伝わっています。
高木神とは、火明・饒速日の母親、「栲幡千千姫」(タクハチヂヒメ)のことと判りました。
つまり物部氏の特に古い祖神であると言えます。
英彦山や高良山で祭神の交代をしなければならない何かがあったのでしょうか。
饒速日は秦国から筑後へ母親を連れて渡来した可能性がありますので、この伝承は栲幡千千姫が亡くなったことに由来するのかもしれません。

少しばかり山を登っていくと鳥居があります。

高良山登山道の入り口です。

大きく幅のある石の階段を進むと

天然の岩で出来たような道に出ます。
これが「高良山神籠石」(こうごいし)です。
一般に神籠石と言うと石垣のような列石を言いますが、本来はこのような磐座の結界を示すそうです。

その先に「背くらべ石」があります。

神功皇后が背を比べて戦勝を占ったと云います。

さらにその先に「馬蹄石」。

皇后の馬の蹄跡と伝わります。

さて、ぐいぐい山を登るといよいよ「高良玉垂宮」です。
ながーい石段を登ると、

なんと拝殿、本殿は修復中でした。

こちらがかつて撮影した拝殿です。
写真が残っててよかった。
「玉垂命」については未だ謎多き神と言えます。
「武内宿禰」説が強いようですが、「阿曇磯良」とか磯良に宝珠を授けた「豊玉の神」とか言われています。
僕は栲幡千千姫の息子、「饒速日」ではないかと思っています。

曇天に望む久留米の街と筑後川。

高良山をさらに登ると「奥宮」があります。

ここは武内宿禰の墓所とも伝わっています。

武内宿禰、つまり襲津彦(そつひこ)は大和(奈良)で葛城王朝を成しますので、ここが彼の墓であるとは思えません。
饒速日は筑紫で亡くなったと云いますので、あるいは。。というところです。

静謐な社が鎮座します。

ここでは御神水が湧いていました。



【弓頭神社】
久留米市三潴町に「弓頭神社」(ゆみがしらじんじゃ)があります。

三潴といえば「水沼氏」です。
ここは水沼の君の聖地となります。

御祭神は「国乳別皇子」(くにちわけおうじ)です。
国乳別皇子は景行天皇が「襲武媛」(そのたけひめ)を娶り生まれた子で、水沼氏の祖となった人です。
国乳別皇子が水沼氏の祖であるということは、同じ宗像三女神を祀る一族として、宗像族よりも歴史が浅いことになります。
国乳別皇子が古来からあった水沼氏に婿養子に入ったとも考えられます。
宇佐の豊王国の女王「豊玉姫」は、宗像三女神の祭祀にゆかりがあるようで、それをもたらしたのが水沼氏であったとするなら、同家の歴史はもっと古いものになるからです。

国乳別皇子は皇后の弓頭大将だったので、「弓頭大明神」と称えられたそうです。

弓頭神社の近くにある「烏帽子塚」は国乳別皇子の墓所と言われています。

民家に囲まれるようにひっそりと「チシャの木」が立っていました。

民家裏にひっそりと立つチシャは少し寂しそうです。

さらにその近くに偶然、高良神の墓所と伝わる場所を発見しました。

栲幡千千姫がここに眠っておられるのでしょうか。


【鷹尾神社】
神功皇后軍は土蜘蛛、田油津姫との最終決戦地「女山」(ぞやま)へと進軍します。
その際に迂回するように「鷹尾神社」に向かいました。

皇后はここに陣を張ったようです。

地元の漁人はブリ料理や反耶舞(はんやまい)で皇后らをもてなします。

本殿の奥には神功皇后の腰掛け石が祀ってありました。

境内の中で、そこだけは空気が違う感じがします。


【権現塚古墳】
みやま市にある小さな古墳です。

この小さめの古墳の主は様々説がありますが、そのひとつに戦死した皇后の兵士の墓だというものがあります。
わざわざ古墳を残すくらいなので、さぞ名のある兵士だったのでしょう。

【車塚古墳】
もうひとつ、古墳があります。
皇后が車を止めたことから「車塚」と呼ばれています。

皇后らは、ここで軍議をひらいたそうです。



【老松神社】
みやま市の田園の中にある、小さな神社に来ました。

その田園を挟んだ向こうに「女山」(ぞやま)が見えます。
女山は田油津姫が逃げ込み、籠城した場所となります。
女山には神籠石もあります。
羽白熊鷲を征伐した皇后軍は勢いもあり、一気に田油津姫たちを攻めたようです。

老松神社楼門の横に、「蜘蛛塚」と呼ばれる古墳跡があります。
これは元は「女王塚」と呼ばれていました。
田油津姫か、その前の女王「葛築目」(くずちめ)の墓と言われています。

葛築目は邪馬台国候補地の一つとも言われるほど、強大な豪族がいた山門を治める女王でした。
彼女は景行天皇の九州征伐の折、神夏磯姫(かむなつそひめ)と違い、天皇に帰順せず、最後まで争います。
その末に景行天皇に殺されてしまうのです。

神夏磯姫は元は山口の佐波の姫だったようですが、景行天皇に連れられ、筑豊を治めるように強いられたようです。
そして兄の夏羽と田油津姫は神夏磯姫の子孫と伝わります。
祖母と孫の間柄だったのではないでしょうか。

景行天皇は10人の妻を娶り、行幸の先々で数多の側女、妾を持ったそうです。
それは単に女好きだからという理由ではなく、各地を自分の血を引く子に治めさせるためのものだったようです。
景行天皇は王族としての力は弱く、故に自ら領土拡大に出向いています。
そのような背景から、自分の血を残すことに執着したのかもしれません。
なので筑豊を治めさせられた神夏磯姫のお腹に景行天皇の血を注がれた可能性は高く、
だからこそ天皇家の血を引く田油津姫は筑豊から山門の女王として迎え入れられたのではないでしょうか。

が、しかし夏羽、田油津姫の兄妹にとって、その血は屈辱の呪いであり、
また同じように九州征伐にやってきた仲哀天皇一行に材や労を貢ぐことは苦痛でしかなかったことでしょう。

それぞれの複雑な情念が絡み合って、ついに神功皇后と田油津姫は激突します。
そして皇后は、容赦なくこの土蜘蛛の女王を殺害したことでしょう。
兄妹が神夏磯姫の子孫ならば、兄が「夏羽」というように、妹も「夏○」といった名前だったはずです。
皇后は不快感を込めて「田油津姫」と諡(おくりな)にしたのです。

