
越後国に住んだタテミナカタは、中部地方に新しい国を建設しようと思い立った。
そこで大勢の家来を集め姫川を逆上り、まず上田の下之郷に住んだ。そこで、サイノカミをまつった、と言う。
その地には後に、生島足島神社が建てられた。
タテミナカタはその後、古代に黒曜石の産地であった和田峠をこえて諏訪盆地に進出し、その地に諏訪王国をつくった。
そのとき以来かれの子孫は江戸時代まで、この地の豪族として栄えた。
ー 大元出版 斎木雲州 著『出雲と大和のあけぼの』


里山辺にほど近い長野県松本市大村の「雪中社宮司神社」へやって来ました。

社宮司は松本エリアではあまり多くないようですが、この社の前からは、縄文時代中期の集落「大村塚田遺跡」が発掘調査されているそうです。

土偶片なども出土しているようで、当社の下にも、古代の奉納品が眠っているのかもしれません。

これが案内板にある、本郷地区で一番古い庚申塔。確かに見ざる・聞かざる・言わざるの三猿が彫られています。
narisawaさんから聞いた伝承では、里山辺は、タケミナカタが美ヶ原方面から来たという場所になっており、入山辺にある大和合神社は黒曜石の集積所だった、とも伝えられていました。



長野県上田市の保野(ほや)にある「社宮司の祠」に来ました。
田園の中、細い車道と民家に挟まれるように、ポツンとある石祠です。

宝永3年(1706年)の『保野村指出帳』には、「社宮司」を「左口之宮」と表記し、2箇所にあると記されているとのこと。
これを受けてnarisawaさんは、「社宮司」と「左口神」は別のものとして存在していたのではないかと考えているようです。たぶん。

左口神はミシャクジ神であるとして、確かに社宮司はその社を司る神職のように読めます。
姫巫女が死して女神となったように、ミシャクジの宮司も死して神となったのでしょうか。
案内板を見ると、ミシャクジ神にはサイノカミ的な要素・境界の神としての性質もあったことが分かります。



長野県上田盆地の塩田平(しおだだいら)ため池群のひとつ、「上窪池」(かみくぼいけ)に来ました。

「信州の鎌倉」の異名を持つ塩田平は、大小合わせて100ヶ所のため池が造られており、江戸時代には塩田平3万石と称される大穀倉地帯となっています。

塩田平のため池には、各々にまつわる民話が数多く残されており、池と民話をめぐる旅も楽しそうです。
上窪池は江戸時代(1645年)に池を改修するまでは「泥池」と呼ばれていました。
昭和32年に塩田平でため池を使った養鯉が計画されましたが、その先頭に立ったのが上窪池で、「塩田鯉」として全国に名をとどろかせました。

その上窪池のほとりに、ひっそりと祀られる神社が「泥宮」(どろみや)です。

泥宮はその名の通り、「泥」(大地)を御神体とする聖地であり、「生島足島神社」(いくしまたるしまじんじゃ)が創建された時に遺霊をここに残したと伝えられ、その元宮であるとされています。

生島足島神社の祭神「生島大神」(いくしまのおおかみ)は万物を生み育て生命力を与える神、「足島大神」(たるしまのおおかみ)は国中を満ち足らしめる神といい、御神体はやはり大地(土間)だといいます。
かつては生島足島神社の西鳥居と泥宮はまっすぐな道で繋がっていたとのこと。

夏至の朝は泥宮の鳥居から、烏帽子岳山頂に昇る朝日を見ることができるそうですが、

このレイライン上に生島足島神社、正確にはその摂社である諏訪神社(下の宮)が鎮座しています。
かつて2社をまっすぐ繋いでいた道とは、言わば光の道であったということになります。

さらにこのレイラインは、東の烏帽子岳と西の女神岳を結んでおり、烏帽子が男根を意味するのであれば、最も精力の強い夏至の朝日によって結ばれる女夫神と、その間の大地を御神体とする豊穣への祈りの姿が見えてきます。

さて、古来、当社は「泥宮大神」と称されていたといいます。
が、現在の祭神は「健御名方富命」(たけみなかたとみのみこと)となっています。
生島足島神社社伝では、タケミナカタが諏訪へ向かっていた時、この地に留まり、生島・足島両神に米粥を煮て献じたとありました。
この伝承から、生島・足島両神は当地の地主神であると見られています。

東出雲王家の子孫であり、古代日本の歴史を受け継ぐ「斎木雲州」氏の著書においては、出雲を飛び立ったタケミナカタについては、多くを語っていません。
しかしコシの国に住んだタケミナカタは、信濃地方に新しい国を建設しようと思い立ち、大勢の家来を集め姫川を逆上り、まず上田の下之郷に住み、そこでサイノカミを祀ったと伝えていました。

思うに、生島大神・足島大神とは烏帽子岳(夫神)と女神岳(妻神)を表しており、両神のの神霊(遺霊)と云われる泥宮大神とは、タケミナカタがサイノカミとして祀った女夫の神の間に生まれた子神としての大地、夏至の光を浴びて稲を実らせる”恵みの泥”を指したのかもしれません。

タケミナカタが生島・足島両神に米粥を煮て献じたというのは、彼が下之郷で地主神としてのサイノカミを祀り、出雲から持ち込んだ稲作を、下之郷の人々に広めたということになるのだろうと思われました。

ところで、タケミナカタが諏訪に至るルートを地図上に示してみました。
この図の①が姫川です。
姫川を遡っても、生島足島神社が鎮座する下之郷には至りません。
また糸魚川周辺は平地が少なく、コシの王都があったのは居多(上越市)の方ではなかったかと考えられます。
居多から関川、あるいは陸路で南下し、長野盆地を通って下之郷に至った②③が、タケミナカタ・ルートであったと推察しました。
タケミナカタはさらに諏訪を目指した、とされます。
narisawaさんが話してくれた当地に伝えられる美ヶ原越えルートが④、大元出版にある和田峠越えルートが⑤となります。
もうひとつ、勾配の緩やかな⑥ルートは、大勢の家来を連れて行進するのに適していたと思われ、このルートであった可能性も高いと思われました。

また地図上の赤いピンは、諏訪社をざっと検索してマーキングしたものです。
nariさんは諏訪近辺よりも北部に諏訪社が圧倒的に多い、と話してくれましたが、確かにその傾向が見て取れます。
ざっくりと検索したものなので、実際にはこの倍以上の数があると思われますが。
これを見てみると、確かに諏訪湖周辺には諏訪大社がありますが、当初の諏訪信仰はnarisawaさんのいう通り、下之郷から北のエリアに向けて広がったという可能性が感じられます。
諏訪大社は思った以上に後年に、諏訪信仰の中心となったのかもしれません。

この辺りのチグハグさが、諏訪にタケミナカタの氣配をあまり感じることのない原因なのかも。
神というものは、自らを神として祀ることはあり得ず、神を神として祀るのは、その子孫たちになります。
つまり、タケミナカタの子孫たちは、下之郷より北側に多く住んでいるのではないでしょうか。

などと妄想を膨らませてはみますが、諏訪沼、信濃沼は深まるばかり。
おや、こんなところにも青面金剛さんがいらっしゃったのでした。

過去コメントを掘り出して参りました😅
6日間掛けて丹後の海部家訪問(ゴニョゴニョ‥)から富山経由で昨日は糸魚川
(雨すごかったので)フォッサマグナミュージアムや長者ヶ原遺跡など訪問してきました。
ニュースになった、かのラピスラズリの現物を特別展示室で拝見しましたが見事な代物😋←大好物
てんこもり翡翠の御膳?と共に満腹でした。ヌナガワヒメ~タテミナカタと来て
今日は安曇野経由、小県郡地域を少々訪問いたします✨️
相変わらず、お忙しそうですね😊
謎の和製ラピスラズリ、なぜ1個だけなんですかね。気になります。
ここ数日、天候が不順なので、お気をつけて旅されてください😌
ありがとうございます。天候も安定してまいりました。
先程出先でブログ(公開版)アップさせていただきましたが、「まだあるんじゃ?」説に一票です。
近隣で出ているデュモルチェライト等と思われて混在しているかも🤔と思うところです。
ラピス以外にこの地域で新しい発見の石は他にもありますし☺️
narisawa110
ルート④に関連してですが、ちょうど、松本市の北方に旧四賀村があり、この道が東山道、つまり毛乃部であるグンマー側との大動脈になっていました。
途中までルート143号、途中から保福寺峠経由で青木村方面に抜けるルートです。
谷同士を結ぶ最短距離の場所も、昔からの通り道になっていたと考えられます。
私的には、ミナカタは姫川の勾玉ルートで諏方入り、「ミナカタ祭祀」は上田で発生したのでは?と考えております。
物部氏は勾玉の利権を押さえていたと考えています。
が、本当は②③がミナカタの入ってきたルートだと思います。そうじゃないと黒姫と結婚できません~。
また、軽井沢の熊野皇大神宮にもタケル伝承があります。
まだまだ、謎は多きですね😌
narisawa110
諏訪の修補系図ですが、あそこに阿蘇氏、会津姫が絡むのであれば、創作であったとしても必要性が生まれるとしたらまさにこの上田の地域ではないでしょうか?
安曽神社の存在が、その可能性を高めますね。
生島足島神社からこの辺り、塩田平を頻繁に訪れていたのは40年ほど前で
当時上田市在住(いま東御市にいます)の近い世代の友人に案内してもらい、
まだ20代前半の若き姉媛様😂とともに物部の足跡も辿っておりました。
何故40年あまり前かは、narisawa様はきっと気づかれることでしょう🤭 そうです!別所線の縁です。
1986年に大改革があり、上田原から下之郷に車庫が移転する工事まで見せてもらいました。
東急カエル様が入る前からこの地には行っておったのです。かの丸窓電車現役時代から✨️
生島足島神社の旧所在地やこの辺りの地積に詳しい方は80年代末期-90年代には複数おられ
古代史・近代史ともに出版関係にも通じるルートはあったのですが皆さん鬼籍…
近代史では真田、傍陽、丸子関連などの80年代刊行書物は我が家にありますが、
あの頃古代史の自費出版物を何故買わなかったか!40年経って今悔やまれます😭
今、本棚から昭和62年(1987)刊行の近代史ですが書籍取ってきましたら、著者ご一族はそういえば金子さんでした😂😂
諏訪から中信方面、やっぱり何かあるんですよ😝
「中信」と書きましたが個人的に青木や上田市西部は東信と微妙に言えないという意識からでした🤭
書物は厳しい時代ですね。長野市の銀河書房さん(2001年閉業)の本は我が家にもありますが、
塩田平の本は今オークション見たら1800円が3万円…大元出版さんに限らず図書館に無ければ絶望的な時代なのだと悲しくなります。松本市の郷土出版さんのも閉業後10年経つのでこれからきつくなりそうですね。
今から興味を持つ方達には、ハードルが高すぎる。
資料、情報を後世に残すということは重要ですね。
失われたものは、戻ってきません🥺
nari様に長野県内図書館めぐりしていただくのも…🤭
出版先進県、長野ですらこんな記事が出ていることは悲しい限りです。
https://nagacle.net/topics-9565/
😢
narisawa110
<物部の足跡も辿っておりました。
キャッチしましたww
どのような場所を、どのよな意図で、どの様な情報を頼りに回られたのか、事細かに詳細に教えてくだいww
やっぱり突っつかれた😂 こわいよぉ~
今回の一連記事、なんとも刺さる要素が多すぎ、
昨日従姉妹に連絡したら日本海-長野ルートの親族の経路を再度教えてくれました。
同じ情報は姉も含め女子たちが抱えているものです。
近い親族が日本海から信州へという話は学生時代から聞いていた中、
【諏訪市には近代の親族関係が証明できる者は居ない】との事で
遥か以前からこれが引っかかっています。
塩田平を目指したのか? 中野市(長野市の北)に戦前まで複数名の親族がおり経路②③のまんまです。
さらに別に「塩の道」① 糸魚川から白馬・大町ルートで安曇野へ出た者もいて、
戸籍上健在だったのは戦後すぐまでながら、現安曇野市に居た親族数名が出てきました。
これが何を意味するか、複数ルートどちらにもいるのです。
塩田平へは安曇野松本経由ではないと思いますが、
自治体人口比 金子姓比率を出してみたら諏訪市は異様に多く、うちとは別の定住者一派と考えています。
その他市町では中野市、安曇野市、上田市が突出していることから、こちらが親族関わる
想定タケミナカタルート上の痕跡ではないかと確認できました。
しかし従姉妹いわく ④⑤⑥は「わからんわ~」とバッサリ😂
何故、諏訪到達後の伝承は知らないのか?隠されているのか? はそのままです。
narisawa110
神様とされた人の足跡と、途中でその神様を祀った人たちのルートは違うんじゃないかと思います。
そのむかし、弥彦神社はタケル氏の神社であったと思われ、由緒が間石見国の物部神社とワンセットになっていたと考えています。(つまり、本当は物部神社の後にできた。後年に阿部の関係で摂社郡が追加され今の形式になった)
今でも弥彦神社を囲むように諏訪神社が鎮座します。
また、新潟の諏訪神社は、単独で残っただけでも900以上。総数は優に4000を超えてきます。
信州沼は深いですね😌
実はですね、弥彦神社のむかしの由緒には、カゴヤマ命が石見国に戻ってそっちで亡くなったみたいなのがあったらしいのです。
(御祭神宇摩志麻遅命は)神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)
その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。
次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源)
物部神社の由緒です。
narisawa110
<narisawaさんは、「社宮司」と「左口神」は別のものとして存在していたのではないかと考えているようです。たぶん。
ちょっと違っておりまして、実は光の道の先に生島足島神社神社があり、今では参照できませんが、あのあたりの地積がかつては左口だったんです。
不明になっているもう一つの左口はもしかしたら生島足島神社になったのかもしれません
ああ、なるほど、そういう話でしたか!
レイライン上に泥宮と左口があったのかもしれませんね。