
12月4日のこと、
鳥飼の翁は凱旋された神功皇后のために夕べの御膳を奉仕した。
「ささ、お召し物もこちらへお着替えください。」
男装のまま現れた皇后の身を清めさせ、着物を献上した。
「此度の戦は我が胎内におる皇子のためだった。
皆よう尽くしてくれた。」
そう言うと、皇后は自ら近臣に酒を勧めて回った。
中には感激にむせび泣くものもいたが、宴は大いに盛り上がる。
…
神功皇后らは懐かしい橿日の宮へと戻ってきた。
しかし一息つく間もなく、重臣の一人が皇后の元へやってきて告げる。
「姫様、異敵は抑えておりますが、なお野心を抱くものがいないとも限りません。
今しばしご移動なされて、安全な場所でご出産くださりませ。」
「うむ、では何処がよい。」
しばらく黙考し別の重臣が告げる。
「蚊田の地が守りやすく、よろしいかと思います。
距離もそう遠くはなく、皇子を清める霊泉もございます。」
そうして神功皇后らは再び橿日の宮を出立した。
…
「わぁ、お姫さまきれい。」
子供らのはしゃぐ声が聞こえる。
雪も舞い始めた寒空の中、村人や子供達は美しいと評判の皇后様の行列を一目見ようと集まっていた。
さながら祭りのようなにぎやかさだ。
美しい着物を纏った神功皇后も陣痛の痛みと寒さに耐え、輿の上で気丈に振る舞った。
交代で皇后の神輿を担いだ村人は誇らしげに他の者に自慢している。
小高い丘の上で夕暮れを迎えた。
「襲津彦はまだ来ぬのか。」
武内宿禰と安曇磯良たちの船が、大川に無事帰港したことは聞いていた。
そして急ぎこちら向かっているという。
が、まだその姿を見ることはできないでいる。
「姫様、間も無く武内様も参られるかと存じます。
蚊田の宮までもう少しですので、今しばしご辛抱を。」
「そうか、わかった。」
皇后は沈む夕日を眺め、誰にとなく呟いた。
「でもとても寂しい。」
ひときわ痛む陣痛に、神宮皇后を包む冬の風は冷たさを増していた。
…
「姫様っ」
武内宿禰は馬を降り、躓きかねない勢いで地を駆けた。
八つの幟旗がはためき、兵士が厳重に警戒している。
そこは深い杜に守られた蚊田の宮だった。
「なりませぬ武内様。
今、姫様はまさにご出産の最中でございます。」
白い天幕に覆われた一角の前で、武内宿禰は制された。
難産、と言ってよい。
皇子はなかなか生まれてはこなかった。
「来たか、襲津彦よ、
ならばどうか、皇子が無事生まれるよう、祈っておくれ。」
天幕の中からは息も絶え絶えに、皇后が言う。
武内宿禰はすぐに祭壇を立て、一心不乱に神に祈った。
無限にも感じられる時が過ぎていく。
そしてやがて杜中に赤子の声が、高らかに響いた。
「ひ、姫様っ」
「襲津彦、喜べ、立派な男の子じゃ。」
12月14日、後の応神天皇となる「誉田別皇子」が誕生した瞬間だった。


【鳥飼八幡宮】
12月14日、姪浜に上陸した神功皇后は、今川にある鳥飼村で歓迎を受けました。

そこで村人は夕べの御膳を奉仕したと伝わります。

楼門の前に御神木がありますが、

「夫婦楠」と呼ばれ、そこには縁結びの紐が結び付けられています。

鳥飼村で歓待を受けた神功皇后は、「この度の戦は胎内の皇子のためだった」と告げ、大変喜んで近臣に自ら酒を勧めました。

鳥飼八幡宮は西区の中心地そばにありますが、静謐さを保っています。

武内宿禰に由来する「不老水」もあります。

鳥飼八幡宮は、もとは鳥飼村の松林にあったそうですが、黒田長政公がそこに別荘を建てたため、移築したそうです。



【日守八幡宮】
香椎に戻った神功皇后は、より安全を期して、蚊田(今の宇美)へと移動して出産することを決めます。

その途中で立ち留まれたところに「日守八幡宮」(ひもりはちまんぐう)があります。

神功皇后はここで「何事だろうか」と言って日を見守ったので「日守」と呼ぶようになったと伝わります。

境内には日守石という石があるということですが、果たしてこれがそうなのか、違う気がします。

ここはかつて天神森といったそうで、天神様(菅原道眞)の石の祠もありました。


【駕輿八幡宮】
駕与丁池のほとりに大きな市民憩いの公園があり、その一角に「駕輿八幡宮」(かよいはちまんぐう)があります。

ここも神功皇后が宇美に向かう途中で休憩をとった場所と伝わります。

その時この地の村人が神功皇后の神輿を担いだことから駕輿丁(かよいちょう)という地名が生まれました。

「駕」は乗りもの、「輿」は神輿、「丁」は仕丁(つかえのちょう)として身分の高い人を運ぶ集団の事をいいます。

寒空の中、陣痛に耐えての移動でしたが、輿に乗ったきらびやかな神功皇后の姿に、里人も色めき立ったことでしょう。

輿を担いだ人たちは皇后を慕って、ここに宮を祀り続けたのでしょう。

境内の奥に、御神木と思われる大きな木と五穀神を祀った石がありました。



【旅石八幡宮】
須恵川のほとりに「旅石八幡宮」(たびいしはちまんぐう)があります。

夫である天皇を亡くし、多くの戦を越え、寒さの中度々迫る陣痛に一人耐え続けます。

「あなわびし」
気丈に振る舞ってきた神功皇后は、つい、弱音を吐いてしまいます。

それは皇后が男装をした兵士から、一人の女性へと立ち戻った瞬間でしょう。

この皇后の発した「わびし」が「旅石」の由来となったと伝わります。

一段高くなったところに天神社があります。

そしてここにも五穀神の石碑がありました。



【宇美八幡宮】
ついに神功皇后は蚊田の地に到達します。
それが今の「宇美八幡宮」(うみはちまんぐう)であると伝わります。

宇美八幡宮は多くの御神木が境内にある、杜に囲まれた神社です。
神門手前にも中がえぐれた御神木があります。

12月14日、神功皇后はついに、ここで「誉田別皇子」(ほむたわけのおうじ)、
後の応神天皇(おうじんてんのう)を出産します。
皇后は拝殿左手にある槐の「子安の木」に取りすがってお産みになったと伝わります。

皇后は無事凱旋なされたとはいえ、まだ情勢に不安はありました。
いつ野心を抱くものが襲ってこないとも限らない状況です。

皇后は御産所の四隅に八本の幟旗を立てさせ、厳重に警備させました。
これが「八幡」の名の由来となったと伝えています。

拝殿右手には大きな御神木が一際目に付きます。

「湯蓋の森」(ゆふたのもり)と言います。

樹齢二千年以上とも推定されているこの大木の下で神功皇后が産湯を使ったのでこの名が付いています。

一本の大木ですが、樹勢良い木などは一本でも「森」と表現することがあります。

その奥には黒田綱政公が寄進した「聖母宮」があります。

福岡県指定文化財の聖母宮御神像が奉安されており、「二十五年に一度」御開帳の神事が斎行されているそうです。

本殿の裏手に「子安の石」があります。

安産祈願を終えた妊婦が“お産の鎮め”としてここの石を預かって持ち帰り、
無事ご出産の暁には、別の新しい石に子供の名前を記して、
健やかなる成長を願い、お宮参りの時にお納めするのが慣しとなっています。

これは神功皇后が三韓征伐の際に腰に巻いたという「月延石」が由来かと思われます。

境内右奥にも大きな御神木があります。

ここは皇后が産衣を掛けたところと伝わります。

やはり樹齢二千年以上ということです。

その奥に何かあります。

御神水「産湯水」(うぶゆのみず)です。

神功皇后が産湯に使った水ということです。

境内の散策を終えたら、更なる聖地を忘れずに訪れましょう。

境内裏からまっすぐに伸びる道の先に小高い丘があります。

子安橋を渡り、

鳥居を抜けると

小さな祠があります。

「胞衣ヶ浦」(えながうら)といいます。

「胞衣(えな)は、産舎の後なる川(宇美川)にてすすぎ、筥に入れて山(胞衣ヶ浦)に奉安した」と伝わります。

胞衣、つまり胎盤を箱に入れて奉納し、その地を「胞衣ヶ浦」と称して、祠を建てお祀りしてるということです。
乙女から戦士となり、ついに母となった神功皇后。
その旅はまだ終わることはありませんでした。

余談ですが、宇美八幡宮に来たら「子安餅」を食べないといけません。
