大倭神宮

投稿日:

4170711-2018-04-20-18-00.jpg

「奇稻田姫」(クシナダヒメ)の墓所があると噂される「大倭神宮」を訪れました。

4170716-2018-04-20-18-00.jpg

そこは大和国鹿島香取本宮の真向かいの、細い路地沿いにあります。

4170714-2018-04-20-18-00.jpg

辺りは住宅街ですが、そこだけこんもりとした、竹と雑木の杜があります。

4170689-2018-04-20-18-00.jpg

入り口は狭く、鳥居などはありません。
おそるおそる境内に入ると、

4170690-2018-04-20-18-00.jpg

石の鳥居の先に柵がしつらえてありました。

4170694-2018-04-20-18-00.jpg

この大倭神宮(おおやまとかみのみや )、予めお断りしておきますが、古来より伝わる伝承地などではなく、「矢追日聖」(やおいにっしょう)氏が幽界より得たと云う霊界史観を元に、のちに造られた聖蹟です。

4170692-2018-04-20-18-00.jpg

当社を管理するのも、氏が創立した「大倭教」という、いわゆる新興宗教です。
氏が幽界より得たという由緒『大倭神宮伝承の紀』「倭伝承 長曽根日子命」によると、

「熊野を迂回して大和に攻め込んだ狭野命の軍は連戦連敗だった。
登美の軍が勝ち鬨を挙げようとした時、一天にわかにかき曇り氷雨の襲来とともに、金鵄の瑞光があって、両軍矛を納めて大地に平伏した。
この天啓によって両軍和議が成立、長曽根日子命が差し出した条件を狭野命が無条件に受諾、長曽根日子命はヤマト国を狭野命に譲り、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃としてヤマトの婿養子となった。
それでもヤマトの人々の中には不満が残り、再び戦乱の様相が見えたので、長曽根日子命は自ら命を絶って、国が鎮まることを願った。」

ということです。

4170695-2018-04-20-18-00.jpg

それにしても当社は、「造られた聖蹟」であるにも関わらず、何かしらの神威を感じさせ、創作した氏の、大した演出力に感嘆します。
門には閂はあるものの鍵は掛けられておらず、中に自由に入れるようになっています。
しかしその中に足を踏み入れるのは容易ではありません。
足が竦む、と云う表現が正しいのかもしれません。

4170698-2018-04-20-18-00.jpg

向かって右奥には、小さな社があります。

4170699-2018-04-20-18-00.jpg

祭神は「鵄嶽大加美」(トミタケオオカミ)と「武隈大明神」(タケクマダイミョウジン)。
鵄嶽大加美は、山城鞍馬山の鞍馬大魔王で、文治三年(1185年)、大国主命からこの神に「将来大倭の霊地を汚し侵す者がある。その者に対して厳罰に処してもいい。行って守護せよ。」とあり、それで、当地に遷座したと云うことです。
武猥大明神は、悠久の昔から当地に棲息いていた白狐の姿を持つ固有霊で、杜の片隅に祀られていたと伝えられています。

4170696-2018-04-20-18-00.jpg

中央には「金鵄霊時鳥見山中聖蹟之碑」と掘られた石碑があり、その奥に磐座らしきものが鎮座します。
金鵄(きんし)とは金色のトビのことらしく、神武東征神話における 金鵄発祥の霊地を意味しているそうです。

4170705-2018-04-20-18-00.jpg

その横にある石碑には紋章のようなものが彫られていますが、軍人の最高位の勲章を「金鵄勲章」というそうで、そのデザインに酷似しています。

4170704-2018-04-20-18-00.jpg

左側には井戸のようなものもあり、

4170702-2018-04-20-18-00.jpg

奇稻田姫の墓所と伝わる石柱がありました。

4170643-2018-04-20-18-00.jpg

奇稲田姫の墓と聞いて思い出されるのが、奈良の笠山荒神社にひっそりと祀られていた、「スサノオの墓」です。
大倭神宮が鎮座する当地はかつて、富雄村と呼ばれていたそうで、そこに伝わる伝承では、素盞嗚尊は富雄に住んでいて、八俣の大蛇は古代大和盆地が湖だった頃、三輪山周辺から石上にかけて棲んでいたと云うことです。

4170703-2018-04-20-18-00.jpg

もちろん笠山荒神社の土盛りがスサノオの墓であるはずもなく、当地がクシナダヒメの墓であるはずもありません。
スサノオ・徐福は佐賀の地で物部族を遺して没しています。
クシナダヒメとされる「稲田姫」は、スサノオの妻ではなく、古代出雲初代王の「菅之八耳」(スガノヤツミミ)の后であって、彼女の時代の奈良は未開の地であり、そこに没するなどあり得ないのです。

4170706-2018-04-20-18-00.jpg

石碑の再奥にある磐座は、とても神聖な空気を醸し出していますが、その横を見てみると、「推古天皇御創建」とよめる刻印があります。
これを当社創建の根拠としているようですが、真の磐座であれば、このような刻印を残すことは、まずあり得ないだろうと思うのです。

4170707-2018-04-20-18-00.jpg

本来なら、新興宗教系の聖地や、いわゆる電波系パワスポなどに興味を持たない僕なのですが、それでも当社には何か引っかかる物を感じました。
それは熊本の「幣立神社」などと同じく、伝承由来は作り物であるけども、聖地そのものには何か意味があるといった感じなのかもしれません。

4170708-2018-04-20-18-00.jpg

もう一度、氏が幽界から得たという伝承を見てみると、「長曽根日子命」という名が出てきます。
これは長髄彦・大彦のことと思われますが、大彦は葛城笛吹村の東北にある曽大根(大和高田市)で育ったので「中曽大根彦」(ナカソオネヒコ)とも呼ばれました。
しかしこの中曽大根彦の呼び名は現在ではほとんど知られておらず、氏が長曽根日子と大彦の名を呼んでいることに驚きを感じます。
また、金鵄霊時鳥見山中聖蹟之碑とは、いわゆる「鳥見山霊時」を示していると思われ、富家の重要なキーワードがちょいちょい示されていることに、興味が湧きます。

4170709-2018-04-20-18-00.jpg

矢追日聖氏は1911年に奈良県生駒郡富雄村に生まれたそうですが、その家系は先祖3代にわたって霊能者だったそうです。
「矢追」と言う姓は、物部蘇我戦争の際に、聖徳太子の矢を背負った祖先の「トミノオミトイチヒ」が賜ったと伝えているそうです。
氏は出雲王家の富家の血縁者の子孫なのかもしれません。
断片的なキーワードに、チグハグな伝承は、本家の伝承とそうでない家柄の情報の相違なのではないでしょうか。
富家では、こうした歴史の齟齬が生じないよう、一子相伝で過酷なまでの方法で的確に、真の日本史を語り繋いできたと云います。

矢追日聖氏は1945年の8月15日、敗戦の日に大倭教を創立し、1947年、弱き者もみんなが幸せな社会を目指すべく福祉事業を中心とした生活共同体、「大倭紫陽花邑」(おおやまとあじさいむら)を創り、それは今も存続しているそうです。
よくある新興宗教的な話ではありますが、氏の残した文面などを見ると、邪な印象はなく、とても純粋だった人柄が伺えます。

とは言ってもやはり、この手のものは、僕には生理的に受け入れ難いのですが。

4170700-2018-04-20-18-00.jpg

6件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    narisawa110

    旧富雄村ですが、もうひとつ近くに「添御縣坐神社」というものがあります。

    実は、この神社、隠されてはいますが、地元に「ナガスネヒコ伝承」がありまして、東征の際に敗れた彼に対して村人は再起を促しましたが、それを説き伏せ、自決したとあります。

    大彦伝承に似通っていますね。おそらく出雲伝承の様に、地域民に慕われながら、北陸に行ったんでしょうね。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 より:

      いつもながら、narisawaさんも、相当な情報通ですね😊
      添御縣坐神社、訪ねてみたくなりました。

      いいね

      1. 匿名 より:

        narisawa110

        添御縣坐神社ですが、神紋が春日社に非常によく似た下り藤のような感じになっていたと記憶しています。

        さらにちょっと南に行った登彌神社(瀬織津姫もいるらしい)ですが、ニギハヤヒの祀られ方が面白くて「登美ニギハヤヒ」がおります。お寺も山の名前が鳥見山と称するものがあり、また物部氏族にも鳥見物部氏がおりますので、何しろ港湾であったと思われる河内から生駒の東に関しては面白そうな感じですね。

        籠神社が一族を守る為に後年に彦ホホデミを入れたように、新潟の弥彦神社にもニギハヤヒがおります。

        いいね: 1人

        1. 五条 桐彦 より:

          登美ニギハヤヒなんてケッタイな情報聞いたら、登彌神社にも行きたくなりますやん♪

          いいね

  2. 匿名 より:

    narisawa110
    ソニー方の書籍の事で、先生のご心配な点、暫く気になっておりました。

    おそらくですが、古墳が禁止になって新しい形の宗教が求められたので、一般の子孫にも神社というものが拠り所として求められたのだと思います。
    古墳そのものが神社というか祈りの対象であった時期があるのだと思います。

    その頃には神社も新興宗教であって、更には政治と宗教が一致。

    オカルトどころではなく真顔で必死になってそれを作り、信じる方も真顔で信じ込んでいた段階があると思います。
    故に、信じる事が違うと、まるで利害が衝突する様に諍いもあったと思います。

    昔は陰陽師がいて呪詛を送り合い妬みや嫉みなど、良きものもそうで無いものも一身に受け止めていたのが神社であり、神であると思われます。
    不動産業界では、神社の跡地はお墓よりダメらしいですね。

    私は、富編集長がソニーの先生を信頼されているのはそのオカルト的な所でも信頼に値する何か確信めいた出来事があった為と推測しています。

    話を戻しますが、もしかしたら神社は古墳の中身をそのまま表に出したものかも知れません。

    閉塞石が鳥居
    羨道が山道
    現実が神殿

    編集長の本でもサニワのお話が出ます。
    先祖の霊を呼び出すとか、そういうのは我々よりは身近に感じている方の様な気がしています。

    大倭神宮は、正に千年後の大人気神社が産声を上げているのかもしれませんw

    いいね: 1人

  3. 匿名 より:

    さて、昨日の続きをまさかここで書くことになろうとは思いませんでしたww

    実はここ、元々古い磐座を祀る神社で、拝殿無しの古神道の形式だったそうです。

    ここのかつての名は、「登美神社」「鵄神社」
    おそらく「尾張家の分家の邸内社」だったんじゃないかと。

    つまり、近くの現在の登弥神社、等弥神社と合わせて、鳥見の霊璽の一部になっていたそうです。
    物部氏との戦いに万策尽きて、ここで先勝祈願を行ったらしいです。

    この近くに矢追氏(鳥見姓→箭負→矢追姓)が住んでいる訳です。

    吉田先生は他にも調べており
    吉田東伍氏のだ日本地名辞典→八尾は箭負の訛ならんと記し
    河内志渋川郡の条「守屋の墓は太子堂村にあり、傍らに鏑矢塚あり」となっており

    この辺が矢追氏の伝承と内容があっている点なのだそうです。

    吉田先生はナガスネヒコの系譜を追って取材しており、そこから津軽の方にナガスネヒコを結び付けるように原稿を書いていたようです。(吉田先生は生きてどこかに行ったのでは?という仮説の本を書きたかったようです)
    矢追氏の伝承では、ナガスネヒコは奈良で無くなっています。
    おこべじんじゃの伝承では、大彦と長脛彦は別の設定になっており、現在でも藤白神社の宮司家は、ナガスネヒコの娘の家系として伝えている様で。おこべじんじゃの伝承でもナガスネヒコは奈良でなくなっています。

    まぁー盛ってる感はやっぱりぬぐえませんが、本人たち以外にも補足するような情報が散見されることは事実の様です。

    いいね: 1人

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください