
ようやく着いたかと思いきや、まだあと8kmもあるのか。

目指す先は鹿児島大隅半島の南端「佐多岬」(さたみさき)。
桜島に渡ってしまえばピョイっといけるかと思いきや、下道95km、約2時間の道のりとは参りました。

信号も少なく、海沿いの道は心地良くはありましたが。

そんなことで、ようやく辿り着きました、”本土最南端”「佐多岬」へ。

佐多岬展望公園に到着すると、立派なガジュマルの木が出迎えてくれました。

当地は平成24年(2012年)10月29日まで岩崎産業が運営する佐多岬展望公園として入園料を徴収していましたが、10月30日付で南大隅町の所有となり、現在は無料で入園できるようになっています。

佐多岬は北緯31度線が通過しており、ニューデリーやカイロと同緯度となっています。
北東から伸びてきた大隅半島が細まって海へと没する地点で、岬の先にもしばらく岩礁が続いているとのこと。

その様子は、江戸時代後期に薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』(さんごくめいしょうずえ)にも記されています。

岬の先端には、明治4年(1871年)に設置された佐多岬燈台があります。
明治初期の日本で多くの灯台を手がけた英国人リチャード・ヘンリー・ブラントン設計の燈台でしたが太平洋戦争で被災。現在建っているのは昭和25年(1950年)に再建されたものです。

ただ、一般の人は燈台まで行くことはできず、手前の展望台までの立ち入りとなっています。
その展望台まではまあまあな距離を歩くことになり、かつまあまあな勾配を登らなくてはなりません。
本土最南端を感じるには、車で来ることのできる現在地まででも十分ですが、この先に本土最南端の神社があるというので、行ってみることにします。



トンネルを通って少し降っていくと、

本土最南端の神社「御崎神社」(みさきじんじゃ)があります。
白いコンクリート製の社殿。

創建は意外と古く、和銅元年(708年)3月3日に神託があり、同年6月に神社が創建されたとされます。

現在の祭神は「伊邪那岐命」「伊耶那美命」に加えて、「外御子命六神」(底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、底筒男命、中筒男命、表筒男命)となっています。
『三国名勝図会』によると古くは「御崎三所権現社」と呼ばれて、祭神は「底津少童命」(そこつわたつみのみこと)「中津少童命」(なかつわたつみのみこと)「上津少童命」(うわつわたつみのみこと)の綿津見三神であったとされます。
あるいは「六所権現」とも称したとも伝わるので、綿津見三神と住吉三神を合わせ祀っていたものと思われます。



『三国名勝図会』の絵図では、社殿の前に参道が描かれていますが、

当社殿の前にも道があり、当時から境内は変わっていないことがわかります。

降りていくと赤い鳥居があり、

壊れてはいましたが仁王像もありました。
絵図の通りです。

さて先に、当社は綿津見三神を祀って「御崎三所権現社」、あるいは住吉三神を加えて「六所権現」としたと記しました。しかし次のような話も伝えられます。
当地の「佐多」という地名は、当社が元は出雲国秋鹿郡(松江市)の佐陀神社(佐太神社)を勧請したことが由来である、というものです。
現在の祭神の「伊邪那岐命」「伊耶那美命」は佐太神社の祭神に由来するものかもしれませんが、そうであれば「外御子命六神」は、本来は佐太神社祭神の「佐太御子大神」(さたみこのおおかみ)のことかもしれません。

また、当社はもともとは海岸の磐屋に開設された浜宮であったといい、2月19日・20日(元来は旧暦1月19日・20日)には御崎神社から約20離れた近津宮神社(ちかつみやじんじゃ)まで神輿渡御する「御崎祭り」が受け継がれています。

この祭りでは、御崎神社の「妹神」が近津宮神社の「姉神」に新年の挨拶に行くのだと言い伝えられています。
海に関する姉妹神といえば、豊玉姫と玉依姫のことが思い浮かべられ、御崎神社の真の祭神は玉依姫だった、とも推察することができそうな気がします。
隼人が崇拝したのは、この姉妹神だったか。

赤い鳥居の傍には根を伸ばしたガジュマルの木があり、ソテツが群生しています。

慶長14年(1609年)に島津氏が琉球王国に侵攻する際、大将であった樺山久高(かばやまひさたか)は浜宮(御崎神社)に戦勝を祈願し、帰国すると琉球より持ち帰ったソテツを参道のまわりに植え、そのソテツが大繁殖したのだといいます。

このソテツを持ち出すことは禁じられており、これを破ると祟りがあるそうだと言い伝えられていました。

帰り道、本土最北端の「宗谷岬」まで2700kmの案内板を見かけました。
この半年間で僕は、本土最北端と本土最南端を制覇したことになります。
日本は小さいようで、とても広大です。



