現人神社(住吉本津宮)〜神功皇后紀 19

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「辺りの木を切り倒せ。」
武内宿禰は檄を飛ばし、兵士らを突き動かした。
やがて水路の先にある頑強な大岩が全容を見せる。

「この山の連なりの向こうに、住吉様の聖地がございます。そこに神田を設けられてはいかがでしょうか。」

そこは五十迹手の支配する伊都国から離れてはいたが、彼はこの一帯に関しても詳しかった。
もちろん、皇后様には自国の聖地にて、十分に祭祀を行っていただいたご恩もある。
住吉の神、それは大王を祟った祟り神の一柱であり、これまで王家が忘れつつあった神でもあった。

「我が祖の代々の王は、すべての神をお祀りいたしております。
どうして漏れた神がありましょうか。」

大王は申し上げていたが、確かに漏れた神があったのだ。
神功皇后はすぐに、その聖地へ向かうことを決めた。
新羅を討てと言っていた神は

「もしよく私を祀ったら、刀に血を塗らないで、その国は服従するであろう。
そのための捧げ物として、王の御船と水田を差し出しなさい。」

と伝えていた。
住吉神を祀るという聖地の近くには流れの良い大きな川があった。
その水を引き込めば、広大な神田が築ける。

「水田が築ければ、民も豊かになろう。」

これまでの戦で失われたものを思う皇后は、なんとしてもこれを成し遂げたいと願った。
兵士たちに武器の代わりに鍬を持たせ、水路を掘らせていたが、ついに小高い丘の横で大きな岩盤にぶつかった。

「迂回は難しいか。」

武内宿禰は難色を示した。
やはりこの大岩を砕いて水を通さなければ、水路は完成しえない。
が、屈強な兵士が鍬を振りかざそうとも、その岩はビクともしなかった。
武内宿禰が大岩を見て回ると、少しだけ欠けた、わずかな亀裂を見つけた。
空を見れば、薄暗い曇天となっている。

「これは雷神様の助けをいただけるやも」

そう呟くと、皇后様になるだけ大きく長い銅剣と鏡を所望した。

「ここは私めが祭祀仕ります。」

主だった木々が伐り払われた大岩の亀裂に、宿禰は思い切り銅剣を突き立てた。
その前に鏡を置きかりそめの祭壇を設ける。
武内宿禰は全員を離れた場所に移させ、そこから祭祀を執り行った。
やがて曇天は重みを増し、雨とともに雷雲を呼び寄せた。
次第に轟音が近づいたその時、一面に白光を飛び散らせて、雷光が銅剣に降り注ぐ。
激しい音とともに砕け散る大岩。
その丘には、しばし雷音が轟き響いていた。

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【染井神社】
染井神社(そめいじんじゃ)は高祖山に連なる染井山の中腹にありました。

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県道56号線から民家を抜けて、山に入っていきます。
細い山道を少し行くととても趣深い神社が待っています。

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うっすら霧が昇る心字池が、ここが幽界であることを示すようです。

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その先は素晴らしい苔の道が続いています。
なるだけ苔を傷つけないよう、そっと歩きました。

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糸島はもとは「伊都国」(いとこく)と呼ばれていたそうですが、
さらにその昔は「伊蘇国」(いそのくに)と呼ばれていたそうです。

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この一帯を納めていた五十迹手(いとて)は熊鰐(くまわに)に遅れて、
仲哀天皇を三種の神器を船に掲げて出迎えます。

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仲哀天皇は五十迹手の勤王ぶりをたたえて「伊蘇志」(いそし)と言ったので伊蘇国と呼ばれるようになったそうです。

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なぜ、熊鰐に遅れて参じた五十迹手を、これほどまでに天皇は褒め称えたのか、
その一つは五十迹手の祖先に理由がありそうです。
五十迹手の祖は「天日槍」(あめのひぼこ)という神で、神功皇后の祖でもあります。
愛しい皇后と同じ祖を持つ五十迹手を、無下にはできなかったでしょう。

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拝殿の裏手には、石の祠と木の祠がありました。

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染井神社も五十迹手の聖地だったと思われます。

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神功皇后はこの地にある井戸で戦勝占いをしました。
「異国に勝利するなら鎧は緋色に染まれ」と白糸の鎧を沈めると、たちまち赤く染まったといいます。

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その鎧を干すためにかけた松は今は枯れてしまったそうですが、
その大きな幹が「鎧掛松」として保存されています。

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そして鎧を染めた井戸は「染井の井戸」として染井神社から少し離れた場所に残されていました。

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今はこちらも枯れてしまっているようですが、
苔や羊歯に覆われて、命の源を感じさせる趣です。

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当時の神聖さが身近にそのままに残されているのは、とても嬉しいことです。

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【高祖神社】
高祖山の麓にある「高祖神社」(たかすじんじゃ)は五十迹手の最大の聖地だったと言えます。
高祖山は高千穂の祖母山などと同じく、天孫降臨の候補地として伝えられています。

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鳥居から続く参道は苔むしてとても美しい。

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並立する杉の並木が玉垣のように聖域を守っています。

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御祭神は「彦火火出見命」と「豊玉姫」。
日向神話の神々です。
境内一帯には、心地よい風が吹いていました。

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五十迹手と神功皇后の祖神である「天日槍」は新羅の神だと言います。

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新羅の沼のほとりである女が昼寝をしていると、日光が陰部に当たり、女は身ごもって赤い玉を産み落とします。
それを見ていたある男が赤玉を女からもらい受けますが、新羅の王子「天日槍」と出合い、赤玉を献上します。
天日槍は赤玉を持ち帰り、床のあたりに置くと、赤玉は美しい少女の姿に変わりました。

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少女を妻とした天日槍ですが、ある時奢ってその妻を激しく罵ります。
少女は祖国に帰ると言って、天日槍の元を去り、日本へと向かいました。
そして天日槍もこれを追って、日本へやってきたと言います。

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天日槍は「浪速の渡の神」(なにわのわたりのかみ)に遮られ、妻に会うことはできませんでしたが、
日本で別の妻をもうけ、子孫を残しました。

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高祖神社では毎年、4月26日と10月25日に神楽の奉納があります。

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なかなか見ごたえありますので、機会があれば訪れてみてほしいお祭りです。

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【脊振神社】
伊都国を抜けた皇后は脊振山頂にも登っています。

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言い伝えでは神功皇后が背振に登ったのは三韓征伐凱旋後となっていますが、
帰国後は立ち寄る暇はなかったと思われるので、伊都から那珂川へ移る渡航前に登頂した話が、
言い伝えられるうちに変化したものと思われます。
神功皇后はここに宗像三女神を祀りました。

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脊振神社については、個別に別の記事で書いていますが、
この山頂の空中神殿は、僕のお気に入りの場所のひとつです。

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【伏見神社】
那珂川の上流に「伏見神社」があります。

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普段は質素な佇まいですが、岩戸神楽などが伝わり、お祭りには大いに賑わう由緒ある神社です。

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改めてじっくり散策すると、苔むした手水鉢など、味わいある神社であることを実感しました。

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なぜか仲良く、片耳ずつ折れている狛犬。

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スタイルの良いコマさんです。

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拝殿の扁額は青い色が残っています。
ここが水を司る神社であることを表しているのでしょうか。

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境内の樹木は根が蛇のようにうねっています。

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そのひとつの根には石が祀られていました。

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境内の鳥居から道路を挟んで対面に、那珂川へを下る場所があります。

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ここから近い場所に、「裂田溝」(さくたのうなで)の「一の井堰」(いちのいぜき)があります。

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【裂田神社】
那珂川から引き込まれる小さな水路「裂田溝」(さくたのうなで)とは、
神功皇后が現人神社の住吉三神のために神田を拓こうとして造った水路です。

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那珂川の本流から裂田溝へ引き込まれる水路口は「一の井堰」と呼ばれています。

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海の神である住吉神が近くに祀られているということは、太古はこの近くまで海水が来ていたということです。
これは津波がこの近くまで押し寄せていた可能性があるということらしいです。

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なのでこの一の井堰は那珂川の上流の方に敢えて造られていました。

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これが一の井堰の今の姿です。

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裂田溝は民家の間から悠々と流れ、広大な水田地帯へと流れて行きます。

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今現在も現役である太古の遺跡というのは、とても貴重だと思われます。

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さて、皇后らは裂田溝を着々と掘り進めていくのですが、やがて頑丈な大岩にぶつかってしまいます。

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その大岩があったところに「裂田神社」があります。

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小さな神社の裏手に回ると、

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硬い花崗岩の岩盤跡がありました。

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水路脇の岩盤はコンクリのようなもので塗り固められていましたが、

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境内裏手の岩盤はむき出しのままでした。

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この岩盤を砕いて水路を通さなければ、目的の地まで水を運ぶことができない。
困っているところに武内宿禰が祈りを捧げると、天から雷が落ち、岩を砕いたといいます。

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この大岩があった丘を今は「安徳台」と呼びますが、当時は「迹驚岡」(とどろきのおか)と呼んだそうです。

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【現人神社】
さて、「現人神社」(あらひとじんじゃ)です。
那珂川の住宅地にある、こじんまりとした神社ですが、ここはとても由緒ある神社として、知る人ぞ知る聖地です。

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御祭神の「表筒男命」(うわつつをのみこと)、「中筒男命」(かなつつをのみこと)、「底筒男命」(そこつつをのみこと)を住吉三神と言います。
伊邪那美(いざなみ)を追って向かった黄泉の国から、結局逃げ帰ってきた伊邪那岐(いざなみ)は小戸の浜で穢れを祓うため禊をします。
そこで綿津見三神と共に最初に生まれたのが住吉三神です。
その後、天照・月讀・須佐之男の三貴神が生まれています。

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現在、全国住吉神社の総本社は大阪の「住吉大社」となっています。
が、創建でいうと博多の「住吉神社」が最も古く、すべての住吉神社の始原とされています。
大阪の住吉大社と下関・博多の住吉神社を合わせて「三大住吉」と呼ばれます。

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では現人神社はどうかと言うと、博多住吉の更に始原の神社であり、日本全国全ての住吉神社の本津宮にあたるとしています。
謎多き住吉神ですが、一説に祭神名にある「筒」(つつ)とは「星」を表していると云われています。
星で思い浮かぶのが渡来した徐福ですが、彼は道教の方士で星を崇めたと云います。
住吉神と同時に生まれた綿津見神は徐福が連れてきた童男童女の霊とも云いますので、住吉神は徐福が祭祀を始め、本人、もしくはその子孫が現人神社を創建したのではないでしょうか。
徐福らが定住した吉野ヶ里遺跡は、背振山を挟んでちょうど反対側にあたります。

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住吉神社の本津宮現人神社ですが、それが川の堆積によって海岸線が遠のき、海の神である住吉神は博多の住吉神社に遷宮されます。
やがて日向邪馬台国の時代に移り、豊王国と連合を進めた徐福の子孫「物部氏」が宮崎の住吉神社に遷宮します。
そして豊・物部連合東征とともに様々な神々も中央へ移りゆくなか、住吉の神は忘れ去られてしまったのではないでしょうか。

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神功皇后が三韓征伐のため荒海へ出航した際、この三神が荒れ狂う海原で苦難する皇軍の船の舳先に姿を現し、
禊の神として皇后の身を護り、玄界の逆巻く波風を沈め、船の水先案内を務めたと言います。
この時、神が現世に姿を現したことから「現人神」と称するようになったそうです。

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祀ろわれなくなりつつあった住吉神、その神託を疑ったために呪われた仲哀天皇。
その存在を住吉神の本津宮に改めて知った神功皇后は、神の求めた神田をここに築こうと決意し、さらにはこの先、至る所で住吉神を祀る神社を立ち上げていきます。

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それは小さな島々にまで及び、やがては大阪の住吉大社に至ってゆくのです。

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