
鹿児島で最も大きな神社、鹿児島市の総氏神という触れ込みでしたので、鹿児島市照国町にある「照国神社」(てるくにじんじゃ)を参拝しました。

祭神は「照國大明神」、薩摩藩第11代藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)公、確かに立派な神社です。

祭神は島津家28代当主で安政5年(1858年)7月に50歳で急逝しました。
今和泉島津家出身で、斉彬の養女・天璋院は江戸幕府第13代将軍・徳川家定の御台所となっています。

斉彬は藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興しました。
ジョン万次郎の保護、西郷隆盛や大久保利通の登用など、幕末に活躍する人材も育てた名君として知られます。

僕の中で「SHIMAZU」といえば、”首置いてけ妖怪”の島津豊久ですが、彼の印象のおかげで、”島津=なんかもっさい”から”島津=かっちょええ”に変わりました。
『ドリフターズ』はなかなか新刊が出ないのが、アレだけどね。



鹿児島市草牟田、住宅街の一角に鎮座する「鹿児島神社」(かごしまじんじゃ)は、鹿児島三社に数えられる神社ですが、照国神社や鹿児島神宮、霧島神宮の影に隠れて、県外人にはあまり知られていないかもしれません。
社頭には「鹿兒嶋神社」と古い表記で記されていますが、

鳥居の扁額にはさらに古い呼称である「宇治瀬大明神」(うじせだいみょうじん)の文字が彫られています。
宇治瀬は「宇氏瀬」とも表記するようです。

当社の創建年代は不詳ですが、『日本三代実録』貞観2年(860年)3月20日条に「薩摩國従五位下鹿児島神に従五位上を授く。氏神は鹿児島の地主神なり」と記されており、薩摩国の「鹿児島神」に充てられています。

社伝には、「彦火火出見尊(山幸彦)が綿津見宮に行かれた折、豊玉彦命は心を尽くして彦火火出見尊に仕えられたが、其の誠忠偉勲の功を称える為、彦火火出見尊の御子の鵜葺草葺不合命が創祀された」と伝えられているようです。

祭神は、「豊玉彦命」ほか「天津日高彦火火出見尊」「豊玉姫命」「豊受大神」の4柱となっており、豊ファミリー勢揃いといった感じを受けます。
ホホデミは神話では山幸彦に充てられますが、大元出版本の系図では徐福・饒速日と市杵島姫の子で物部家の始祖とされます。また、豊玉姫の夫として見るなら、物部イニエ王(崇神帝)ということになります。
豊玉彦命は、神話では豊玉姫命の父神・大綿津見神の別称とされますが、高良玉垂宮の神秘書では「事代主」になっているようです。

社伝では創祀者はウガヤフキアエズとなっていますが、富家伝承的に考えるなら彼は豊玉姫の息子「豊彦」ということになりますので、果たして彼が鹿児島に来て事代主を祀ったということになるのでしょうか。
豊受大神は豊玉姫の娘で豊彦の妹である「豊姫」のことと考えられますが、現在地の玉里地区がかつての当社神田であり、そこに祀られていた穀物神の豊受大神を合祀したということのようです。

この日参拝していると、社務所の方(権禰宜さん?)がお話をしてくださましたが、この小さな神社こそが桜島を神体として祀った、唯一の神社なのだということです。
というのも、宇治瀬大明神は、往古は錦江湾に浮かぶ「神瀬の小島」なる島に鎮座していたのだそうです。

「神瀬」(かんぜ)は桜島の西南西、錦江湾に浮かぶ小島で、神話の因幡の白兎に因んで、古来潮路の波の穂に跳ねる兎の絵が描かれて来ました。
それを「兎道瀬」と呼び、宇治瀬大明神として祀られるようになった、ということです。
「宇治瀬様」は薩摩弁で「ウッテサァ」と呼び親しまれていました。

宇治瀬大明神は、神瀬の小島からいったん桜島の麓である横山に移り祀られ、さらに室町時代の頃に現在地に遷座したと伝えられます。

社殿の横の奥に置かれている石鳥居(こちらは拝見し忘れました)や、境内に置かれた石の扁額は、かつて桜島の袴腰地区にあった「神瀬の小島」の遥拝所のものだということです。

一説によれば、古くは桜島を「鹿児島」と呼んだとするものもあり、そうであれば、当社が本来は桜島=”鹿児島神”を神体としていたと考えるのも理にかなっています。
由緒にある「鹿児島一円の地主神」「鹿児島というこの地の言霊」としてその呼称由来になったという説明にも、納得できます。

僕は、天降川の下流域に鎮座していた「蛭兒神」(ひるこのかみ)が鹿兒嶋の「鹿の兒」、神の児ではないかとちょっと思ったのですが、ヒルコと事代主はどちらもエビス神とすることがありますので、ムリクリ結びつけられなくも、なくもなくありません。豊族が桜島に事代主を祀ったとか・・・ね。

古く里では、当社の春祭(2月18日)から秋祭(ホゼ祭/10月18日)までの期間を「宇治瀬」(うじせ)と言い、それ以降の半年を「宇津佐」(うずさ)と言い分けて呼び慣わしていたということです。
また、その2月と10月の祭礼月を俗に「神月」(こうづき)、さらに18日の祭りを迎えるまでを「柴内」(しばうち)と呼んで、ことごとく忌み慎みました。

島津氏の崇敬も篤く、藩政時代には家久以下、代々の薩摩藩主から鹿児島三社のうちの一社とされ、家督を相続するとまず初めに当社に参詣する例とされた宇治瀬大明神。
2月の柴内の間は、領主、藩主といえども他国は勿論、他所へ赴くことも禁じられていたということです。

さて、当・鹿児島神社が薩摩・大隈圏内の原点的神社であるとして、誰が豊玉彦、ないしはホホデミと豊玉姫の夫婦神を祀ったのか。
南九州で思い浮かぶ一族といえば「熊襲」「隼人」となります。

隼人(はやと)とは、古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住したとされる人々で、日本神話では海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、火照命の末裔であるとされるとのことです。

師匠の考えでは、山幸彦が物部を、海幸彦が海部を表しているということでしたが、それでいけば隼人は海部家の末裔ということになり、豊玉姫を祭祀するのは理解できるが、はて、なぜホホデミが祀られているのか?という疑問が湧いてくるのです。


(追記の追記)
とりとめなくて申しわけありません💦
つまり、尾張は物部と同じく一枚岩ではなかったように思ってます。
叢雲派海部系尾張氏とは違うもう一つの物部系尾張氏とでもいうか。
情勢を見て、ヤマトで大彦を裏切り吉備から出雲を攻めたフトニと、初めは物部についた(ついてしまった(^_^;))武内大田根と丹後若狭の途中からの寝返りの情勢を見て、近江や東海に鉄等の資源を流すには一旦、瀬戸内海ルートについたほうがいい、と判断した物部+尾張氏がいたのではないかなあと。
越の八口は、私見にはなりますが、
北陸の羽咋あたり(奈鹿曽根彦神社+姫神社やら、地震で土砂崩れにより倒壊した宿那彦神像石神社にこないだ参拝にいきました。どうにもこうにも出雲でした😊)
そう、日本海に面した能登半島の玄関口みたいな羽咋の邑知潟が、今でも八の字型に潟があるので、
越の八口とはあの辺りのことを指してないかなあと思い、(地元伝承もありました。。)
八岐大蛇とは、越の八口を統治していた向家と蘇我連合國のことを指すのか、剣で尾を割ったら、尾割り→尾張氏から叢雲剣→熱田神宮へ、これが叢雲派海部系尾張氏だとすると。。そして尾割りですから、物部系尾張氏がいてもおかしくないなあと、まあ勝手な想像ですね🐴。叢雲に九州の后を必死に勧めていた物部系尾張氏の存在はないのですかねえ。。尾割り、というダジャレからここまで考えるのは突飛としか言いようがないですけど。。
北九州からヤマト入りをリベンジしたい物部豊連合軍が南九州を渡り瀬戸内海ルートから紀伊半島経由でヤマト入りをした、その時に恐らく新羅(実は伽耶?)と鉄交易でイニシアチブをとっていた丹後、但馬の田道間守をうまく活用して、近江や東海に鉄を流すのに、出雲と組むか吉備勢力と組むかを見定めていた尾張氏の一派もあったのではないかなあと。
出雲→丹後→北陸→近江→東海→東国へと日本海ネットワークを作っていた大彦につき、古くからヤマト入りしていた笛吹連と呼ばれた子孫たちや、丹後に戻った海部氏や、物部に攻められ劣勢になってから海部氏は結構、離散してますよね。
尾張氏は物部氏や大伴氏と同様、一筋縄ではいきませんね。
現代だって、組織の中の部門にも派閥があるくらいですからね、一枚岩になる、というのは難しい。富家伝承に、勢力盛んになった親族には気をつけよ的なこと書いてありましたね、そういえば(^_^;)💦😨
こんな上記のことを想像したりして、
桜島に月読神社があったり、
鹿児島神社の祭神の豊玉姫、豊姫から、宇治瀬=ウジセ→ウサなんぢゃないかなあとか、ほんで、ホホデミはオマケの夫、イニエ(^_^;) と、考えさせられました。
それで思い出したのが、桜島の月読神社の祭神の木花咲耶姫とイニエ。なぜ月読?何かを見落としてますかね。
また、阿多津姫って書記にある吾平津媛という一説もありますが、私は同一人物ではないように思います。書記なので疑わしいですが、吾平津媛らしき姫もなんだか実在しているような。。。木花咲耶姫とは違う姫さんかもと気になりました。
どの一族でも、むしろ一枚岩という方が稀有だったのではないでしょうか。
出雲王家も、大和の吉備家から攻められ、物部には宗像家も加勢していた可能性があります。
また、勝った一族が負けた一族から嫁をもらい習合していく様は、大元出版本にも書かれていますね。
(追記)
前記のコメで、北九州とその頃のほうが蜜月にあった。。というのは
叢雲派(と勝手にくくる(^_^;)💦)=笛吹連系海部氏→尾張氏→大彦と組んだ
阿多といえば、阿多津姫こと木花咲耶姫ですね✨️
桜島は、木花咲耶姫に由来する説を持つ島と読んだことがありますが、島内には彼女を祀る月讀神社があるんですよね?かつては「サクヤ島」と呼ばれ、それが転じて現在の「桜島」になったと言われてて。。桜島は火を鎮める火山信仰の対象であったと。
富家の伝承では阿多津姫とでてきますが、書記にでてくる吾平津媛とはなんか違うんじゃないかなあと思えるのです。崇神の后の木花咲耶姫=阿多津姫だけど、吾平津媛という后がなぜか別にいたような気がしちゃうというか。創作の姫ともまた違うような。。
いえいえ、富家伝承と記紀を混合して混乱してるわけではありませぬ。叢雲は南九州の后は娶らなかったのかなあという素朴な疑問が実は前からありまして。。
北九州、出雲、北陸、伽耶は日本海経済文化圏ネットワークっぽくて、このルートから近江や尾張、東國へ鉄やら翡翠が考古学的に流れてるっぽいので、それより遠い昔の叢雲の時代でも九州の后を娶っててもおかしくないなあとか思うときがあるのです。その時のほうが北九州とは蜜月だったでしょうし。。
わかりませ〜ん
けど
わかりた〜い(笑)