大倭神宮

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「奇稻田姫」(クシナダヒメ)の墓所があると噂される「大倭神宮」を訪れました。

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そこは大和国鹿島香取本宮の真向かいの、細い路地沿いにあります。

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辺りは住宅街ですが、そこだけこんもりとした、竹と雑木の杜があります。

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入り口は狭く、鳥居などはありません。
おそるおそる境内に入ると、

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石の鳥居の先に柵がしつらえてありました。

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この大倭神宮(おおやまとかみのみや )、予めお断りしておきますが、古来より伝わる伝承地などではなく、「矢追日聖」(やおいにっしょう)氏が幽界より得たと云う霊界史観を元に、のちに造られた聖蹟です。

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当社を管理するのも、氏が創立した「大倭教」という、いわゆる新興宗教です。
氏が幽界より得たという由緒『大倭神宮伝承の紀』「倭伝承 長曽根日子命」によると、

「熊野を迂回して大和に攻め込んだ狭野命の軍は連戦連敗だった。
登美の軍が勝ち鬨を挙げようとした時、一天にわかにかき曇り氷雨の襲来とともに、金鵄の瑞光があって、両軍矛を納めて大地に平伏した。
この天啓によって両軍和議が成立、長曽根日子命が差し出した条件を狭野命が無条件に受諾、長曽根日子命はヤマト国を狭野命に譲り、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃としてヤマトの婿養子となった。
それでもヤマトの人々の中には不満が残り、再び戦乱の様相が見えたので、長曽根日子命は自ら命を絶って、国が鎮まることを願った。」

ということです。

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それにしても当社は、「造られた聖蹟」であるにも関わらず、何かしらの神威を感じさせ、創作した氏の、大した演出力に感嘆します。
門には閂はあるものの鍵は掛けられておらず、中に自由に入れるようになっています。
しかしその中に足を踏み入れるのは容易ではありません。
足が竦む、と云う表現が正しいのかもしれません。

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向かって右奥には、小さな社があります。

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祭神は「鵄嶽大加美」(トミタケオオカミ)と「武隈大明神」(タケクマダイミョウジン)。
鵄嶽大加美は、山城鞍馬山の鞍馬大魔王で、文治三年(1185年)、大国主命からこの神に「将来大倭の霊地を汚し侵す者がある。その者に対して厳罰に処してもいい。行って守護せよ。」とあり、それで、当地に遷座したと云うことです。
武猥大明神は、悠久の昔から当地に棲息いていた白狐の姿を持つ固有霊で、杜の片隅に祀られていたと伝えられています。

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中央には「金鵄霊時鳥見山中聖蹟之碑」と掘られた石碑があり、その奥に磐座らしきものが鎮座します。
金鵄(きんし)とは金色のトビのことらしく、神武東征神話における 金鵄発祥の霊地を意味しているそうです。

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その横にある石碑には紋章のようなものが彫られていますが、軍人の最高位の勲章を「金鵄勲章」というそうで、そのデザインに酷似しています。

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左側には井戸のようなものもあり、

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奇稻田姫の墓所と伝わる石柱がありました。

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奇稲田姫の墓と聞いて思い出されるのが、奈良の笠山荒神社にひっそりと祀られていた、「スサノオの墓」です。
大倭神宮が鎮座する当地はかつて、富雄村と呼ばれていたそうで、そこに伝わる伝承では、素盞嗚尊は富雄に住んでいて、八俣の大蛇は古代大和盆地が湖だった頃、三輪山周辺から石上にかけて棲んでいたと云うことです。

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もちろん笠山荒神社の土盛りがスサノオの墓であるはずもなく、当地がクシナダヒメの墓であるはずもありません。
スサノオ・徐福は佐賀の地で物部族を遺して没しています。
クシナダヒメとされる「稲田姫」は、スサノオの妻ではなく、古代出雲初代王の「菅之八耳」(スガノヤツミミ)の后であって、彼女の時代の奈良は未開の地であり、そこに没するなどあり得ないのです。

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石碑の再奥にある磐座は、とても神聖な空気を醸し出していますが、その横を見てみると、「推古天皇御創建」とよめる刻印があります。
これを当社創建の根拠としているようですが、真の磐座であれば、このような刻印を残すことは、まずあり得ないだろうと思うのです。

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本来なら、新興宗教系の聖地や、いわゆる電波系パワスポなどに興味を持たない僕なのですが、それでも当社には何か引っかかる物を感じました。
それは熊本の「幣立神社」などと同じく、伝承由来は作り物であるけども、聖地そのものには何か意味があるといった感じなのかもしれません。

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もう一度、氏が幽界から得たという伝承を見てみると、「長曽根日子命」という名が出てきます。
これは長髄彦・大彦のことと思われますが、大彦は葛城笛吹村の東北にある曽大根(大和高田市)で育ったので「中曽大根彦」(ナカソオネヒコ)とも呼ばれました。
しかしこの中曽大根彦の呼び名は現在ではほとんど知られておらず、氏が長曽根日子と大彦の名を呼んでいることに驚きを感じます。
また、金鵄霊時鳥見山中聖蹟之碑とは、いわゆる「鳥見山霊時」を示していると思われ、富家の重要なキーワードがちょいちょい示されていることに、興味が湧きます。

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矢追日聖氏は1911年に奈良県生駒郡富雄村に生まれたそうですが、その家系は先祖3代にわたって霊能者だったそうです。
「矢追」と言う姓は、物部蘇我戦争の際に、聖徳太子の矢を背負った祖先の「トミノオミトイチヒ」が賜ったと伝えているそうです。
氏は出雲王家の富家の血縁者の子孫なのかもしれません。
断片的なキーワードに、チグハグな伝承は、本家の伝承とそうでない家柄の情報の相違なのではないでしょうか。
富家では、こうした歴史の齟齬が生じないよう、一子相伝で過酷なまでの方法で的確に、真の日本史を語り繋いできたと云います。

矢追日聖氏は1945年の8月15日、敗戦の日に大倭教を創立し、1947年、弱き者もみんなが幸せな社会を目指すべく福祉事業を中心とした生活共同体、「大倭紫陽花邑」(おおやまとあじさいむら)を創り、それは今も存続しているそうです。
よくある新興宗教的な話ではありますが、氏の残した文面などを見ると、邪な印象はなく、とても純粋だった人柄が伺えます。

とは言ってもやはり、この手のものは、僕には生理的に受け入れ難いのですが。

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