
「やはり餅は用意できぬか」
やがて年も明けようかという深夜、千代の松原にいくつもの松明が焚かれていた。
煌々と炎が照らす先には深く掘られた穴があり、今まさに、一つの箱がその中に納められようとしていた。
「首尾はいかようか」
そこへ武内宿禰がやってきて問う。
闇に炎でうっすら浮かぶ海の影を見て、さらに言う。
「やはり此処しかないな」
武内宿禰は一つの呪を施そうとしていた。
今、埋めている箱の中は神功皇后とその皇子を繋いでいたもの、「へその緒」だった。
此度の三韓征伐は、皇后と胎内の皇子を結ぶ強い絆が成したと言ってもよい。
その象徴たる「へその緒」をこの地に埋め、またいつか攻めてくるかもしれない異敵から母国を守る結界を創るつもりだ。
「武内様、まこと失礼ながら、お話がございまして」
長の一人が話しかけてきた。
「どうした」
「はい、明日の新年の儀に際しまして、姫様にお納めする鏡餅ですが」
長はためらいつつ話を続ける。
「実は私共は漁師にございまして、餅にする米をどうしてもご用意できません。
そこで、代わり海の幸にて献上させていただけないかとお伺いに参りました。」
「そうか、姫様は海ともご縁あるお方、海の幸にもきっと喜ばれよう。
しかして、その幸とは一体何かな。」
すると長の合図で、松原の奥から木の板に乗せられた餅のようなものが運ばれる。
それを見た武内宿禰は思わず噴き出し、夜の海原に響かんばかりに大笑いをした。
長はひたすら畏まって立っている。
「これはいい」
武内宿禰を笑わせた海の幸は、餅と見紛わんばかりの大きなナマコだった。


箱崎の港に赤い鳥居が浮かんでいます。
そこから伸びる「筥崎宮」の参道は、約1kmあります。

参道手前の箱崎浜は、かつては白砂青松とうたわれた美しい「千代の松原」でした。
博多港修築により現在は見る影もありません。

「石造一ノ鳥居」です。
黒田長政により建立。
鳥居の先端が反り上がり、貫と笠木の長さが同じです。
筥崎鳥居と称されます。

筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。
御祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫命。
創建の時期については諸説ありますが、延喜21年(西暦921)に醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に建立し、大分八幡宮から遷座したことになってます。

宸筆とは天子・天皇の直筆のことです。
敵国降伏の御宸筆は筥崎宮に伝存する第一の神宝で、紺紙に金泥で鮮やかに書かれているそうです。
醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録があります。
現在楼門に掲げられている扁額は、文禄年間、小早川隆景が楼門を造営した時に、亀山上皇の御宸筆を謹写拡大したものです。

鎌倉中期の蒙古襲来、いわゆる「元寇」のおり、俗に云う神風が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運の神としても有名です。

楼門の右手の朱の玉垣で囲まれる松の木は、御神木「筥松」(はこまつ)です。
神功皇后が応神天皇を出産した際、胞衣(えな)を箱に入れてこの地に納め、印として植えられたのがこの「筥松」です。
「筥崎(箱崎)」由来もここにあります。

胞衣とは胎盤やへその緒の事を言います。
宇美八幡宮にも胞衣を納めた「胞衣ヶ浦」という場所がありましたので、
「胞衣ヶ浦」に胎盤を、「筥松」にへその緒を納めたのではないかと僕は想像しました。

ここに応神天皇の胞衣を埋めるよう画策したのは武内宿禰ではないかと思います。

そこに「敵国降伏」の祈りがあったとしたら、今回の三韓征伐で神功皇后と応神天皇の絆そのものと言えるへその緒は
これ以上ない御神体となったと思われます。

境内には扁額の文字のモデルとなった亀山上皇の木像が安置されています。

境内に「湧出石」という石があります。

箱崎浜の真砂が敷かれる境内の地面に顔をのぞかせています。
古くは天変地異を占ったそうです。

この石を撫でると「運が湧く」そうです。
国に一大事がある時には地上に姿を現すと伝えられます。

境内には他にも、お潮井や利休が奉納した石灯籠など、様々な見所があります。

年を通じて多くの祭り事がなされる筥崎宮ですが、9月12日~18日に行われる「放生会」は多くの参拝客で賑わいます。

その初日の早朝で売り切れてしまう「放生会はじき」は、毎年プレミアのつく貴重な縁起物です。
転売屋が高値で販売したりと問題もあって、2017年からは製造されなくなってしまい残念です。
僕が持っているおはじきは、平成の大遷宮にちなんだデザインのもので、伊勢と出雲の図柄が描かれた貴重なものです。

