出雲大社の四の鳥居までやってきました。
この鳥居は「銅の鳥居」と呼ばれていますが、そこに、ある一文が刻まれています。
それは「日神者地神五代之祖天照大神、月神者月読尊也、須佐之男命雲陽大社神也」と刻まれており、かつて「スサノオ」がここに祀られていたことを物語っています。
出雲大社の御祭神は、創建された時から大国主大神でした。
しかし鎌倉時代の一時、「スサノオ」に御祭神が変わったと云います。
神仏習合がなされた当時、出雲地方を総括していた「鰐淵寺」(がくえんじ)がスサノオこそが出雲の国を造った真の主であると提唱したのが広く定着したようです。
しかし、江戸時代初期に当時の出雲国造が幕府に申し立て、再び祭神は大国主大神に戻りました。
ちなみに、大国主が「大黒天」、事代主が「恵比須天」となったのも、鰐淵寺が本地垂迹説から、七福神の一人として仕立てあげたのが始まりだと云います。
銅の鳥居を過ぎると、横に神馬神牛の像があります。
そして立派な拝殿が姿を現します。
出雲大社で有名なもののひとつに「大注連縄」(おおしめなわ)があり、縁結びの象徴ともされていますが、実はこの注連縄は、巻き方が通常の神社と反対に巻かれていると云います。
このような逆巻きの神社は他に奈良の「大神神社」、大分の「宇佐神宮」、新潟の「弥彦神社」などで見られます。
注連縄は外から邪悪なものが入らぬようにした結界なので、それを逆に向けているということは、内側にあるものを封印しているとか、そこが重要な墓であり死の世界なので反対向きになっているという説など囁かれています。
また、出雲大社は「二礼四拍手一礼」で参拝します。
この形式も特殊で、他にはやはり「宇佐神宮」や「弥彦神社」などにみられます。
出雲大社の神紋は「二重亀甲に花剣菱」だと言われます。
しかし正確には亀甲ではなく、龍鱗紋であり、出雲で古来より信奉された龍蛇神を表していると富氏は言います。
「龍鱗枠に花剣菱」のこの紋は、今では出雲国造の紋のように扱われていますが、もともとは出雲大社に遷座された大国主の元宮「三屋神社」の神紋であったと云います。
鰐淵寺はスサノオこそが出雲の国を造った真の主であると提唱したと云いますが、それは大きな誤りです。
記紀ではスサノオは、大国主の父親のように表現されていますが、それも誤りです。
出雲の国を造ったのは古代インドから渡来したドラビダ族の末裔で、17代続いた王とその一族(向家と神門臣家)でした。
スサノオとは、8代八千戈王の頃に渡来した「徐福」(ジョフク)のことであり、出雲族とは全く血縁のない人物だったと伝えています。
徐福とは、中華秦の時代、始皇帝嬴政(エイセイ)の命により不老長寿の妙薬を求めた人物です。
徐福は二度渡来していますが、一度目の上陸は出雲西岸であり、二度目は佐賀有明海沿岸だったと云います。
一度目の上陸に先立って、徐福の部下が徐福の渡来と上陸の許可を得るため、八千戈王に謁見しました。
それが出雲国造の祖と伝わる「天穂日」(アメノホヒ)とその息子「武夷鳥」(タケヒナドリ)でした。
出雲大社本殿です。
本殿を望むことは難しい造りですが、この八足門も素晴らしい威光を放っています。
通常は、この八足門の外から参拝します。
しかし正月や特別な時には、この八足門より玉垣を一つ越えて、中の楼門前での参拝が可能となるようです。
ところで、この八足門の前に、赤く丸い印が記されているのが気になります。
これが2000年に発掘された巨大宇豆柱の跡です。
直径1.35mの杉を3本を合わせ、鉄輪でまとめた直径3mの巨大な柱だったと云います。
境内に実物大レプリカがありますが、
少し足を伸ばして、「古代出雲歴史博物館」へ行けば、
その実物を見ることができます。
かつて出雲大社の神殿は高層神殿だったと伝わっていましたが、長らく疑問視されていました。
それが真実だったと、ついに証明されたのです。
博物館内では、発掘当時の模型や、
貴重な資料、
様々な学者さんによる高層神殿の模型があります。
巨大宇豆柱の存在は証明されましたが、
その神殿の形状は、まだまだ議論の余地があるようです。
発掘された古い陶器に、高層神殿の絵が描かれています。
やはり、一番ロマンをかき立てられる姿は、
これです。
天空にまで伸びる大神殿、
そんな勇姿を夢見てしまいます。
さて、八足門前に戻ります。
横を見ると手水舎がありました。
よく見ると、本殿敷地内から水が出ています。
御神水と言っていいようです。
神仏習合の時代には鰐淵寺の管理下にあり、仏教色を加えた出雲大社境内だったようですが、
江戸時代に徳川幕府の莫大な援助の下、7年の歳月をかけた大造営で、簡素で壮大な「神の宮」が復古したと云います。
大社本殿を周回して見ます。
右に回り込むと、細長い社殿があります。
東十九社(ひがしじゅうくしゃ)といい、扉が19枚あるのがその名の由来だそうです。
西側にも西十九社があります。
これは神在月の時、八百万の神々が宿泊する神殿だと云います。
その先に「釜社」(かまのやしろ)があります。
御祭神は、スサノオの子神「宇迦之御魂神」(ウカノミタマノカミ)」と伝わります。
宇迦之御魂は稲荷神で、食物を司る神です。
スサノオの子と伝わっていますが、「釜」はスサノオを表しているので、スサノオの分身のような存在と考えてよいかと思います。
本殿の方を見ると、手前に2社あります。
手前が「天前社」(あまさきのやしろ)と呼ばれ、大国主が兄弟の八十神に殺されかけた時、助けた二女神の「蚶貝比賣命」「蛤貝比賣命」を祀っています。
奥は「御向社」(みむかいのやしろ)と呼ばれ、大国主の后である「須勢理比売命」(スセリヒメノミコト)を祀っているそうです。
ただ、須勢理比売は架空の神であるらしく、本来は向家の祖神を祀る場所だったようです。
悠然と建つ出雲大社本殿ですが、玉垣の外から垣間見ることしかできません。
その姿を模型で見ると、このようになっています。
正面2間×側面2間、切妻造妻入りの檜皮葺。
千木までの高さは24mあると云います。
さらに歩みを進めると、平成の大遷宮で新たに造られた「文庫」と呼ばれる建物があり、
本殿の真裏にスサノオを祀る「素鵞社」(そがのやしろ)があります。
記紀に大国主の父神と記されたスサノオを祀る社は、聖域である八雲山の麓の小高い位置にあり、大社本殿を見下ろすように建っています。
富氏が語るには、スサノオとは実は、秦国から渡来した徐福のことであると云います。
彼は最初の渡来に際し、2000人の童男童女を連れて来日し、その中には先行した天穂日と武夷鳥親子もいました。
スサノオは不老長寿の妙薬を探して出雲を訪れますが、それが見つからないことを知ると一度秦国へ帰国しています。
その際に連れてきた童男童女らは、そのほとんどを出雲に残していくことになりますが、彼らは稲作や製鉄などの大国最新の技術をもたらしたそうです。
しかし、天穂日と武夷鳥は出雲王国を我が手中にするべく画策して、当時の王と副王を殺害した疑いがあります。
素鵞社は摂社であるにも関わらず、荘厳な神気に包まれています。
その秘密のひとつは、本殿裏にある磐座にあるようです。
そこには、八雲山の霊気が凝縮したような大岩がありました。
霊気の威圧に圧され、ひび割れたという磐座の割れ目からは、大いなる神気が漏れ出しているようでした。
大社本殿裏に向かって見ると、例のうさぎの像があります。
気持ちをほっこりとさせる様々なうさぎ。
どれも愛らしいです。
その中で一心に参拝するうさぎもいました。
ともあれ、ここが大いなる聖地であることに間違いはないようです。
さて、西側へ回ってきました。
大社本殿の西側には「筑紫社」(ちくしのやしろ)があります。
ここには大国主に嫁いだ、宗像三女神の長女「多紀理比売命」(タキリヒメノミコト)が祀られています。
しかしながら、大国主・八千戈王に嫁いだのは次女の「多岐津比売」(タギツヒメ)であり、多紀理比売(田心姫)はその前王「天之冬衣」(アメノフユキヌ)に嫁いでいます。
事実はさておき、北九州の宗像族の始祖である「吾田片隅」(アタカタス)もまた、出雲王家の血筋でした。
大社本殿の真西に至ると、拝所がもうけてあります。
今では随分知られたことですが、大国主の御神体は、拝殿正面の南向きではなく、西を向いています。
なのでここが御神体と相向かえる場所なのです。
この特殊な構造は、大国主の怨念を鎮めるためだとか、様々な説が飛び交っていて、出雲大社ミステリーの一つと云われています。
しかし富氏の話によると、これは古代王家の宮殿の形をそのまま神殿として採用しているらしく、それ以上の理由はないそうです。
西十九社がありました。
手前に謎の社がありましたが、これは宝庫のようです。
そしてその間にある2社の氏社、「天穂日」と、
穂日の17代裔の「宮向宿禰」を祀っています。
こうして見て見ると、古代出雲王だった八千戈王は、徐福と穂日の一族に囲まれて鎮座していることになります。
出雲大社本殿の天井には素晴らしい、色彩も鮮やかな「八雲之図」が描かれていますが、なぜか「八雲」と言いながら「七雲」しかなく、六雲が東向きなのに一雲だけが西向きに描かれています。
これは敢えて八雲を完成させない「未完」の状態にして、封じていると説く人もいるようです。
しかし「八」とは古代出雲で聖なる数字でありましたが、例えばスサノオ徐福が奉じた「道教」では「七」が聖なる数字となっています。
また出雲大社の御神体は、一切が謎で誰も見たことがないということになっていますが、一説に鉄の釜であるという話もあり、
鉄の新文化と稲作をもたらしたスサノオは鉄の釜を御神体とすることがあるようです。
度々裏で画策してきた穂日の子孫「果安」は当初、大社にスサノオを祀ろうとしていました。
ひょっとすると、僕らは大国主を拝していると思わせて、実はスサノオを拝されているのではないか、という疑念が沸きました。
僕は平成20年から25年までの5年にかけて行われた「平成の大遷宮」の初年度に催行された「御本殿特別拝観」に参加させていただき、この本殿内部にまで足を運ぶ機会を得ました。
「御本殿特別拝観」の時は、御神体が仮殿へ移されているということで、特別に二つの玉垣を越えて奥の本殿まで進ませていただきました。
玉垣を越えるたびに外界とは明らかに違う神聖な空気が流れてきます。
本殿内部は「心御柱」(しんのみはしら)を中心に神聖な世界が広がっていました。
そこはどこからともなく清らかな風が吹いていて、まるで太古の昔から変わらぬなつかしい空気を感じたのを覚えています。
僕が本殿の内部で感じたのは、積年の恨みなどではなく、とても安らかな、太古から続く静謐とした時間でした。
神仏分離の際、スサノオを祭神とした大社を、元の大国主に戻してほしいと幕府に懇願したのは、他ならぬ当時の出雲国造でした。
様々な伝承、疑惑などで古代史は溢れていますが、僕は自分の足で実際に聖地を訪れ、その時の感覚を信じることにしています。
多くの人々が連綿と信奉してきた出雲大社は、間違いなく古代日本から続く麗しき聖地であることを確信しています。
私が初めて出雲大社を訪れた1997年から再訪する2016年までの約20年の間にはパワースポットブームや御朱印ブームが起こったわけですが、久しぶりの出雲には、さすがにだいぶ整備がされたなぁ、と感じました。整備により失われるものもありますが、食事やトイレなどの利便性は助かります。1997年ではまだ宇豆柱も発掘されていませんし、次の「出雲国造館」の記事で紹介されている神楽殿の大しめ縄への小銭の投げつけは全盛の頃だったかと思います。私もやりました。なかなかハマらなかった覚えはありますが、最終的にどうだったのかは忘れてしまいました。
今あるうさぎ像、可愛いですよね。私は本殿裏で拝んでいる子たちが好きです。「大国主様、ありがとう」と助けてもらったお礼を言っているようで。
大国主の御神体が西を向いている件、黒田龍二・著「纒向から伊勢・出雲へ」を読んで、「王様の宮殿の造りがそういうものだっただけかぁ!西を『向かされている』のではなく、当たり前に坐すとそうなるだけなんだ!」と喜んだものですが、その後、大元出版の本にあっさり「そうだよ」と言われるという…。
黒田龍二氏の考古学的・建築学的見地からの証明と、出雲王家の伝承を根拠に、もうミステリー枠から外してこれが通説として広まって欲しいと願ってしまいます。
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黒田龍二さんの著書を読んだことはありませんが、知っている人は知っている事実だったのですね。
若い頃はオオクニヌシの怨念を封じ込めているのだ、というオカルト説を結構真に受けていたものです。
ここにも記させていただいておりますが、私は運良く平成の大遷宮で大社本殿の中を拝見する機会をいただきました。
悠久の時間がそのままそこに残されているような、どこか懐かしい気持ちになったのを、今もリアルに思い出します。
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