篠崎八幡宮〜神功皇后紀 34

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「皇子よ、彼れが穴門じゃ」

神功皇后はついに出発の地へ戻ってきた。
かつては仲哀天皇と在り、今はその息子と居る。
武内宿禰は軍兵をまとめ上げ、いよいよ最後の決戦へと準備を整えていた。

数日前に「洞の海」(くきのうみ)から到津にたどり着いた神功皇后は、再び熊鰐に屋敷で歓待を受けた。
この気さくな初老の男を、皇后はとても好ましく感じている。

「久しいの、鰐」

「姫様はますます美しく、そして勇ましくなられましたの。
立派な母親にもなられまして、私も嬉しゅうございます。」

暖かいもてなしに、皇后の気持ちも緩んだ。
しかしそれも束の間、熊鷲は険しい顔つきで神功皇后に告げた。

「姫様、大和では麛坂王と忍熊王が結託し、兵を挙げました。
豊浦宮でもすでに兵士が配備されております。」

「そうか、やはり戦は避けて通れぬか。
しかし我が皇子が王となるは神の御意志ぞ。
それを妨げるなら、先王の子と言えども、退けねばなるまい

襲津彦よ、今すぐ軍をまとめ、布陣せよ。
これより我が軍は大和を目指し、麛坂・忍熊の軍を征圧する。」

武内宿禰は迅速に、そして厳整に陣を整えた。
神功皇后は主だった重臣を引き連れ、小高い山に登る。
そこにある大きな石の上に皇子を立たせると、懐かしい関門海峡を眺め、
そして群臣を振り返り、言った。

「穴門は近し。
神威は我にあり。
皆の者よこれが最後の戦いだ。
今一度、皇子のために勝利しよう」

山からの追い風が皇后の髪をなびかせる。
眼下には統制のとれた兵士らの布陣が広がっていた。

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【到津八幡神社】
神功皇后が宇美での出産後、穴門(長門)の「豊浦宮」(とゆらのみや)に帰る途中に船を寄せたのが「到津」であり、
そこにあるのが「到津八幡神社」(いとうづはちまんじんじゃ)です。

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拝殿は小高い丘の上にあり、長い石段を上がります。

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古代には海に突き出た岬だったのかもしれません。

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御祭神は神功皇后、応神天皇のほか、宗像三女神と豊日別命(とよひわけのみこと)となっています。
豊日別命とは豊前国の国土そのものを神格化したもの、つまり国魂です。
猿田彦大神と同一神とされる場合もあるようです。

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境内にルーレットのような石を回して占う変わったおみくじがありました。

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また朱色鮮やかな稲荷社は神聖な空気に包まれていました。

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【仲宿八幡宮】
到津に上がった神功皇后は、再び「熊鰐」(くまわに)の館に世話になります。

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その熊鰐の館があったところが「仲宿八幡宮」(なかやどはちまんぐう)です。

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ここでは今も熊鰐の子孫が宮司を務めているそうです。

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皇后はここに「忌宮」(いみのみや)を造らせ、精進潔斎を行って天神地祇に祈って籠られたそうです。
その間、皇后の船を直し、さらに船を造っていたと思われます。

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境内には胎石(はらみいし)というものがあります。

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神功皇后が「我が皇子を孕んだ時の腹に似ている」と自ら崇めた石と伝わります。
安産・難病平癒のご利益があるそうです。

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「操の松」(みさおのまつ)と「牛守神社」には、悲しい伝説があります。

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むかし、あるところに庄屋の「狭吾七」という若者が住んでいました。
彼は飢饉が続く中、増税の命に対し農民の窮状を訴え、役人から追われることになりました。
八幡の前田の村に、逃げてきた狭吾七はそこで村人のあたたかい手当を受けます。

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そうして狭吾七が村になじんで生活をし始めた頃、巡礼途中の美しい娘がやってきて村の観音堂に泊まりました。
その娘の名は「おさよ」と言いました。
美しいおさよは村の若者達の人気の的となりますが、同じ境遇の狭吾七にだけ心を許し、いつしか恋仲となっていきます。
これをねたんだ村の若者たちは八月の仲宿八幡の祭りの夜、前田海岸に狭吾七を連れ出し、牛に引かせて海岸を走り、松の木にくくりつけて火を放ちます。
狭吾七は焼け死に、村の若者は逃げ散りました。
愛しい狭吾七の死を知ったおさよは、「せめてあの世で一緒に」と後を追って自殺します。

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と、このことがあって以来、村には次々と異変が起こるようになりました。
村では忌日の度に火災が起き、牛が死にました。
これは、おさよと狭吾七のたたりだと噂が拡がり、村人達は小さな社を立てて、二人の霊を慰めました。
それ以来、村には異変が起こらなくなったということです。

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【豊山八幡宮】
熊鰐は仲哀天皇・神功皇后が豊浦宮にやってきたとき、佐波浦まで迎えに行って、北九州の「岡の湊」まで案内した人です。
洞の海で皇后の船が立ち往生したときも岡の湊から駆けつけ、「魚鳥池」(ぎょちょうがいけ)を造り、皇后を助けます。

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そんな熊鰐と神功皇后の再会は3年ぶりのことでした。
熊鰐は神功皇后に皇子の「御衣」を贈ります。
心のこもった贈り物に、皇后もとても喜んだのでしょう、
三韓征伐に使用した弓矢を山中に納め、天下が豊かになるようにと祭祀を行います。

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その山が「豊山」(ゆたかやま)となり、そこに「豊山八幡宮」(とよやまはちまんぐう)が建てられました。

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豊山八幡宮の境内からは、皿倉山がとてもきれいに見えました。

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【住吉神社】
遠賀川と平行に流れる小さな西川沿いに「住吉神社」があります。

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神功皇后はこの丘に登って、水鳥が飛び交う様を眺めていました。
その後、三韓を従えることができたのは住吉大神のおかげであると、自ら一株の松を植えました。

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その場所が今も住吉神社として伝わっています。

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【熊野神社】
八幡にある「熊野神社」です。

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小高い丘の住宅街の中にありました。

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神功皇后は麛坂王・忍熊王の謀反の知らせを受けたと伝わっています。

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皇后は武内宿禰に皇子を預け、和歌山の紀伊国に潜行させます。
その際、紀伊の熊野の大神を祀ったとされています。

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【旗頭神社】
北九州市八幡西区の国道3号線沿いに「旗頭神社」(はたがしらじんじゃ)があります。

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交通量の多い道路沿いですが、杜が広がる赤い玉垣の中に神社があり、一定の静寂さを保っています。

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皇后の凱旋の時にここで武内宿禰は陣を構えました。

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武内宿禰の軍令が厳整としていたので、この地区を「いくさばる」と称したそうです。

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応神天皇の時代にも武内宿禰はここに陣を張っています。
麛坂王・忍熊王との決戦も近づき、整然と並んだ兵士には緊張がみなぎっていたことでしょう。

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後世にも武人たちに厚く敬われた武内宿禰は、ここで連綿と祀られてきたようです。

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【乳山八幡神社】
板櫃川沿いの道路から約140段の急な石段を登ったところに「乳山八幡神社」(ちちやまはちまんじんじゃ)があります。

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ここは神功皇后が皇子にお乳を与えた聖地とあります。

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この絵、武内宿禰功績を讃えたものだそうです。
よく見る絵柄ですが、皇后はもっと若く美しい女性で、武内宿禰も壮年の男性のはず。

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境内では石がやたら目立っていました。
これはよくある皇后腰掛の石でしょうか。

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親子石もあります。

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これから激しい戦があるというときに、神功皇后は武内宿禰に皇子を預け、紀伊へ潜行させる決心をします。
皇后はここで、最後のお乳を皇子に与え、武内宿禰に委ねたのかもしれません。

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皇后の旗竿の竹を切り出した「勝田勝山神社」はここの摂社となっていました。

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【篠崎八幡宮】
いよいよ関門海峡も見え始めようかというところに「篠崎八幡宮」があります。

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壮麗な楼門に、

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広大な境内が広がります。

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神功皇后は穴門の豊浦宮への帰路、鷹尾山の山頂にあった大石の上に皇子を立たせ、「穴門は近し」と懐かしまれたと云います。

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その大石は「力石」とも呼ばれ、篠崎八幡宮の拝殿に向かって左側にあります。

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この大石に立ったと伝えられる皇子は、その後立派に成長し、応神天皇として優れた功績を残しました。
ゆえに力石は「立身出世」「子安成長」の御利益があると云います。

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もちろん、今はこの力石の上に立つことは憚られますが、立ったところで長門、関門海峡は見えません。

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かつては鷹尾(高尾)山の山頂にあったそうですが、遷宮に伴ってここに移したそうです。
しかしよくこの大石を持ってこれたものです。

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拝殿の向かって右側にも、大きな石があります。

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昔、宮尾山の麓の蛇渕というところに悪さを働く一匹の大蛇が棲んでいました。
悪さに困った村人が篠崎神社の宮司に相談したところ、出雲国にて八岐大蛇を退治した神の御霊をお招きし祀りするように、と言われます。
そこで村人は祠を建てて祀ったところ、大蛇はおとなしく優しい大蛇になりました。

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年頃になった大蛇は、ある時、美しい女蛇と出逢い、恋におちます。
しばらく幸せに2匹暮らしていましたが、やがて女蛇のところに貴船神の使いがやって来ます。
それは急を要することだったので、女蛇は大蛇に事を告げる間もなく、そっと去ってしまいました。
そうとをは知らない大蛇は、毎日女蛇を待ち続け、あまりの恋しさに紫川左岸の蛇渕の大石を枕に大声で泣き続けました。
この様子を見兼ねた八雲社の祭神が、大蛇を竜神に姿を変え、女蛇のもとへと導いあげました。

それからこの大石は「蛇の枕石」「夜泣き石」と呼ばれ、恋愛成就のご利益があるとされています。

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近年、この「蛇の枕石」から、
あたかも「大蛇が竜神となり、恋成就し天に昇る」かのごとく
自然と木が生えてきたそうです。
どうやら、木斛(もっこく)のようです。

参拝の人々もこの枝に恋みくじを結ぶなどして、心願成就をお祈りしているそうです。

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本殿裏に小さな祠を見つけました。
どうやら古墳になっているようです。

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ついに懐かしい、豊浦宮がある穴門が見えてきました。
そこには麛坂王・忍熊王の兵が待ち構えているようです。

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避けては通れない、引き返すこともできない戦が待っています。
力石の上に皇子を立たせ、群臣に振り返り、「穴門は近し」と言った神功皇后の言葉には、
決意のようなものを感じました。

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