
京都嵯峨野の松尾大社から徒歩10分、ひっそりとした住宅街の先に「月読神社」(つきよみじんじゃ)があります。
松尾大社の摂社とありますが、独立した神社としての風格をもつ神社です。

この月読神社のことが日本書紀に記されています。

487年、「阿閉臣事代」(あべのおみことしろ)は「顕宗天皇」(けんぞうてんのう)の指示により朝鮮半島の任那に遣わされます。
阿閉臣事代が壱岐に立ち寄った時、「月讀尊」(つくよみのみこと)から自分を祀るように神託を受けます。
阿閉臣事代はこの事を顕宗天皇にご報告し、山城国葛野郡(京都)の歌荒樔田(うたあらすだ)に月読尊を祀る神社を創建しました。
歌荒樔田は桂川沿いであったと云われていますが、当時の水害により、今の地に移されたそうです。

この月読神社創建に際し、協力した人が壱岐出身の「押見宿禰」(おしみのすくね)です。
押見宿禰は、壱岐からこの地にやって来て、そのまま月読神社の神職として仕えました。
明治時代までは押見宿禰の子孫である松室氏が代々、神職を継いでいたと云います。

境内は決して広くはないですが、落ち着いた趣があります。
「解穢」(かいわい)の水は、自己の罪、穢れ祓う霊水だそうです。
飲用はできませんので、両手を清めます。

神秘的な杜の麓に御船社があります。
祭神は「天鳥舟命」(あめのとりふねのみこと)です。

天鳥舟命は「神の乗る船」だとか、出雲の国譲りに際して、タケミカヅチらとともに天降った神だとか云われています。
が、おそらくは徐福らとともに渡来した「穂日」の息子「天夷鳥」(あめのひなとり)のことだと思います。

それは出雲王家の子孫にとっては、苦々しい人物の名です。

その横には、陰陽石がありました。

聖徳太子社です。

見事な流造の月読神社本殿です。
松尾大社のそれは見れませんでしたが、このような美しい本殿なのでしょう。

ところで「月讀尊」とはどんな神様なのか。
記紀はアマテラス、スサノオと一緒に生まれた神で、その詳細は語られていません。
一説には、月を読むとは「月齢」を数えるということで、暦を司る神であると説明します。

月読の神は古代邪馬台国とされる豊前宇佐の女王「豊玉姫」が祭祀していた神だったと、富家伝承は語ります。
徐福とともに佐賀平野にやってきた渡来人の子孫「物部族」は、宇佐の豊王国と連合し、畿内の大和王朝に東征を行います。
この時、豊玉姫の娘「豊鍬入姫」(トヨスキイリヒメ)は三輪山でこの月読みの神を祭祀し、一世を風靡しますが、やがてその人気を妬んだイクメ大王に追い込まれ、丹波籠神社の海部氏に匿われます。
海部氏といえば秦氏とつながりの深い一族です。
籠神社の聖地「真名井神社」には、今は消されていますが、石碑にイスラエルの六芒星が刻まれていました。

京都には松尾大社や伏見稲荷大社、木嶋坐天照御魂神社など、秦氏の痕跡が残る神社が多数存在します。
この月読神社もそうした聖地の一つなのかもしれません。

境内の隅に「月延石」(つきのべいし)がありました。

神功皇后が三韓征伐の時、出産を遅らせるために腹に巻いたとされる3つの石のうちの一つと伝わります。

月延石の周りにはたくさんの安産を祈願する白石が捧げられていました。
またすぐそばでは、縁を結ぶ木も見守っていました。

