天宮山:八雲ニ散ル花 63

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「祖神様、今日も良い天気です。」

松江南部の熊野神社の横に、富家の屋敷があった。
そこに旧王家の家族とともに、次男「富彦太」(トミノヒコフト)が住んでいた。
彦太はよく、屋敷そばの熊野山に登り、時を過ごすことが多かった。
山頂付近には祭庭があり、さらにその奥に磐座があった。

第二次出雲戦争と呼ばれる物部族の侵攻を受け、神魂の王宮を追われることになった旧東王家の富家は、移住先をこの熊野の地に選んだ。
それはこの熊野山の磐座が、旧東王家にとって最も重要な聖地だったからに他ならない。
熊野山にはこの磐座を祀るための祭庭が設けられていたので、いつしか「天宮山」と呼ばれるようになった。

彦太は信心深く、磐座に眠るという東王家の大祖神「事代主」をよく祀った。
事代主とは、出雲王国8代の少名彦であった「八重波津身」副王のことだ。
王国の軍事をまとめ、東王家の偉大な主人だった彼は、非業の死を遂げていた。
もはや伝説となった祖先を、彦太はことのほか崇拝し、敬愛していた。

「いよいよ私は、出雲を去る時が来ました。こうして祖神様に参拝させていだたくのも最後かもしれません。」

彦太がしばしの間、瞑想していると、下の方から声がした。

「若殿、振姫様がみえられました。」
「そうか、今降りる。」

富家は王家ではなくなったが、依然出雲の大地主であったので、村人たちは彦太を「若殿」と呼んだ。
今やって来たという振姫は、越前三国の蘇我国造家の一人娘である。

昔、武内宿禰大田根が、大和イクメ大王の刺客に命を狙われた時、富家は彼を匿い助けたと云う。
その恩を忘れることのなかった大田根の子孫、蘇我家は、富家と数百年も続けて嫁や婿を送り合っていた。
それで蘇我家が振姫1人しか子に恵まれなかった時、富家の次男を婿に迎えたいとの話が持ち上がった。

彦太が山を降りると、熊野の社の周りに人が集まり、祭りが行われていた。
そこには各地に散った旧出雲人が集まり参列している。
参列者に挨拶を交わし奥に進むと、美しい女性が花嫁の衣装を纏い、待っていた。
振姫である。

「ようお越しになられた。すぐに支度しますので、しばしお待ちを。」

一時して衣装を変えた彦太が皆の前に現れた。

「皆様、今年も熊野の祭りにて、無事、健やかなお姿を拝見し、嬉しく思います。
我ら富家も王位を失いはしたものの、こうして今日まで無事過ごしてまいりました。
そして私、彦太は、只今より三国の蘇我家へ参ります。
記念すべきこの日の祭りにおいて、我らが大祖神様に誓いましょう。
私はこの振姫と夫婦となり、出雲と蘇我の一大王国を築き、必ずや両国に、再び栄華をもたらさんと。」

民衆の大喝采の中、彦太は振姫の手を取った。
振姫を駕篭に乗せ、自らは馬に乗り先導してゆく。
その道はやがて三国へと至る、意宇川に浮かぶ船へと続いていた。

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島根県松江市、意宇川の上流に「天宮山」という山があります。
『出雲風土記』に、「熊野山」(くまぬやま)と記される山です。

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天宮山は駐車場まで車で進めますが、途中から標識が「天狗山」に変わっています。

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天宮山駐車場と書かれた看板がありますので、ここに車を停めます。
車道はもう少し先まで続いていますが、オフロード仕様でもない限り、ここで下車することおすすめします。

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駐車場から山頂までは1時間弱ほどの登山です。
しばらくは車道に沿って登ります。

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天宮山は地元の人たちにとって気軽に登れる山として人気があるようです。

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しかし当山は熊野大社の聖域であり、本来はしっかりとした心構えを持って登るべき山です。

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というのも、当山頂付近にある磐座には、かの事代主のご遺体が眠っていると云うからです。

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古代出雲では王族が亡くなると、遺体は防腐処理を施した上で、ヒノキの大木の茂みに隠されたそうです。
その木には、締め縄が巻かれ、紙弊が付けられ、「霊モロギ」と呼ばれました。
そして3年後、遺体は洗骨して、山奥の磐座の横に埋納されました。

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意宇川中流域にある神魂神社は、もともとは東出雲王家「富家」の王宮でしたが、その裏手に大きな丸石が積み置かれ、拝み墓とされていました。
天宮山山頂付近にある磐座は、富家の埋め墓だったと云います。

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つまり八重波津身・事代主をはじめ、代々の東出雲王族のご遺体が、ここの磐座に眠っているのです。

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奈良の三輪山は大物主の墓とされていますが、そこはクシヒカタが事代主を祀った山でした。
一般に大物主とは大国主の奇魂(くしみたま)とされていますが、それは誤解のようです。
クシヒカタは父の神霊を、熊野山から三輪山に分霊し祀りました。
とするなら、天宮山は三輪山の元宮となります。
近年まで禁足地とされてきた三輪山の元宮ですから、三輪山以上に厳正な気持ちで、登山させていただくべきなのです。

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登山道入口に着きました。
ここからが本格的な登山です。

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物部軍の侵攻に敗北した富家の大田彦は、王宮(神魂神社)から意宇川上流にある八雲村熊野に引き上げて、そこに住みました。
それが今の熊野大社です。

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”クマ”とは神に備えるための米の古語で、それを栽培した土地が「クマノ」だと云われます。

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出雲の熊野大社の祭りの時には、各国に散らばった旧出雲人が参列しました。
彼らは各地の出来事を、富家に報告したそうです。
それがやがて「散自出雲」という秘密情報組織になり、日本の大事件の裏表を探る仕事を担っていくことになりました。

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山の麓に熊野大社が建てられる以前は、天宮山の中腹に斎場があり、人々が集まり、先祖代々の神霊を拝んでいました。

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それが天宮山の名の由来になったと思われます。

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天宮山は、今は地図にも「天狗山」と書かれていますが、これは後の心無い人が付けた名だと思われます。
確かに畏れ多い山ではありますが、天狗などはこの地にいなかったのです。

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登山口から10分ほど登ってくると、小さな沢があり、

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水が湧き出ている場所があります。

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そこに「意宇の源」とありますが、まさにここが、意宇川の源泉になります。

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意宇川とは「王川」の意味です。
それは東王家の土地を流れ、王の海に注ぐ神聖な川なのです。

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再び山道を進みます。

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そこそこきつい登山です。

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薄暗かった道が、にわかに明るくなって来ました。

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登山ルートを示す標識の先に、何か見えて来ました。

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「不思議な構築物」とあります。

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石垣の土台のように見えます。
王家の者が、死体に触れることは禁忌とされた時代、この先の埋め墓は近寄りがたい聖域だったのではないかと思われます。
ここに遥拝のための祭壇があってもおかしくありません。

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さらに先へ進みます。

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ふと体が軽く感じてくるころ、

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お目当の場所が、見えて来ました。

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天空の宮です。

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石が積まれただけの祭壇、

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往古には、ここで祭が執り行われていました。

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急勾配な斜面の先にも、何か標識があります。

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「磐座 この上」

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その磐座に至る道はありません。
転げ落ちる覚悟で、熊笹の根元を掴み、よじ登るしかありません。

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なんとか、必死に、カメラを守りつつよじ登ります。

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そしてありました。
ここが富家の王族が眠る聖地です。

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いくつかの岩が重なっているように見えます。

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岩の数だけ、ご遺体が眠っているのかもしれません。

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岩と岩の間には、洞窟のような隙間が空いていて、そこから畏れ多い何かを感じずにはいられません。

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厳粛な気持ちで、参拝させていただきました。
本当は気軽に、立ち入ってはいけない場所なのだと思います。

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あと、登ればやはり、降らなければならないということも、念頭に置かなければなりません。

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武内大田根の命を救ったことが縁で、蘇我家と富家は親しい仲になりました。
大田根の子孫「若長」は、越前の国造となり「蘇我臣家」を名のりました。
その子孫が蘇我家の「振姫」です。
両家では毎年のように家族同士が訪問し合い、親しんでいたと云います。
ある時、蘇我家が一人娘の「振姫」に、富家の次男「彦太」を婿養子に求めましたが、この縁談はすぐにまとまったそうです。

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その年の熊野山の大祭には、振姫君が訪れましたが、それは婿迎えの意味もありました。
彦太殿が、帰路に就く姫君に付添い、そのまま蘇我家に入籍することになっていたのです。
つまりこの旅は、いわば2人の新婚旅行でもあったのでした。

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蘇我国入りした彦太は王となり、『日本書紀』に「男大迹王」(をほどのおおきみ)と記された名君となります。
彼こそが26代「継体天皇」、その人でした。

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2件のコメント 追加

  1. narisawa110 より:

    出雲伝承が、公開する範囲をある程度調節していたのではないかと思われるのが三輪山の太田氏

    出雲とヤマトのあけぼの、の頃は富編集長は、墨坂神社への取材をしようとしていましたが、不在で叶いませんでした。
    それから富士林先生の本の表現に変わっているわけです。
    どちらかと言えば謎の出雲帝国よりに八咫烏の暗黒面が若干出始めています
    当初からあの表現で本を書いていたら、おそらく編集長は、墨坂神社の太田家の取材が難しいと考えていたのではないでしょうか

    謎は更に残ります

    倭国大乱期に磯城登美家の拠点は山代国にうつり、賀茂神社になりました
    そこに八咫烏が居る訳ですから、立ち位置は微妙です。
    富本家や磯城登美家に対抗心があったとする太田氏の象徴が祀られる様になるのにはもう少し説明が必要な気がします

    あと、太田氏が大王であったとするのなら時期的な1.5代から2代の欠史が埋まるので、大彦からヒコタツヒコの間にはまだ秘密がある様な気がします

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      ほんとうに、その期間は謎が多いですね。
      根深い矛盾が残ります。
      斎木氏や富士林氏も詳らかにできないということは、それだけの理由があるのかもしれません。

      いいね

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