
真田氏は出雲忍者を重用したので、その活躍は、出雲忍者の働きによる所が大きかったであろうことは想像に難くない。
出雲忍者は、先祖代々の強い規律と団結心を持っていたので、戦国武将に重用されることが多かった。
真田一族は、その代表的な例であったと言える。
出雲忍者(出雲散家)は出雲では山家とも呼ばれたので、真田氏の領地には、同じ名前の山家神社(長野県上田市)が建てられた。
山家神社は、神社・寺院・修験道の三体制で運営されていたが、とくに修験道の家は白山信仰の霊峰、四阿山の別当を務めていた。
そのため、この社は四阿山山頂にある白山社の里宮として、修験者の信仰を集めていた。
ー大元出版 富士林雅樹 著『出雲散家の芸と大名』


日没寸前、narisawaさんと僕は、長野県上田市真田町にある「山家神社」(やまがじんじゃ)へ、滑り込み参拝してきました。セーフ!セーフ!

山家神社の創建は不詳。
平安時代中期に編纂、927年に完成した『延喜式』に名を見る古社で、大国主神を土地の神と崇め、旧山家郷の産土神としたものであると由緒に記されます。

景行大君の御代(71~131年?)に日本武尊(やまとたけるのみこと)を合祀したと伝えられ、物部軍として東国東征に派遣された神門軍「建部」(たけるべ)の関与が窺えます。

山家神社は「白山さま」とも呼び親しまれており、社伝に「本社の別当浄定というもの、越の泰澄の徒弟にして加賀の白山比咩神社を信仰し、其の神霊(伊邪那美神、菊理媛神)を勧請し、養老二年(718年)奥宮を四阿山(あずまやさん)絶頂に奉遷す」とあります。
古来より四阿山は神の山として崇められており、人々は流れる神川から農業、水利、祈雨などの神徳を受けていました。

山家神社を厚く崇敬した武将が、名高き真田氏であり、四阿山山頂にある奥宮並びに本宮の営繕や寄進を行っています。
慶長5年(1600年)9月、兵火によって全焼した社殿を、翌6年に真田信幸公が再建しました。

「真田日本一の兵」と謳われた真田一族ですが、彼らの功績を影で支えたのが、「真田忍者」だと云われています。
四阿山に集まる修験の者らを真田氏は手厚く保護し、組織化していったものが真田忍者として活躍していったとされています。

白山信仰が全国に広がりをみせる中世以降、四阿山の神は「白山大権現」と称し、神護寺(神宮寺)である白山寺と共に祭祀が行われ、上田城鬼門除の神、また城の守護神として上田藩の崇敬を深く受けてきました。

明治になって、神仏分離令によって社号を旧来の山家神社に戻しました。
現在の社殿は、明治20年の真田大火の類焼で全焼、翌21年に再建されたものである、ということです。



山家神社の祭神は「大国主神」(おおくにぬしのかみ)、「伊邪那美神」(いさなみのかみ)、そして「菊理媛神」(くくりひめのかみ)の三柱となっています。

相殿(あいどの)には「日本武尊」と「神八井耳神」(かむやいみみのかみ)が配祀されています。
神八井耳神は科野国造の祖とされていました。

祭神を見ると、出雲王家、建部、多氏の存在が見て取れ、個人的には”越智族の姫巫女である”と考える菊理姫がいらっしゃることに萌えます。

山家神社社殿から一段下がったところ、少し距離を置いた場所に

「真田神社」が鎮座しています。

真田神社は真田三代「真田幸隆」、「真田昌幸」、「真田信之」(信幸)、「真田信繁」(幸村)を祀っており、真田氏の唯一公認の真田神社となっています。
真田氏は、善政を敷き、治山治水を良く行い、民を大切にした領主として知られます。
子孫は遺徳を継ぎ、火事を免れた資料等を残したとのことです。

真田家の家紋の一つ「雁金」(かりがね)は、カモ科に属する鳥の一種であり、力強く、飛ぶ姿の優美さから、日本では古くから「勝利を呼ぶ吉祥の鳥」として知られています。

真田神社の前に置かれた雁金の石像は、平成29年(2017年)の夏に最初の一対が設置され、その後さらに二対が追加されたのだそうです。

また、真田家が旗印として使っていた「六文銭」の由来は六道銭にあるようです。
六道とは、仏教における地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道をいい、その上の色界、無色界と合わせて三界といいます。
この三界で生死を繰り返すというのが、いわゆる仏教的な輪廻転生の考えとなります。

六道のうち、地獄道・餓鬼道・畜生道の3界が変化して3つの川、三途の川となったようです。
三途の川の渡し賃が六文銭で、これを持っていない場合、奪衣婆(だつえば)に衣服を剥ぎ取られてしまうといわれてます。
真田家の六文銭の旗印は「死を恐れずに戦う」という気概の表れだった、とのことです。

天正10年(1582年)の本能寺の変の後は、天下の情勢は乱れ、とくに旧織田領であった信濃国では、徳川氏、後北条氏、上杉氏の三大勢力が所領をめぐって対立していました。
真田地方の領主であった「真田昌幸」(さなだまさゆき)は、徳川家康に従って、上田地方に進出し、そこに上田城を築きました。
天正13年(1585年)、家康は後北条氏との和議のために、昌幸に沼田領(群馬県北部)を後北条氏に引き渡すように要求しました。
しかし昌幸はその命令を拒否し、今度は上杉氏に味方して、家康と敵対するようになったのです。

家康が上田城に差し向けた兵は7千、対する真田方は2千の兵で迎えました。
昌幸は息子の信幸、信繁(幸村)兄弟に劣勢を装わせ、徳川軍を城の近くまでおびき寄せました。
この時、昌幸は城の大手門を閉め、櫓に上り、甲冑もつけずに家来を相手に囲碁を打っていた、とのことです。
徳川軍は「敵は小勢なり」と侮り、一気に城を攻め落とそうと大手門に迫ったその時、昌幸は「頃は良し」と言って大手門を開き、軍勢を率いて城中から激しく討って出ました。
信幸、信繁勢も横曲輪から徳川軍の側面を攻撃、隠れていた民衆たちも一斉に徳川軍の後方に攻めかかりました。
「第一次上田合戦」と呼ばれるこの戦いで、真田軍の被害はわずかであり、徳川軍は1300人以上の者が討ち取られたと伝えられます。

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、豊臣政権で五大老筆頭の地位にあった徳川家康の影響力が強まりました。
これに対し反徳川勢力は、五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵しました。
世にいう、「関ヶ原の戦い」の始まりです。

真田昌幸は当初、東軍の指揮を執る家康に従っていましたが、次男・真田信繁(幸村)とともに離反して西軍に与し、上田城に帰還して守りを固めました。
長男の信幸は東軍に従いました。
真田家が東西に分かれたのは、通説では西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされていますが、近年の説では信幸の妻が家康の養女であり、信繁の妻は大谷吉継の娘で昌幸の妻が石田三成の妻とは姉妹の関係にあったことが理由とされています。

徳川家康が指揮を執る東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って軍を西に返し、東海道を進みました。
この時、徳川秀忠は信濃国平定のため3万8千人の軍勢を引き連れ、中山道を西に進み、真田軍3000人が守る上田城を目指しました。

昌幸は上田に接近した徳川軍に対して、長男・信幸に使者を送り助命を懇願しました。
秀忠はそれを聞いて「上田城を明け渡せば赦そう」と喜び、信幸と本多忠政を派遣して、和議交渉をさせました。
ところが4日になり昌幸は態度を変え、秀忠に対し降参する意志がないことを伝えました。
昌幸の助命降伏は、籠城の備えのための時間かせぎだったのです。

激怒した秀忠は、すぐさま上田城に攻撃を仕掛けました。
昌幸は少ない兵のみを城から出撃させ、徳川軍に鉄砲や弓でけしかけると、すぐに城に戻らせ、攻め寄せた敵を城で迎え討ちました。
こうしたことが数回続き、秀忠は上田城が簡単に落ちないことを悟ります。
昌幸の狙いは、秀忠軍を少しでも上田城に足止めさせ、西軍が有利になるように助力することでした。
その後、8日に家康より上洛命令が下り、秀忠は上田に押さえの兵を残して、やむ無く美濃方面に転進することにしました。
秀忠の軍は、この上田戦で苦戦しただけでなく道中の悪天候も災いして、結果9月15日の関ヶ原本戦に遅参することになったのです。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、昌幸の次男・信繁(真田幸村)が、大坂城の惣構え(そうがまえ)の外側に「真田出丸」(真田丸)を築き、攻め寄せる徳川勢を失や鉄砲で打ち掛け、散々に討ち破りました。
翌年慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、真田信繁隊は家康本陣にあと一歩の所まで迫る活躍を見せ、敵軍の大名たちから「古今これなき大手柄」、「真田日本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなき」などと賞賛されたのです。

真田家は小国ながら、知略をもって圧倒的な大国と対等に渡り合った戦国武将でした。
そして真田氏が知略戦において重用した真田忍者こそ出雲忍者、すなわち「出雲散家」であったということです。
出雲忍者は、先祖代々の強い規律と団結心を持っていたので、戦国武将に重用されることが多かったのです。

「出雲忍者(出雲散家)は出雲では山家とも呼ばれたので、真田氏の領地には、同じ名前の山家神社が建てられた」と大元出版の『出雲散家の芸と大名』には記されています。
中世以降に四阿山の神が「白山大権現」と呼ばれた頃は、神社・寺院・修験道の三体制で運営されていましたが、とくに修験道の家は四阿山の別当を務めていました。
そのため、当社は四阿山山頂にある白山社の里宮として、古くから修験者の信仰を集めていました。
四阿山の別当には、真田氏出身者が養子に入るなど、真田氏とのつながりも深かったそうです。
そのためもあってか、大坂冬の陣の時、真田信繁(幸村)は豊臣側に味方するため、高野山九度山から大坂城へ向かった時、その主従は修験者の姿をしていたということです。

『出雲散家の芸と大名』の著者・富士林雅樹先生は、「真田氏自身も、出雲忍者出身であった可能性が高い」と言います。
真田氏は信濃滋野氏の一族で、甲賀の望月氏とも同族であったことがその理由の一つである、とのこと。

真田氏の領地の上田は、出雲王家のタケミナカタが建てたと伝えられる「生島足島神社」が鎮座し、もともと出雲族の多い土地でもありました。
望月氏の祖先をタケミナカタとする系図もあり、少なくとも出雲族であった(あるいは自称した)ことは確かなようです。

真田は、もとは「実田」と書かれ、その名は「早苗田」(さなえだ)が転じたものであったと言われています。
早苗田とは、田植えを終えたばかりの、若い稲の苗が植えられた水田のことです。
出雲において”田”は、大地と同じで女神と考えられており、早苗は「幸の神の苗」の意味の「幸苗」であり、田に刺さるので男神であると考えられていました。
出雲族のサイノカミ信仰では、田植えの際にこの女神と男神が交わることで、稲の実(子宝)に恵まれるよう祈る神事がおこなわれていました。

塩田平では、烏帽子岳(男神岳)と女神岳を結ぶ夏至のレイライン上で、タケミナカタが地主神に粥を献上したという伝承が残されています。
『日本書紀』には「サルタ彦神は、伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴の川上に着いた」と書かれており、また、早苗田に一本足で突き刺さる案山子は、男神のサルタ彦大神(幸の神の一柱)であると考えられました。
そうしたことから「真田」が、出雲族が多く住んだ長野県上田市の地名になり、真田氏はそこの出雲族を代表する者として「サナダ」を名乗った可能性が高い、ということです。

そう踏まえて、改めて山家神社境内を歩いてみると、確かに出雲的・サイノカミ的雰囲気が強いことが分かります。
伝承・伝説ばかりが残り、氣配のうすい信州でのタケミナカタの存在感が、ここ上田市にはあるように感じられます。
彼の血が最も濃く残されたのが、当地だったのでしょうか。

真田信繁(幸村)・大助(幸昌)親子は大坂夏の陣で最期を迎えたことになっていますが、従っていた真田忍者の行方は、はっきりしたことはわかっていません。
「大坂夏の陣で敗れた豊臣秀頼と長男・国松は九州に逃れた」という話が天草・島原方面には伝えられており、その逃亡には真田大助(幸昌)と真田忍者・穴山小助も関わっていたといいます。

大陸では、戦争の勝利者は、敗者の一族郎党まで根絶やしにするのが常でしたが、日本人は無益な殺生を好まず、敗れた者が逃げれば、または名を変えれば許すという習慣があり、このことは表の歴史には反映されませんでした。
「そのため、この秀頼、国松の逃亡劇は、おそらく史実であったものと考えられる。そして、その陰では真田忍者も大いに働いただろうと想像される」
と富士林雅樹先生は、ご著書『出雲散家の芸と大名』の中の「真田一族と山家神社」の項を締めくくっておられます。

四阿山の命の源泉・白山信仰と出雲族のサイノカミ信仰を結ぶサンカの社は、日が暮れて灯籠を灯し、しめやかに夜を迎えるのでした。



narisawa110
里山辺の山家氏との関係、注目でありますね。
やっぱりミナカタのルートと、ミナカタ祭祀の担い手のルートは一緒ではないのでしょう。
narisawa110
確かですね、サンカは竹細工とかが得意で、明治以降次第に平地に住むようになり姿を消していきますが、竹細工に関する組合を作り、その拠点があったのが新潟県であったと昔調べた記憶があります。
五条桐彦様 ご無沙汰しております。秀頼の生存説があるのですね。秀頼は大阪城内で亡くなり、高野山・奥の院に母・淀君と並んで祀られており、しかもその場所が前田家墓所の側。つじつまがあっているようで、生存説があるとは思ってもいませんでした。義経の生存説と同じ判官贔屓によるものと一緒という訳にはいかないのですね。
asamoyosi様、こんにちは。
・島原・天草の乱について記された幕府側の書物『耶蘇天誅記』(やそてんちゅうき)に「四郎ハ豊臣秀頼ノ落胤ナリ」という記載。
・鹿児島の郷土史「頴娃(えい)町郷土史」に、「薩摩に豊臣秀頼をはじめ、真田幸村・木村重成など1000余人の大阪残党が逃げてきた」と記載。
・鹿児島市谷山には豊臣秀頼の墓と伝わる宝塔がある
・大分県速見郡には、豊臣一族の末裔とされる「木下崇俊」さんがいらっしゃる。木下氏の話によると、大坂城落城の時に、あらかじめ作った抜け道を使って秀頼とその子国松が逃げ、薩摩で匿われたと伝えられている。
・秀頼が死んだ後は国松は日出藩初代藩主「延俊」の養子となり「延由」と名を変えたと伝えられている。大分県杵築市の「長流寺」では、木下延由の位牌の裏面に「豊臣延由」の文字が彫られている。
・豊臣秀吉の孫に「羽柴天四郎秀綱」という謎の人物がいると言い伝えられていて、天草四郎に似たこの人物は、島原・天草の乱と同じ時期に消息不明になったという。
そんなこんなで、幕府は島原・天草を徹底的に鎮圧したとも云われています。
本当のことはわかりませんが😅
そうなんですか。どれも始めて知る話ばかりです。驚き👀‼️ です。豊臣家墓所には秀頼、淀君の墓はないということは何となく分かるような気がしていたのですが、前田家墓所の側にその墓を見つけ、成る程と納得していたものですから・・・。あちこちに伝承があるというのも面白いですね。
面白いですよね。
いや、真相はわかりませんので、それぞれの思いで判断されて良いのかと。
ただ、生き延びていたとする方がロマンはありますね。
秀頼は亡くなっており、国松のみが逃げおおせたという展開もあるかもです。
それに抜け穴というのも面白いです。隣の九度山町には真田の抜け穴というのがあって大阪城とつながっていると言われています。☺️
それはまた、壮大な抜け穴ですね。でも真田氏ならやりそう😁