
至魏景初三年 公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢 魏以為親魏王假金印紫綬 正始中卑彌死更立男王國中不服更相誅殺 復立卑彌呼宗女臺與為王 其後復立男王並受中國爵命
「魏の景初三年(239年)に至り、公孫淵が滅ぼされた後、卑彌呼は初めて使者を派遣して朝貢した。魏は親魏王と為して金印紫綬を与えた。正始中(240~248年)、卑彌呼が死に、交代して男王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、女王に戻して卑彌呼の宗女、臺與を立てて王にした。その後、また男の王が立ち、いずれも中国の爵命を受けた。」
女王豊玉姫の葬儀を終えた豊彦と豊姫は、イクメ王に遅れて大和入りを果たした。
人々は豊国から大和入りした二人を、「豊来入彦」「豊来入姫」と呼んだ。
「イクメのやつは何を勝手なことをしている。敵国の女を后に迎え、あまつさえ姫巫女として祭り上げるとは何事か。」
豊来入彦は、異母兄弟であるイクメ王の勝手な振る舞いに激昂していた。
イクメは兄ではあるが、親魏倭王の女王・豊玉姫の長子こそは我であるという自負があった。
豊来入彦は早速イクメに詰め寄り、彼が姫巫女に仕立て上げようとしていた狭穂姫と離縁させた。
「皆の者聞け、魏国より親魏倭王の後継者として正式に認められた者こそ、我が妹である。これより妹、豊来入姫が三輪山の巫女を務める。そして我こそが大和の大王とならん。」
豊来入彦は、大和の祭りの庭「登美の霊時」を占拠し、三輪山の西北麓、笠縫村に檜原神社を建て、豊来入姫に宇佐の月神を祀らせた。
それは大和・豊王国の栄華が最も輝いた瞬間だった。
しかしそれを面白くないと思う男がいた。
物部イクメ王である。
兄である自分をないがしろにする義弟をハメる、狡猾な計画を思いついていた。
「おい、使者を出せ。」
イクメ王が文を届けさせた先は、旧出雲王家であった。


大神神社と同じく、三輪山を御神体とする由緒ある神社があります。
それは太古に「倭笠縫邑」(やまとのかさぬいむら)と呼ばれた場所にある「檜原神社」(ひばらじんじゃ)です。

大神神社から桧原神社へ向かうには、「山辺の道」という遊歩道を歩くと良いです。

山辺の道には、のどかな遊歩道に沿って古社古跡が残ります。

また途中には感じの良い茶屋などもあって、

一息いれるのに良いです。


さて、檜原神社が見えてきました。

かってこの付近は「倭笠縫邑」(やまとのかさぬいむら)と呼ばれていました。
「日本書紀」によると、第10代崇神天皇(物部イニエ王)は『宮中に天照大神の御神体を置いておくのは畏れ多い』と、皇女「豊鍬入姫命」(とよすきいりひめのみこと)に託して御神体を宮中から大和の笠縫邑に遷させたとあります。
豊鍬入姫命は、その場所に堅固な石の神籬を造り祀りましたが、それがこの檜原神社です。
やがて豊鍬入姫命から天照大神の鎮座する場所の選定を受け継いだ「倭姫命」(やまとひめのみこと)は、最終的に伊勢国の度会宮(今の伊勢神宮)に天照大神を遷したと記され、故に檜原神社は「元伊勢」と今に呼ばれるようになったと云います。

が、これは全くデタラメな話であって、そもそも大和にいるかのように記された崇神・イニエ王は九州の都萬国から出ることなく亡くなっています。
イニエの代わりに大和入りを果たしたのがイクメであり、豊彦・豊姫でした。

檜原神社に来てみると、一般的な神社にあるはずのものがありません。
そう、ここにはおよそ社殿と呼べるものがないのです。
そこは変わった形の鳥居のみがあり、三輪山自体を御神体として直接祭祀する、太古の形式を今に残しているのです。
檜原神社の鳥居は「三ツ鳥居」、または「三輪鳥居」と呼ばれる形式のもので、大神神社では垣間見ることしかできなかった三ツ鳥居とほぼ同じ形をしています。

田道間守らを大和から放逐し、イクメ王がほっとしたのも束の間でした。
大和王国で最後まで抵抗していた「道主大王」の軍勢に、紀伊国で集めた軍勢を率いて、「武内大田根」が味方したのです。
大田根はイニエ王から宿禰の称号をもらい、「武内宿禰」と称していたくらいなので、当然イクメ王は味方であると思っていたのです。
しかし大田根は、豊玉姫とイクメが謀って、魏国で大田根に銀印青綬と位を授けないようにしたのを恨んでいました。
一時劣勢となったイクメ軍でしたが、豊玉姫の葬儀・築墓を終えた豊彦が率いる豊国軍が、遅れて瀬戸内海から河内に到着しました。
これで一気に形勢を逆転させたイクメ軍は道主王・武内宿禰軍を丹波まで追いやることに成功するのです。

豊国から大和入りした豊彦は「豊来入彦」と呼ばれるようになり、その妹、豊姫は「豊来入姫」と呼ばれました。
豊来入彦は、妹の豊来入姫を月の女神の姫巫女として、新政権の中心にする計画を持っていました。
しかしいざ豊来入彦が大和に入ってみると、イクメ王は狭穂彦と休戦し、その妹「狭穂姫」を后に迎え、先に三輪山の姫巫女として彼女を任命していたのです。
魏国から和国王に任命された女王は宇佐の豊玉姫であったので、その息子たる豊来入彦は、自分が物部イクメ王より上で、親魏和王の後継者となる資格があると考えていました。
事実、月読の神の信仰を広めて人気を集めていた豊来入姫は、魏の使節「張政」から宇佐豊玉姫の後継者として指名されていました。
つまり彼女が、『魏書』に書かれた卑弥呼の後継者「台与」(トヨ / 臺與)だったのです。
和国が魏国の属国になっている以上、イクメ王もその事実を認めざるを得なかったと云います。
豊来入彦は、イクメ王が狭穂姫と手を切ることを求め、イクメ王はそれに応じざるを得ませんでした。

檜原神社の敷地内に「豊鍬入姫宮」(とよすきりびめぐう)があります。
由緒では、当地は伊勢神宮選定の折、一時的に天照大神が鎮座した場所なので「元伊勢」と呼ばれていると記されています。

「豊鍬入姫」は、大和姫に先駆けて天照大神の鎮座地を探し歩いた王女と記紀に記されていますが、事実は豊国の豊来入姫のことでした。
記紀は魏国の属国となった、親魏倭王の事実をどうしても隠したかったらしく、「豊国から来た」ことを示す「豊来」の文字を書き換えて「豊鍬入姫」と記したのでした。

豊国の軍勢を引き連れてきた豊来入彦は、奈良盆地の南方を通り、三輪山に向かって軍を進めましたが、途中で進路を変えます。
その先には、三輪山の南方、鳥見山の「登美の霊時」があったのです。
豊国の軍勢は鳥見山に攻めのぼって登美の霊時を占領します。
次に、三輪山の西方と南麓を地盤とする登美・賀茂家の人々を追い払い、豊国の兵士をその村々に住み着かせました。
登美・賀茂家は大和の大豪族で勢力をもっていましたが、豊国軍の不意打ちを防御できず、南河内や山城国に逃れることになりました。
豊来入彦とともに来た豊来入姫は、三輪山の西北麓・笠縫村に檜原神社を建てて、宇佐の月神を祀りました。
当時は陰暦を使う時代でしたので、月の干満を見て月日を決めたことから、月神は「月読の神」と呼ばれました。
檜原神社では毎月、満月の夕方に、豊来入姫による月読の神の礼拝が行われました。
春秋の満月の夜に行われた大祭には、多くの人々が参加し信者が次第に増えていったと云います。
豊来入姫は「若霊留女貴」(ワカヒルメムチ)と呼ばれるようになり、やがてその名は月神の代名詞になりました。
しかし「大日霊女貴」(オオヒルメムチ)と呼ばれた狭穂姫が祀る、太陽の女神の時ほどの隆盛には至らなかったと云うことです。

それまでの登美の霊時に登れなくなった賀茂氏は、仕方なく三輪山の東方の山を鳥見山と定め、新しい登美の霊時とし、三輪山を裏から、秘かに遥拝することにしました。
この新霊時の祭りに、大和の豪族が大勢参列するのを知ったイクメ王は、とある計画を立てます。
親魏倭王には成れないと悟ったイクメ王は、「和国の戦乱は収まった」ということにして、魏国の使者「張政」を国に帰し、魏との国交を止めたいと考えました。
さらにイクメ王は、出雲の富家に密使を送りました。
内容は出雲兵を大和に送り、豊国軍を追い払ったら、三輪山と磯城郡の領地を与えるというものでした。
イクメ王はまたさらに、豊来入彦軍の武力を利用することを考え、豊来入彦に狭穂彦軍の討伐を命じました。
これにより狭穂彦は甲斐国まで追われ、そこで日下部連と苗字を変えました。
狭穂姫は三輪山の太陽の女神を奉じて近江から尾張国の丹羽郡に逃げ隠れたと云うことです。

豊国軍が近江攻撃に向かった隙に、大和国磯城郡から山城国に追われていた賀茂家当主「賀茂田田彦」(カモノタタヒコ)は、三輪山に向かって進撃しました。
出雲から出陣してきた軍勢の応援を得て、田田彦は旧領地を奪い返し、さらに磯城王家の領地の一部も手に入れました。
笠縫村にいた豊来入姫は、田田彦の軍勢に追われて北方へ逃げるしかありません。
賀茂田田彦は、三輪山の祭祀を復活させましたが、このときから、三輪山の司祭者は男となりました。
豊来入彦は、大王軍を迎え討つために丹波国に陣を敷きます。
大和から追われた豊来入姫は、豊国軍の駐留する丹波国に一時避難しました。
その場所は、天橋立そばにある「籠神社」であると云うことです。
豊来入姫(豊鍬入姫)が避難したということで、そこも今は檜原神社と同じく「元伊勢」と呼ばれています。
こうして物部イクメ王は邪魔者を狡猾に全て排除し、大和の新王朝の大王となったのです。


三輪山近くに行かれてたのことで、記事遡ったら18年時点でこちらを書いてらっしゃったのですね😅 ここは因縁上外せなく行く度に色々想いを巡らさせられる場所です。
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白石の神域は行かれましたか?
ここも関係あるのではないかと、思っています。
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はい、もちろん参りました。南(奥不動寺・ダンノダイラ) 北(高山神社)両ルートです☺️
昔は近代ほど高い木がないとしたら、山が見渡せる場所であったことも想像できますし
ゲシノオオダイラとは、という点からも
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こちらのコメントに際してのことごありましたので、コメントいたします。
三島鴨神社へこないだ行ってきました。西面、サイメンというバス停、そう、五条さんがあそこの宮司さんに聞かれた通りありました。
私はここの境内に大山咋命と一緒に祀られてる木花咲耶姫は、クナト大神と幸姫のセットだと思ってしまいたした。
それから、同じく三島鴨神社の境内社の唐崎神社は、御祭神の天児屋根命は大彦生命なのではないかなあと。違うかな。クシヒカタやタタライスズヒメとは、大彦は随分後なので違うかもしれませんが。。
もう一つ面白いことがありました。添御縣坐神社の八木宮司さんは、富雄の登彌神社の御祭神の天児屋根命は長髄彦のことだと思うと言われました。そして添御縣坐神社の武乳速命は長髄彦のことです、と、こちらは確信をもたれた表情で話してくださいました。
八咫烏についても、そこに古代いた豪族の宇井氏、鈴木氏、あと1人は忘れましたけど、これらの三豪族の先祖がカラスを崇拝してて、三本の八咫烏の指はこれらの三豪族のことを言う、と、土着の古老さん方から口伝として聞いているとのことでした。1時間くらい立ち話しで話して下さりなかなか興味そそられる有意義な時間となり感謝でした。富家の出雲口伝はベースとして、私も揺るぎない史実に近い大切な生き字引だと思っております。それとは全く違う考察を地政学に基づき考察されておられる八木宮司さんのお話も大変興味をそそられました。
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檜原神社、山の辺の道をひたすら歩いてたどり着きました。行って良かったと思えるなんとも、カッコいい(こんな、陳腐な、表現で失礼ですね。)お社だと思いました。
豊受大神のいるところ、全て元伊勢、との印象をうけました。お茶屋さんもよかったです。
笠水、笠彦と、笠はウケのことで海家の象徴なのですね。倭笠縫邑にいけてよかったです。
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地元の情報は宝の山ですね😌
タイムリーなことに、narisawaさんの情報では、
京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)の境内社・井上社(御手洗社)の神は、唐崎神の異称をもっていて、これは瀬織津姫神のこと
だそうです。瀬織津姫も天児屋根も越智族の出自と思われます。
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天女伝説。。全く違う伝承が2パターンありますがなぜなんでしょうね。そして豊受大神は、一体誰がモデルなのか。。またの名を天之御中主神とか国常立尊と書いてありましたが、トヨヒメということは、豊来入姫のことなのかな。。
そして恐るべき持統天皇の詠んだ万葉集、羽衣とは、この天女伝説のことを指し、これまた彼女の野望を謳ったものと何かで読みました。この天女伝説とは丹後のミステリーですね。知りたいなあ。まさか、阿波の一族が関係あるとは。阿波、ちょいちょいでてきますね。勾玉職人の忌部氏ルーツとかも。
五条さんは阿波との関係を紐解き旅中、越智族がキーワードなのですね。パンドラの箱は何重にもなってそうですが、ワクワクします。全てが繋がる何かに辿り着けたらよいですね☺
大神神社、白蛇の筋とは、なんとも素晴らしい。山ノ神遺跡のさらに奥とは貴重な情報をありがとうございます。逃さず辿り着けるよう頑張ります。
ダンノダイラの運転。その怖さ、想像できました(^_^;) 五条さんは、しかしまあ、本当にチャレンジャーですね。面白く書いていただいている箇所にこそ、実はガチで怖かっただろうなここは、と思って読んだりしてますよ。
また、地元の山陰で面白い発見がありましたらご報告させていただきます。ありがとうございました。
いつか恐らくどこかで、なぜかお会いできるような気がしています。お社巡りをしていると、不思議な御縁って本当にありますよね。繋がるものはたどれるように出来てるのかなと思います。出雲の塩谷小学校で出会った、幼い頃のお友達に、10年後、京都の学生時代にその子の大人になってからの親友と出会い、出雲に帰って再会を果たしたことがあります。不思議ですね。三島鴨神社行ってみます☺ 大彦とクシヒカタの生きた証を見つける旅も続きます。
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豊鍬入姫、豊受大神、天鈿女、台与、これらは皆、豊姫のことだと富先生は話しておられますね。
ダンノダイラの反対側には、白石の神域という、これまた神秘的な場所があるのですが、ここまで行く道もまた酷道です。
クシヒカタもなかなか名前が出てこないので、痕跡を見つけるのは一苦労ですね。先日行った多度大社の参道入口に、それっぽい名前を見かけました。
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ここのコメントを読んでいたら、五条さんからの返信で1つ気になるコメントがありました。これまで私の理解と興味がついていかなくてスル~してました。
なんと天児屋根命も越智族かもなのですね。そういえば、児宮神社が徳島にありますね。私は天児屋根命は海人族である海部や安曇氏と関係するのかと思っていました。
それから遠智と書いてオチとも読むのかなあ。。気になることが1つあります。
壬申の乱での大友皇子のことが気になって仕方ないので(天智、天武天皇が存命中にかなり消された歴史がありそうで)書紀を見直していたら
天智天皇七年の条「蘇我山田石川麻呂大臣の女(ムスメ)有り、遠智娘(おちのいらつめ)といふ。」とありました。
オチ、というのが出てきて気になりました。2人の娘を産んでいて、大田皇女と後の持統天皇。
書紀をきちんと読み直すと、それはそれでなんかヒントになることもあるなあと最近は思うことがあります。
また、天武天皇が草薙剣に祟られた、と書いてあるのも、これは草薙剣=天叢雲剣、天叢雲=海部=海人族=安曇氏や尾張の人たちに大海人皇子軍勢はクーデターで酷いことしたんかなあとか。ほとんどの豪族が、天智の悪政のため、大海人皇子側についたようなことを記憶しておりますが、他にも何か隠された意味もあるように思います。海人族である海部や安曇氏と越智族は何か関係あるのでしょうか。越智族の娘さんがたくさん嫁いだのでしょうか。
藤原を祀る春日大社の春日氏はもとは和邇氏=海人族で安曇氏や海部氏がやはり関係するから春日大社若宮の祭神は天押雲根命、これは名前が似てるなあと思ったらやっぱり天叢雲命のことでした。これも気になります。
海人族、越智族、同じ航海技術をもってますよね。。
なんで壬申の乱を調べていたら、これらのことが気になり進めなくなり、更に天児屋根命の祀られるところに大彦の影を感じ、大彦には海家の血も入ってるやんか、と思ったらまた頭がグチャグチャで、五条さんの渾身の系図を拡大してニラメッコしてます。GWに(笑)
ほんっと。。。ずっと拡大し続ける感じの老正直、老眼始まりの私には厳しい感じですがありがたく使わせて頂いとります。
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天児屋根についてですが、静岡の事任八幡宮の祭神「己等乃麻知比売」(ことのまちひめ)を調べていると、天児屋根の母親だということでした。夫は「興台産」(こことむすび)で、徳島の天川神社に祀られています。
千葉の安房神社に伝わる『安房国忌部家系』によれば、コトノマチヒメは「天背男」(あめのせお)と八倉比売との間に生まれた子の一人とされており、また、天背男は「一云」として「天石門別」であるとしています。
天石門別は高知の越智郷にある天石門別安国玉主天神社に祀られており、越智族の祖神であると考えられます。
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返信ありがとうございました。天気でフィールドワークがお忙しいなか、貴重な情報ありがとうございますm(_ _)m
静岡のお母さんとは。。古代とは思えない移動。航海技術の凄さを出自から感じました。
私の理解が全くついていけずすみません、これかろ頂いたコメントを調べてみようと思います☺
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越智族。。これまた興味深いですね。どんな考察中なのか気になります☺
海部についていま、伴とし子先生の本を読んでいますが、どうにも寝落ちしてしまいます((T_T)
モモソヒメも眞名井神社に、一時避難し伊雑宮を経て伊勢神宮内宮に祀られたというのもあったような気が。。。時系列がもうわからなくなりましたよ。
豊受大神と天照大御神の関係もほんと興味深いですね、眞名井神社は何かこうあるなあ〜というひんやりとした湿度を感じました。
太陽神であるサイヒメを祀る姫巫女として倭姫ことモモソヒメを内宮に、ということなら
三輪と伊勢は一心同体、何をいまさらですね☺
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丹後に伝わる天女伝承がヒントだと思っています。関わるのはワナサ、阿波から来た人だと言うことです。ワナサ神社が出雲にあり、稲佐の浜もワナサの浜だったのではないか、若狭もワナサ?そんな感じです。豊来入箱に嫁いだのが越智族の常世織姫だというのは宇佐家の伝承にあります。越智族・阿波族というのは、古代から各王家に后を出した家ではなかろうかと考えておりますが、最近では、神津島に祀られる阿波姫は幸姫ではなかろうかと思い始めています。ひょっとすると、三島鴨神社の本来の祭神も幸姫か。
三島鴨神社と溝咋神社の間には西面と書いてサイメと呼ぶ地区があると、三島鴨神社の宮司さんから教えていただきました😊
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それと出芽のSUETSUGUさん、トップページの下の方に桜のアイコンがありますのでクリックしてみてください。omouhanaで入れます。ただし偲フ花ではノーコメントでお願いします🫢
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早速のご返信ありがとうございます。五条さんもずいぶん悩まれたと知り、なぜかほっとしました(笑)私の理解力が余りについていかないのがもどかしかったところです。
富士林先生のヤマト政権の本を何度も読み返してますが、頭に時系列的な流れがなかなか入ってこなくて、やっと最近、おんぼらとした全容が分かりかけてきたかんじです。
勝先生のその本も買って2回は読んでいるはずなんですが。。そうなんですよね。。そう、八咫烏が違〜う。
オオタタネコが八咫烏で、私的には最近は落ち着きつつあります。
後は、三輪山祭祀姫巫女追い出され事件(笑)イクメの后だったサホ姫が豊来入彦から追い出され、今度はイクメから豊来入姫も追い出され籠神社に逃げた?あれ?大彦の妹のモモソヒメも確か追い出され、眞名井神社へ避難して、最終的に伊勢神宮、内宮へ。。と、2人のことが何だか被ってる?????記紀のヤマトに本当はいたはずもない崇神大王が宮中の天照大御神と大国主大神をご神力強すぎて追い出して、祀る場所探しを豊来(豊鋤)入姫から倭姫ことモモソヒメにその役目のバトンを渡したという、デタラメの話は、実はこのモモソヒメ、豊来入姫を三輪山から追い出したことの差し替え?
五条さんが言われるように、大元本内で一番分かりにくいのが、ヤマト内乱。そうですね。出雲屋敷と呼ばれるところを巡り答え探しをしたいと思います。ダンノダイラは登山かなあと思い、ヘタレの私は、十二柱神社から遙拝するつもりでした。神隠しに会いそうだわ、と思い夫についていってもらおうとして写真見せたら、思いっきり拒否されました(^_^;)
ダンノダイラの磐座もですが、あの出雲族が暮らした証の水路跡を是非とも見たいです。機会と御縁がありますように。
24日は大神神社で奥垣内祭祀遺跡と山ノ神遺跡を外さないことと、檜原神社まで歩いたら疲れるのでお茶やさんでほっこりするのも楽しみに行ってきます。
三島鴨神社は27日に予定です☺あそこは神社庁に属さない自由さがあるのでしょうか、看板にクナトの大神とか、トラビタ族のルーツのこととかが書いてある写真を見まして、ここは神職や宮司様が、研究されてるか、史実を知っておられるのではないのかなあと思いました。溝杭神社は行けたらいいですが、オホド大王の樟葉宮と阿弖流為のお墓に興味があり、蹉跎神社も行きたい。。とキリがありません(T_T)
五条さんみたいに、数回に分けていくしかありませんね。お社を回ると、旅の楽しみの食事が結構、疎かになってて、グルメに目がない私としたことが。。といつも泣けてくるので、もう少し余裕を持ちたいところです。おっとこんな時間でした。常識なかったです。すみません。
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ダンノダイラは奥不動まで行きますと、軽めのトレッキング感覚で行くことができます。三輪山の禁足地手前まで行くことができ、なかなか楽しいです。ただ、その奥不動までの車道がかなり崖っぷちの路で、大きめの車だと本当に怖い目に遭います。いつか機会があれば私が案内しても良いのですが。
山ノ神遺跡は最近知って訪ねた場所があるのですが、その奥にも磐座があります。手前の御滝場の辺りに小さな案内板がありますので、見落とされないように。白蛇のスジが入った磐座です。
グルメも旅の醍醐味ですね。しかし、奈良京都では、いつも何を食べようか悩むところです。率川神社近くの粟という店がおすすめだと妻に聞いていますが、人気店でなかなか予約が取れずにいます。率川神社は6月に三枝祭がありますので、休日が合えば、行く予定にしています。
八咫烏も本当に悩ましい😅僕もまだまだ、旅の途中です。
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五条さんこんにちは。細かいことのようですが、時系列が少し分かりにくいです。
「出雲と蘇我王国」に記されているイクメ王の最後のヤマトへの上陸戦のところ。初めはサホ彦の大軍を容易に突破できず、生駒にとどまり、その上、武内大田根と弟の甘美内がヤマトに寝返ったのでますますイクメは苦戦、 しかし、山陰の戦場から先にヤマト入りしてた、田道間守の軍政が物部軍に加わりそのお陰でイクメの東征が優勢となった、とあります。
なので、時系列的には、イクメは、田道間守のお陰でヤマト入りできたが、そのうちヤマトで大王気取りに振る舞う田道間守が邪魔になり、野見大田彦に田道間守を征伐してもらった(誇り高き野見大田彦は田和山での入根の仇のため出兵)
という流れだと自分はおもっていました。田道間守を追い払いホッとしたのも束の間、と五条さんが書かれてるところからの流れが、時系列的に????わからないのです。
2つ目の質問ですが、山城国に逃げてその後に三輪山祭祀を取り戻したという、賀茂田田彦とは系図の中でいうと、賀茂建角身命の子孫のことでしょうか。分かりません。
そして3つ目、豊来入姫が籠神社のある丹波に一時避難したとありますが、どうなのでしょう、海部家的には、物部とこの頃は協力体制だったのでしょうか。同じく火明命=饒速日命を祖神とするので初めは仲良くそして後に争う感じなのかと。。こないだちょうど籠神社と眞名井神社へ行ってきましたので気になります。
ガチで細かいようですみません。ヤマト内乱を調べてて、来週三輪山入りをし、大神神社、狭井神社、出雲屋敷跡、山ノ神遺跡、久延彦神社、檜原神社、十二柱神社(野見大田彦のファンです。島根の来待のお墓参りはかかせません)、率川神社
そして、葛城にある鴨都波神社からぐるっと高鴨神社まで7社車で周り、天候よしあし余裕あらば龍鎮神社へと行く予定です。そのため、今前予習してます。流れのおおよそが分かって行くのと行かないのでは全然違うと思うから。
先週はやっと、遠い祖先の沙沙貴山君の沙沙貴神社へお参りし、大彦の名前らしき石碑と少名彦が祀られてている願い石に触れ、小さな願い石を頂き、その後は天候に恵まれ竹生島へ向かうことができました。鳥居へ投げるカワラは。。。UFOキャッチャーのほうが確率高いと思いました。
お社巡りの前にこのブログが大助かりです。毎回楽しく読み勉強中ですが、ヤマト内乱と八咫烏、賀茂家の京都へ行った後のこと、下鴨神社横の出雲郷に前からいた出雲族のこと、わからないことだらけ。
それから大彦のこと。添御縣坐神社へ24日に行き、もう宮司さんに武乳速命は大彦のことなのでしょうか?と失礼ながら直接聞いてみようかと。そんなこんなで3月に入ってから畿内をイソイソ何回かに分けて旅しとります。播磨も廻ってきました。播磨素晴らしい。野見大田彦のお墓に行けずそれたけが悔やまれます。島根の来待の分骨されたお墓に報告に行きたかったですのに(T_T)
発見や出会いありとても楽しく旅してる最中です。
が、ますますわからなくなることも増えますね(^_^;)
話しを戻します。お忙しいところお手数ですので、お時間あるときでも気が向かれたときでもかまいません。上記の3つのわからないこと、五条さんの考察を聞きたいというか、少しご指南いただけたら嬉しゅうございます
m(_ _)m長々と失礼いたしました。
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出芽のSUETSUGUさん、こんにちは。
大和大乱の話ですね。ここらへんは、大元出版でもブレの大きなところになります。
この記事で参考にしているのは、勝友彦先生の『魏志和国の都』だったと思います。
本には「賀茂家の田田彦は土師家から養子に来た人であり、土師氏の古墳造りの技術者と親しく、モモソ姫の墓は土師氏により造られた。」と書いてありますね。
大彦の系図でも大元本内でブレがあり、僕もよく悩みました。
現在の僕の考えとしては、『出雲王国とヤマト政権』>『出雲と蘇我王国』・『飛鳥文化と宗教争乱』>『魏志和国の都』みたいな感じですかね。なので、出芽のSUETSUGUなりの解釈で良いと思います。『ヤマト政権』が斎木雲州著でリストアされていたのは、少々驚きでしたが。
豊来入姫が籠神社に匿われたのも謎ですよね。海部と物部は元は交流があったと思います。が、次第に険悪になったでしょうね。豊来入姫が海部に匿われた経緯は、今考察しているところですが、僕は個人的に越智族が絡んでいると睨んでいます。
大元本も完璧ではありませんので、ぜひモヤモヤっとしたところを、出芽のSUETSUGUさんの考察で埋めてください。それを探るための旅だと思います。そして面白い発見があったら、ぜひ教えてください。奈良もまだまだ奥が深いです。
そうだ、ダンノダイラは行かれましたか?三輪山探訪であれば、あそこも良かったですよ。
添御縣坐神社、なるほど、そこはノーマークでした。僕も機会があれば行ってみます。
摂津の三島鴨神社も良いですよ。宮司さんに会えれば、ぜひお話しされてください。
あと大彦で言えば、ちょっと面白いのが「宮島で一番美しい木」でしょうかね。大彦の子孫と言われるククチ彦由来だと思われます。
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