
三国国造のオホド王が大王になったのを見て、筑紫国造家の岩井が野心を起こし、ヤマトの大王に対抗しようとした。
しかしヤマトの軍勢に攻撃され、岩井は国造の職を失った。岩井は生前に、自分の古墳を築いていた。それが福岡県八女市にある、岩戸山古墳という前方後円墳であった。
その古墳には、後円部の横に四角の造り出しがあり、そこに石馬や石人が並んでいた。
岩井氏が没落し、古墳造りの技術者は失業した。かれらは出雲やホウキ(伯者)国、淀江に移住した。旧向王家の大庭鶏塚は、その技術者が築いたらしい。その古墳には、岩戸山古墳に似て、造り出しが付いている。
ー 大元出版 斎木雲州 著『出雲と蘇我王国』


先日、米子市淀江町福岡の”石馬”を愛でてまいりましたが、そういや福岡の石馬ちゃんの現物は見たことなかったなと思い、出かけてみることにしました。

場所は福岡県八女市にある、岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」です。

「いわいの郷」は岩戸山古墳(いわとやまこふん)に隣接して建つ歴史資料館で、岩戸山古墳をはじめ八女古墳群から出土した貴重な資料を展示するとともに、各種体験事業やイベント等の情報発信を通じて、世代や地域を超えた交流をはかる場となっています。

岩戸山古墳は北部九州最大の前方後円墳で、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の墓とされています。

筑紫君磐井は八女一帯を支配し、その勢力は北は玄界灘、南は有明海までといわれ、朝鮮半島の新羅と独自の交易ルートを持ち、当時のヤマト王権に対抗するほどの勢力を誇ったといいます。
そんな磐井一族の栄華が偲ばれる豊富な出土品が保管・展示されているのが岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」です。
磐井一族は、527年の「筑紫君磐井の戦い」でヤマト王権に敗北し、以後衰退しました。

この戦いは「磐井の乱」(いわいのらん)と称されるのが一般的で、『日本書紀』には次のように記されます。
継体天皇21年(527年)6月3日、ヤマト王権は新羅に奪われた南加羅の喙己呑(とくことん)を回復するため、近江毛野に命じて6万人の兵を任那へ向わせた。
この計画を知った新羅は、筑紫国造の磐井へ贈賄をし、ヤマト王権軍を妨害させた。

挙兵した磐井は、火の国(肥前・肥後)と豊の国(豊前・豊後)を制圧するとともに、朝鮮半島諸国の朝貢船を誘い込み、近江毛野軍と交戦。
この時磐井は、近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない」と言ったという。

ヤマト王権は荒ぶる磐井を平定するため、評議の上、物部麁鹿火(もののべのあらかい)の軍を派兵させた。
528年11月11日、磐井軍と大将軍・麁鹿火の軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦、激しい戦闘の末、磐井軍は敗北したのだった。

この、「筑紫君磐井の戦い」は『日本書紀』の記述によれば、たしかに磐井の「反乱」と呼ばれる内容でした。
しかし『古事記』では、「筑紫君磐井が継体大君の命に従わず、無礼が多くあった。そこで物部麁鹿火と大伴金村の二人を遣して、磐井を殺した」とだけ記されるに留まります。
『筑後国風土記』によると、「筑紫君磐井が豪強暴虐にして、継体大君の命に従わず、生前のうちに、自分の古墳を造ったりしていた。そこに急に官軍の襲撃を受け、その勢いを見て勝てないことを悟った磐井はひとりで豊前国に逃れ、南山の険しい嶺の隅で亡くなった」とあります。
つまり、筑紫君磐井はヤマト王権にまつろわぬ者ではありましたが、どちらかというと一方的に攻撃を受け、「反乱(乱)」という表現に違和感を感じるものとなっているのです。

大元出版の『出雲と蘇我王国』において、富先生は「三国国造のオホド王が大王(継体天皇)になったのを見て、筑紫国造家の岩井(磐井)が野心を起こし、ヤマトの大王に対抗しようとした」と表現してあります。
この記述からは、磐井の反乱があったかのように受け取れますが、背後に朝鮮半島の情勢が関係していたとは感じ取れません。

ただ、『出雲と蘇我王国』でも、岩井氏の没落後、岩戸山古墳などを築いた技術者は出雲や伯耆国、淀江に移住したとありますので、旧王家には彼らを受け入れる理由があったと考えられます。
実際に、旧向王家の大庭鶏塚も、磐井氏の技術者が築いたらしいとのことです。

この写真に写っているのが、岩戸山古墳にあった石馬(せきば)ですが、淀江のものと違い、残念ながら胴体のみの姿で、愛らしい顔やお尻を見ることができません。

筑紫君磐井は物部麁鹿火に敗れ殺された、というのが通説ですが、『筑後国風土記』では「官軍は磐井を見失った」としており、ゆえに兵士の怒りは止まず、「石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち落とした」と記されています。
磐井はひょっとして淀江に逃げ、生き延びたのか。

残念ながら、富家の口伝にはそうした事実は語られておらず、淀江にもそこまでの痕跡を見つけることはできませんでした。

『三国史記』『三国遺事』といった、当時のことを記す朝鮮半島側の資料には、磐井の乱の記事は全く存在せず、新羅が磐井に賄賂を送ったとする証拠も見当たらない、ということです。
歴史に言われる「継体天皇」とは大和王権のオホド大君(大王)のことで、東出雲の旧王家の「富彦太」のことでした。
筑紫君磐井も旧出雲王家の血筋を感じさせるわけですが、なぜ彼らは争うことになったのか。

八女の古墳群や岩戸山古墳の規模を見ると、磐井氏は巨大な勢力を有していたことが分かります。
それは当然、支那国や朝鮮半島諸国との交易がもたらしたものが大きかったでしょう。
磐井氏の影響力は筑紫のみならず、豊・火の国にも及び始めていたとすれば、それはオホド大君が就任する前から、ヤマト王権にとっては懸案事項だったのかもしれません。

527年の南加羅の喙己呑奪還の件も史実は怪しく、当時の南加羅(金官国)はまだ滅びてはおらず、滅亡は5年後の532年だといいます。
オホド大君は、まだ滅亡していない南加羅のために派兵しようとしたでしょうか。

南加羅滅亡の5年前、朝鮮半島の情勢に不穏な空気が流れはじめると、筑紫君磐井への物資流通も滞りがちになった可能性はあります。
それを知ったヤマト王権は、兼ねてより目の上のコブであった豪族を打ち滅ぼす好機である、と考え挙兵したのかもしれません。
そこには、大和大君家に次ぐ第2勢力にならんと狙う、物部氏・大伴氏の進言もあったのではないか。

こうして不意を突かれたか、結果、磐井一族は敗れ、九州はもとより日本各地方の支配体制は大きく変化していくことになります。
これを機に、王権と豪族の間に制度的な君臣関係が成立し、氏姓制度や国造制、ミヤケ制が作り出されていくことになるのでした。

破壊された石人石馬は何を物語るのか。
これらの栄枯盛衰を滲ませた歴史的遺物は、ヤマト王権の力の誇示、豪族らへの見せしめであった可能性を、感じました。

narisawa110
大元出版では大彦に近いとも書かれる磐井ですが、岩戸山という名称から、大彦は大伴に近いんでね?というインスピレーションを得てちょっと妄想してみたんです。
つまり、磐井も大伴に近いと。
たしか、大伴氏が失脚したのは事件から20年も経ってから
あと、一部に磐井の方が勢力の強い王様側であったと分析する意見もありますね。
筑紫君磐井、またはその息子が逃げた先が彌彦神社だったりして。
イヤヒコ=イワイヒコ、なんてね😙
narisawa110
大伴氏が後年に阿部朝臣を名乗ったケースは今の所調べきれませんでしたが、ムツカリさんの時に貰った職が、「膳大伴部」ですので、何かはあると思うわけです。
なにかある
それはそうと、イヤヒコ=イワイヒコなんじゃないかって、シャレで言ったわけですが、彌彦神社の少し西、長岡から出雲崎にかけて、石井神社や石部神社が点在しています。
ほとんどは出雲の神を祀ってたりしますが、一ヶ所だけ、イワイヒコを祀る石井神社がありました。
narisawa110
大伴氏ですが、この前の阿部氏の名乗った氏族で再度調べると、大伴君は道君と同族か?と出ています。
つまり、道君と道臣と同じ様に、大伴君と大伴臣でも対比が成り立つ様な気がしています。
wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/abe1g.htm
確か千葉の阿波国造は、大伴大瀧の記述でしたね。
イワイヒコって聞くと、香取の斎主を思い出します。
(かとりのいわいぬしを最初に変換しようとしたら、香取の岩井主と出ましたw)
ふふふ(ΦωΦ)フフフ…
五条先生、
出雲崎観光協会のガイドさんにお願いしたら、なんと地元の方が道作って9月に道をつくってくださるそうです。。
が、五条先生は夏やというと。。8月中??
いや多分、すごい草ボーボーで
イノシシでるし、虫が。。
えっと、草刈りしてくださる9月まで待たれませんか(^_^;)💦
特攻あるのみ!
こんにちは。そちらの元祖石馬ちゃんも再度ご覧になられて、淀江のを見た後だと更によかったのではないでしょうか。
ワシもですねえ、
磐井がどうも大和朝廷の一勢力との抗争に巻き込まれてしまったように思えてならんのですよ。
同じ釜の飯を食う、
これは志はかつては一緒ではなかったか?なぜそんなに変わったか、との訴えのような気がします。
継体天皇に関しては、わかりませんが、後の安閑天皇となる継体天皇の息子が、百済に四県割譲しようという物部氏と大伴氏に反対していたという説があり、振姫との間にもうけた息子2人の天皇政権はあまりにも短く短命だったことからこれはひょっとして暗殺されてしまったのではないかという疑惑も感じないこともないです。。
継体天皇としては息子を守らねばならないという気持ちはあり、磐井は悪くないという気持ちもあって板挟みで身動きとれなくさせられてたんちゃうかと想像したりもします。
淀江で継体天皇と淀江というセミナーがあったらしく、富姐さんが参加されたそうです。そこでそのセミナー講師の学者さんが、
「それでは磐井がかわいそうだ」
と言われ、それがキャプションになってる冊子を配られました。
内容はめちゃくちゃ難しく(ほとんどが出土品とその頃の朝鮮半島情勢、文字ギッシリ)まだ読めてませんが💦(^_^;)
それでは磐井がかわいそうなので、
ちゃんとまた読んでみます。。
磐井の戦いについては、裏がありそうですね。
それはそうと、これから夏休みなので、神屋敷にチャレンジしようと思っています。
が、入口見つけるところから、情報が皆無ですね😅