佐太神社・田仲社:八雲ニ散ル花 07

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島根県松江市にある「佐太神社」(さだじんじゃ)は、神在月において、神々が最後に立ち寄る神社だと噂されます。

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非常に格式ある神社ですが、その内容においては謎も多いと聞いています。

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「秋鹿郡佐田大社之記」に第11代垂仁天皇54年の創建で、養老元年(717年)に再建されたとあります。
垂仁天皇といえば九州の物部氏で大和へ東征を行い、大和磯城王朝を滅ぼして大王となった人です。

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その頃は出雲王家の命運に関わる時でした。
出雲では西側から物部軍、東からヒボコの子孫の田道間守(タジマモリ)軍率いる猛攻撃を受け、そして、出雲王国の600年の長きに続いた歴史が幕を閉じた時でもありました。
しかしその後、当の垂仁・イクメ大王から依頼を受けた出雲族の野見宿禰が、目の上のコブであった田道間守を打ち倒すなどの功績で、再び出雲族が重宝されました。

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そうした中、創建された佐太神社は、「出雲国風土記」によると、もとは神名火山(朝日山)の麓に鎮座していたと記されています。
朝日山は当社の杜の後ろ、西に2km先にある山となります。

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社殿は3棟あり、正中殿は「扇の地紙」の神紋に、御祭神は「佐太大神」「伊弉諸尊」「伊弉冉尊」「速玉男命」「事解男命」、 

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北殿は「輪違」の神紋に、「天照大神」「瓊々杵尊」、

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南殿は「二重亀甲」の神紋に、「素盞鳴尊」「秘説四柱」の、合わせて十二柱をお祀りしています。

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しかし、これらの十二座の神は後に祭祀されたもののようで、風土記には「佐太御子社」とあり、延喜式には「佐陀神社」とあって、その祭神は一座としか考えられません。
当社の本来の祭神は「佐太御子神」一座であったと思われます。

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明治維新後、佐太神社は松江藩から、この祭神について、正殿の秘説一座の神名を明らかにして、かつこれを「古史伝」の説に従って「猿田彦命」とせよという強硬な命令を受けました。
しかしこれは、当社にとって根本をゆるがす大問題なので、正神主以下、祖法を楯に挙って猛反対したと云います。

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これを藩は聞かず、明治三年六月に至り、これを「佐太御子神」として顕示することで結着しました。
しかしそれでもなお収まらず、同十二年に、主神を「佐太大神」としましたが、さらに十八年、「佐太御子大神」と書替えるに至ったと云います。

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康元元年(1256年)の「社領注進状」(出雲大社所蔵)によれば、かつての佐太神社の社領は280丁と、杵築大社に匹敵するほどの敷地を有していたと云います。
宝永3年(1706年)の「佐陀大社勘文」によれば、島根郡と秋鹿郡に7000石の社領と224人の神人を有していましたが、太閤検地によって大幅に減じられたそうです。

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さて、佐太御子神とは「サルタ彦」のことであると多くの研究者が推察しています。
であれば、佐太大神はサルタ彦の父親であるので、「クナトの大神」のこととなるのかもしれません。
朝日山の麓には、クナトの大神の聖地があったのかもしれないということになります。

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本殿の北側に北末社があり、「山王社」(御祭神:大己貴命)、「宇智社」(うちしゃ / 御祭神:天児屋根命)、「玉御前社」(たまのみまえしゃ / 御祭神:玉屋命・たまやのみこと)、「竹生島社」(ちくぶしましゃ / 御祭神:竹生島神)、

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南側に南末社 として「戸立社」(とだてしゃ / 御祭神:手力雄命)、「振鉾社」(ふりほこしゃ / 御祭神:天鈿女命)、「垂水社」(たるみしゃ / 御祭神:岡象女命・みづはのめみこと)、「天神社」(御祭神:菅原道真)が祀られています。

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旧暦10月、出雲地方では八百万の神々がお集まりになる「神在祭」で賑わいます。
その中でも佐太神社の神在祭は文献上もっとも古くから執り行われており、且つ祭の次第も約500年前の記録とほぼ同じ内容で執り行われていると云います。
「いにしえの祭り」が正統に受け継がれているのが当社ということです。

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南末社の裏手に、ひっそりと石の階段が続いています。

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「母儀人基社」(もぎのひともとしゃ)とあり御祭神は「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)と記されています。

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一般に陰暦10月は日本中の神様が出雲に出かけるので「神無月」(かんなづき)と呼ばれています。
逆に出雲國では「神在月」(かみありづき)と呼ばれます。
由来については古来諸説、俗説多くありますが、「神在」は「ジンザイ」と読み、「鎮齋」(ちんさい)すなわち「忌」(いみ)の意味で新嘗祭(にいなめさい)に関係があるようです。

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古には、新穀を神に献ずる祭を「相新嘗」(あいにいなめ)といって10月に行っていたそうですが、大宝律令の制定にともなって、伊勢神宮だけは尊崇のため祭を繰り上げて9月に行い、その他は繰り下げて11月に行ったと云います。
そのため、10月は祭りが少ない月、すなわち「神無月」となったそうです。

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しかし、出雲國では依然として10月に新穀を献ずる新嘗の祭が行われ続けました。
また、風土記に載る「意宇」(おう)、「秋鹿」(あいか)、「楯縫」(たてぬい)、出雲の神名火・「神名樋山」(かんなびやま)に神々が去来するという「カンナビ信仰」が出雲國にはあり、これが中世になるとに諸国の神々は出雲國お集まりになるという伝承が生まれ、出雲國では「神在月」と呼ばれるようになったと云います。
 
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出雲の神在祭は「お忌さん」(おいみさん)と呼ばれていて、祭の期間中は、歌舞音曲、喧騒、造作等も慎む禁忌の祭でした。
祭は陰暦10月11日から25日までの15日間行行われていたそうですが、11日から17日までが「上忌」で準備期間としての「散祭」(あらいみ)と呼ばれ、18日から25日までが「下忌」で「致祭」(まいみ)とされたそうです。
下忌の方が重儀で18日に「神迎神事」を行い境内に注連縄(しめなわ)を引き渡すと25日の「神等去出」(からさで)神事が終わるまで謹慎斎戒に服したと云います。

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佐太神社では明治30年頃より陰暦10月を陽暦11月に改め、上忌が無くなり下忌のみを執行することになり現在にいたっているそうです。八百万の神々は出雲大社にお立ち寄りになった後当社においでになるという噂話は、これは出雲大社では上忌が残り、当社は下忌が残った為に生まれた誤伝だということです。

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さて、10分ほど山を登ると、母儀人基社が見えてきました。

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そこは、心地よい、幽玄の杜でした。

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佐陀大社(佐太神社)は八百万の神々の母神である伊弉冉尊(いざなみのみこと)の大元の社で、その背後の山に陵墓を祀っていると伝えられてきました。

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ここは中世の頃、「伊弉冉尊」の陵墓とされている「比婆山」(ひばやま)の神陵を遷しお祀りしたとも伝えられているそうです。
ただ、当社が元は神名火山(朝日山)の麓に鎮座していたと出雲国風土記に記されていること、佐太御子神が「サルタ彦」である可能性が高いことなどを鑑みると、ここでいう伊弉冉尊とは「キサカ姫」であると思われます。
つまり古代出雲族の始祖「クナト王」の后「幸姫」の陵墓ということになるのではないでしょうか。

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陰暦十月は伊弉冉尊が神去りました月であるという「卜部家」(うらべ)又は陰陽道の説により、八百万の神々は毎年この月になると当社にお集まりになり母神を偲ばれるのだとされ、この祭りを「お忌祭」と呼び、中根を中陰の意味としました。
つまり、神在祭とは出雲から各地へと散っていった人々が、祖母神の墓参りに里帰りする、そんなお祭りだったのかもしれません。

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佐太神社の参道を入口の方から進み出てみると、1本の大きな木が目に入ります。

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「雲陽誌」が「佐太の宮内にあり、佐太橋の西を折れたところに在る。 二殿在って東に木花咲耶姫、西に磐長姫を祀る」と語る「田中神社」です。

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「田仲社」とも表記される当社は、社殿二棟が背中合わせに鎮座しているちょっと変わった神社です。

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手前が縁結びの御利益があるという「木花咲耶姫」の社で、

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川沿いの方が縁切りの御利益があるという「磐長姫」の社です。

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以前は横並びに鎮座していたそうですが、間違って隣の社を参拝し、不幸になった女性が続出したので今の形になったと云います。

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余談ですが、神在(じんざい)が「ぜんざい」の語源になったと出雲では伝えられています。

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古来のぜんざいは、小豆と餅のみの素材のほのかな甘さを味わったそうで、僕もそれをいただいてみました。
砂糖はご自由にどうぞと言われましたが、小豆のほのかな甘みが体に染みるようで、そのまま全ていただきました。

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