吉野ヶ里遺跡:筑秦ノ饒速日 06

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徐福は祖国と見間違うほど似た干潟の大地、佐賀平野に降り立った。
彼はそこを永住の地と定めた。
「肥前国風土記」に「むかし三根の群と神埼の群は、合わせて一つの群であった。…むかし、この群に荒れる神がいて、往来の人が多く殺された」と
書かれている。
彼らの集落は最初は小さなものだった。
しかし稲作が順調になってくると多くの者が土地や水を求めた。
彼らは先住民を追い払い、抵抗する者は殺す必要もあった。
秦国の民が築いた王国はやがて「築秦王国」と呼ばれる。
築秦、つまり「筑紫」の名の始まりである。
徐福は築秦王国成立に先立って名を改めた。
彼が呼ばせたその名は「饒速日」。
物部一大王国の始まりだった。

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近くにありながら、それまであまり興味を持つこともなかった「吉野ヶ里歴史公園」、そこは徐福の民が拓いた築秦王国の集落跡であると、例の斎木雲州氏の著書で知りましたので、訪ねてみました。

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おみやげ屋とレストランを併設したエントランスを抜け、外堀の橋を渡ると、それらしい門が見えてきます。

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そこは集落の結界であるらしく、「逆茂木」(さかもぎ・乱杭)と呼ばれるバリケードが草むらに隠れていました。

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米作りが盛んになると、水や土地を求めた争いもしばしばあったということです。

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まずは「南のムラ」を目指しました。

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少し小高く盛り上がった場所は祭壇のようです。

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「南のムラ」です。

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そこにはムラ長の家などが復元されています。

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いわゆる竪穴式住居であり、縦に掘った住居に藁葺きの屋根を乗せた感じです。

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光は差し込みますが、薄暗いです。

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残暑が厳しい季節でしたが、住居内は涼しげでした。

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縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されています。
筑後川や肥沃な有明海の干潟は、生きるために必要な恵みをもたらしたのです。

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紀元前4世紀頃の弥生時代、吉野ヶ里丘陵の中に小さな集落「ムラ」が形成され始めます。
徐福たちも最初はこうしたムラの一つとして集落を形成したのでしょう。
しかし彼らがもたらした米作りが盛んになると、ムラ同士の争いも起き始めます。

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武に長けた渡来人の一族がこれを制し、大規模な集落へと発展するのはそう難しいことではなかったでしょう。
やがて吉野ヶ里丘陵の南に集落の環濠が出現し、それは吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠へと拡大していきます。

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集落が発展していくと、防御が厳重になり、物見櫓なども建てられました。

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吉野ヶ里遺跡は大きく、王など支配者層が住んでいたとされる「南内郭」と、祭祀などが行われていた「北内郭」に分かれます。
頑強そうな南内郭の手前には、

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高床式倉庫と竪穴式の住居が並ぶ「倉と市」がありました。

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立ち並ぶ倉庫は、当時の活気を思い浮かばせます。

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中央には市を管理する「市楼」(しろう)と呼ばれる建物があり、

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端には護衛のためでしょうか、兵士の住居もありました。

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一際厳重に守られた「南内郭」へ進みます。

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物見櫓に囲まれた門を通ります。

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広い敷地に建物が並びます。

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物見櫓に登って、全体を見てみます。

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南内郭の外側は、幾重にも堀と垣根が張り巡らされています。
V字型に深く掘られた外壕の総延長は約2.5キロメートルあり、囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなるそうです。
そして四方に物見櫓、これは要塞そのものです。

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南内郭は王などの支配者層の住まいがある場所なので、このような造りになっているそうです。

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吉野ヶ里遺跡の発掘作業は長期に亘り続いていましたが、大々的な報道が始まったのは平成元年(1989年)2月23日と、比較的最近のことのようです。
この前日の2月22日が「吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発見された日」とされています。

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平成2年(1990年)5月に史跡、平成3年(1991年)4月に特別史跡に指定され、平成4年(1992年)に国営歴史公園の整備が決定します。
報道がなされた当初は吉野ヶ里遺跡が「邪馬台国」があった場所ではないかと噂され、騒然となりました。

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それは、この 吉野ヶ里遺跡から、「魏志倭人伝」に伝わる邪馬台国に類似した遺構や遺物が次々と発見されたことによります。

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しかし残念なことに、吉野ヶ里遺跡は邪馬台国跡ではありませんでした。
ここは徐福らが住み着いた、物部族の里であるということです。

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彼らはここに、築秦の一大王国を築いたのです。

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屋根の形状が違う住居がありました。

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「王の家」とあります。

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中には優男風の王がいました。

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調度品などは他の同時期の遺跡などから発掘されたものを参考にしているそうです。

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王の寝室を見ると、

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一段土が盛ってあります。
これは発掘の状況から、そのように造られていたものだそうです。

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王の住まいの周りにも堀があり、

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奥には妻などの住まいがありました。

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北内郭を目指します。

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吉野ヶ里遺跡のシンボルとも言える「主祭殿」の素晴らしい外観です!
…ん?

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なんと主祭殿は工事中でした。
しかし中を見ることはできます。

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しっかりと組まれた骨組み。
吉野ヶ里遺跡は本物へのこだわりから、同時期の遺構のみを活用し、考古学や民俗学、建築学など幅広い専門家の意見をもとに、集落や建物を推定復元しているそうです。

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2階に上がると、

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ずらり、

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神妙な面持ちの老若男女が並び、

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中央に偉そうな人が座っています。
ミーティングの途中だったようです。

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3階に上がると!

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ひ、ヒミコさま!

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いえ、彼女はヒミコではありません。
なぜならここはヤマタイ国ではないからです。

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しかし彼女は巫女であり、この時代はある意味、王よりも重要な存在でした。

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この当時の政治は、神による神託が絶対であり、巫女なしに政治は成り立たなかったからです。
ただ、初期の物部族は道教の星神を信奉してはいましたが、巫女という存在はありませんでした。
それゆえ第一次大和東征においては、出雲の太陽の女神を信奉する巫女を持つ勢力に勝つことはできなかったのです。
この反省を踏まえ、彼らが求めたのはヤマタイ国のヒミコたる宇佐の豊王国女王「豊玉姫」でした。
彼女は月神(月読神)を信奉し、絶大なる人気を得ていたのです。
やがて物部族は豊王国に同盟を持ちかけ、これに成功していきます。

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ところで彼女は何に向かってお告げを受けようとしているのでしょうか?
彼女が頭を垂れるその先にあるものは、「北墳丘墓」、そう先祖の墓なのです。

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「北墳丘墓」を目指します。

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日本の神とは、大自然に対する畏怖と、祖先への敬いが融合して生まれました。
自然崇拝と祖先崇拝、それが出雲族、渡来族、日本原住民族に限らず、すべての民族に共通した概念でした。

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ただ出雲族と物部族は、死の概念は違っていました。
輪廻転生に近い概念を持っていた出雲族にとって、死とは生まれ変わりです。
魂は尊いものとして崇められてきましたが、魂の抜けた体はただの抜け殻として、穢れたものとして扱われます。
簡単な防腐処理は施されますが、基本的に山に放置し、3年後骨だけになったところを回収して大きな岩(磐座)の側に埋葬します。

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しかし神仙志向をもった物部族は不老不死の概念を持っています。
彼らにとっては死後の体も重要であり、丁重にもてなされました。
それはエジプトのミイラなどにも似た考え方です。

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彼らの遺体は大きな甕に、丁寧に折り曲げられ、収められました。

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この辺りの多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられています。
それぞれ発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、国の大乱を思わせる戦いの痕跡がのこされていました。

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その先に南の祭壇と同じように、土が盛り上げられた、異様なオーラを放つ場所があります。

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これが「北墳丘墓」、集落の首長などの墓ではないかと考えられているところです。

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内部は空調が管理されていて、発掘した当時のまま保存がなされています。

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中にもいくつかの甕棺が置かれていた形跡があります。

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吉野ヶ里遺跡は、徐福が住んでいたシャントン省にある「臨し城」とそっくりだそうです。

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また、この時代から日本の埋葬方式、文化などが激変しており、明らかに強大な外部からの影響力が働いていることは間違いありません。

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またこれら甕棺は、シャントン省から出土しとたものと同じだそうです。

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出土してる銅剣や鋳型工具も秦時代のものと一致するそうです。

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「肥前国風土記」の三根の群・物部の郷にある記事によると、「この郷にの中に、神の社がある。…その神を鎮め祭られた。これにより物部の郷という」と記されているそうです。

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三根の群・物部の郷とは吉野ヶ里の近辺であり、吉野ヶ里には徐福が住んだと云います。
吉野ヶ里が物部氏の重要な旧跡であったことは、奈良時代まではよく知られていたことだったそうです。
しかしそのことが「記紀」に書かれなかったので、次第に人々は忘れてしまったのです。

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北墳丘墓内には、古墳の様々な形式の模型がありました。

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四隅突出型墳丘墓は出雲王家の墓に多い形式です。

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方形周溝墓は大阪加美遺跡などに見られます。

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円墳や

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前方後円墳は一般に馴染みのある古墳の形状です。

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築秦王国を造った徐福は、筑後平野で亡くなったと云います。
なので吉野ヶ里遺跡のどこかに埋葬されている可能性が大きいそうです。
祖国の希望を連れ出し、長い航海の果てに造り上げた彼の王国は、徐福・饒速日の痕跡を故意に隠された経緯によって今は正確に知ることが困難になりましたが、それでも彼の肉体は彼の地に眠り、今も永い夢を見続けているのです。

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