高天原:八雲ニ散ル花 番外

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『日本書紀』神武天皇記に曰く、「高尾張邑に土蜘蛛がいたので殺害し葛城邑に改めた」

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奈良県御所市の葛城地区に、神々が住まう天上界「高天原」(タカマガハラ)と呼ばれる場所があります。
神話好きなら、高天原と聞いただけで気分が高まります。
その高天原と呼ばれる場所を訪ねてみると、高鴨家の聖地「高鴨神社」から高台に向かった、金剛山の中腹に広がる高原台地にありました。
そこは大和盆地を一望できる標高の高い場所で、神が大和の民を見下ろすのに相応しい雰囲気を持っています。

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高天原を目指して山道を進むと、「高天彦神社」(たかまひこじんじゃ)が見えてきます。

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鬱蒼とした森の先にある聖地・高天彦神社。

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樹齢数百年と云われる杉の並木道が参道を作り出しています。

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高天彦神社の主祭神は「高皇産霊」(タカミムスビ)です。

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社名の「高天彦」は「高皇産霊」の別名と云われています。
が、高皇産霊は男神ではありませんでした。

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高皇産霊は葛城氏の祖神で、天地創造の時、高天原に出現した神だとも伝わっていますが、それも違います。

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高皇産霊は別名を「高木神」と呼ばれていますが、彼女の名前は「栲幡千々姫」(タクハタチヂヒメ)と言います。
記紀では両者は母娘とされていますが、同一の人物のことです。

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参道脇には末社の「三十八神社」がありました。
葛城王朝の歴代の王を祀っているそうです。

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栲幡千々姫は日本に渡来した「徐福」の母親の日本名であると云います。
徐福の父親は徐猛といい、記紀では「押穂根」(オシホネ)と書かれています。
徐福は二度来日していますが、最初の渡来地、「出雲」から「丹波・丹後」地区にかけての「海家」の地盤には、高皇産霊・高木神を祀る神社はほとんど見られません。
逆に二度目の渡来地である筑後平野一帯には、高木神を祀る神社が数多く鎮座します。

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つまり、その高皇産霊を祀る当社は、東征で大和入りした物部族が祀ったということになるのだと思います。

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日向神話で語られる「高天原」が、のちに大和に伝わったのでしょう。

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境内には明治天皇と神武天皇の遥拝所が設けてあります。
神武は二度の物部東征を一つにまとめ、神話化した創作上の人物です。

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社殿の左脇に、うっかり見落としそうになる石碑がありました。

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「蜘蛛塚」と呼ばれているそうですが、案内板など何もありません。

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土蜘蛛とは日本の先住民で朝廷に従わなかった人々のことです。
日本書記によれば、神武天皇の皇軍は葛のつるで網を作り、 それを覆いかぶせて反抗する土蜘蛛を捕らえて殺したそうで、それでこのあたりを葛城と呼ぶようになったと伝えています。

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境内の外に出ると、「鶯宿梅」(おうしゅくばい)と呼ばれる梅の古木があります。
その昔、高天寺で修行をしていた小僧が若くして亡くなります。
師は小僧の死を嘆き悲しんでいたところ、梅の木に鶯がきてホーホケキョではなく、
「初春のあした毎にはくれども あはでぞかえるもとのすみかに」と鳴いたと伝わります。

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鶯宿梅からあぜ道のような道を歩いた先にも土蜘蛛に関連した「蜘蛛窟」があるといいます。

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ここで左に曲がらなくてはならなかったのですが、僕はまっすぐ進んでしまいました。

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柵のようなものがありますが、先に進めます。

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小道を進みます。

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なんかありました。

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「蜘蛛窟」か、と思いましたが、

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なんだか違います。

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ちょっと気味悪くなり、これはいかんと来た道を戻りました。

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戻って先ほどの道を曲がると、小さな標識がありました。

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しかしその先も、道というか、獣道のようなものがあるばかり。

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勇気を出して進むと、ありました。

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「蜘蛛窟」です。

「そのひととなり、身短くして手足長し。しゅじゅと相類す」
「恒に穴の中に居り。故、賤しき号を賜いて土蛛と日う」

近いところで「葛城一言主神社」境内にも土蜘蛛塚があります。
葛城の笛吹の村で育った大彦は「長髄彦」(ナガスネヒコ)と蔑称で呼ばれました。
葛城で土蜘蛛と呼ばれたのは、大彦の一族や尾張族だったのではないでしょうか。
葛城にある数々の蜘蛛塚は、物部の大和制圧の痕跡だったのです。

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高天彦神社帰り際に気づきました。
「幸せを呼ぶカエル石」とあります。
天然石に無理やりつけた感のある目が安っぽく感じましたが、慣れてくると意外に可愛い、カエル様でした。

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8件のコメント 追加

  1. hiroban2 より:

    金剛山の頂上にある葛木神社は「大社造」です。
    わざわざ、大社造を用いる理由があったのでしょうか?
    私は過去に出雲大社に関心があり様々な場所に行きましたが、金剛山の頂上に大社造が存在することが驚きでした。

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    1. CHIRICO より:

      多くの神社が古代の蔵、高床式倉庫などを社殿にしているのに対し、大社造りは王家の屋敷をそのまま神殿にしています。御所・葛城地方は東出雲王家の天日方奇日方が開いた土地で、後に西出雲王家の多岐津彦も移住しています。祭神一言主は東出雲王家8代目少名彦の八重波津身(事代主)のことなので、出雲族の末裔が祖神の住まいを金剛山に造ったのではないでしょうか。

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  2. narisawa110 より:

    何処に書き込もうか迷ったのですがヤサカイリヒコ関連で掘り下げていて、「押穂根」「八坂彦」「八坂トメ」「天白」「麻績」の関連で面白いことが。

    まず、こちらをご覧ください
    https://kodaishi.net/person/gods/yasakatome
    このページは、八坂トメが忌部氏という事を言いたいようなのですが、私も持ってる古代豪族系図収覧の5ページの画像です。
    大麻比古命が忌部連の祖で、タテミナカタは忌部の親戚から嫁さん貰ったのか?天背男がWIKIから見てもカガセオっぽいな?やっぱり天白神は北斗七星か、という話はおいておいて、その上の「栲幡千千姫命 」で目が飛び出ましたw
    天児屋根の奥さんになっているのです。
    謎の出雲帝国では、秋上氏のみの証言で、千家の先祖がコヤネで藤原氏に差し出した、それで千家が40代ほど足りないとあります。
    結構バカにならないと思いなおしまして
    「押穂根=児屋根」がないか探ってみました。
    あることはあるんですね。
    https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12669846644.html
    まあ、ごっちゃになってアビ彦まで同一視なのでおかしいですが、特筆すべきは海幸彦と言ってるところでしょうか。
    アビ彦の下に生島が出てるので、これからいくしまたるしまの話も掘り下げてみます。
    天児屋根命の息子が天忍雲根神=村雲=天牟羅雲命との考え方もあるようで、我々が思うよりコヤネはずっと徐福に近い存在であることが分かりました。
    https://genbu.net/saijin/osikumo.htm
    「大年神=天児屋根命」では出てきません。
    「五十猛=天児屋根命」でも出てきません。
    素戔嗚だと記紀で別人の検索結果が大勢になってしまうので意味なし。

    藤原氏が千家をけん制する為に、記紀においてスサノオの父親を押さえにかかったとするのなら何となくコヤネを押さえたのは分かる気がしますが、ミカヅチで補強するあたり、藤原氏の自演は凄いものだと思いますね。

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    1. CHIRICO より:

      天児屋根も謎深いですね。
      富氏は児屋根を小屋根と書いて、ヒボコの末裔で息長系の一族と考えてあるようです。
      小さな屋根というように、もとは有力な氏族ではなかったとのこと。
      藤原氏がなぜミカヅチを祭祀したのかも謎ですが。
      なんで神八井耳ではないのでしょうか。

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      1. narisawa110 より:

        想像なのですがなのですが、ニギ御魂かと。
        八井耳の先祖が須佐男だとすると蛮行し過ぎなので、良い側面の素戔嗚を架空の小屋根にして、父系の先祖とし、母系の先祖を自分の神社のミカヅチにし、出雲の歴史を消した事と調整を取ったという仮説
        歴史を消すというよりは全ての豪族の落とし所になる様な気がします。
        とは言っても藤原推しの歴史書になる訳です。一番得をしてそうですよね。

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          なるほど、落とし所をはかったというのは納得がいきますね。藤原氏と言えど、他豪族を無下にはできなかったはず。むしろ持ち上げるところは持ち上げて、利用したかったと思われます。
          守屋の死後、衰退したとは言え武力と呪力に長けた物部を利用するため、物部偏重の記紀になったというところなのでしょうか。
          いずれも推測の域はでませんが。

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  3. たぬき より:

    「クモ」と呼称されるは、敵対する人や勢力を言ったモノです。

    10世紀に成立した延喜式の中で、神話の高天原は葛城(御所市)の高台一帯を指すと明記されているようです。

    今の金剛山は元来、(特に奈良県側からは)高天山と呼称されていて、その山麓の高台一帯だから高天原。
    なかんずく、御所市の「高天」地区が中心だとか。

    ところで、高天原は国(勢力)の宮都/首都と捉えると判りやすいかと思います。
    現在の我が国の高天ヶ原は東京。
    、、、都(高天ヶ原)に昇る、地方(下界)に下る。
    その前は京都。、、、奈良、、、磯城、、、葛城(高尾張)//
    別格(根元)が出雲(高天原)

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      なるほど、高天原は固有の地名であると考えていたので混乱しました。
      「高天原は国(勢力)の宮都/首都」であると捉えると、分かりやすいですね。
      宮崎神話で有名な高千穂の、くしふる神社の奥地に「高天原遥拝所」という聖地がありますが、そこはどこへ向かって遥拝しているのか、謎でした。
      ひょっとすると、物部族の宮都を遥拝していた場所なのかもしれませんね。

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