
熊本県阿蘇郡高森町の一角に、「御矢石」(みやいし?)と呼ばれる石が置かれています。

表からは植えられた樹の影になって、よく見えません。

回り込むと、ありました。

この石の存在は、以前「高森阿蘇神社」を調べていたときに知りました。
阿蘇神とされる「健磐龍」(たけいわたつ)が住む場所を定めるときに矢を放ち、その矢が当たった石がこれだということです。

石には、「その時の矢尻が突き刺さった穴があり、雨が降っても水が溜まることはない」とのことでしたが、どの穴のことかはよく分かりません。
杯状穴のようなものでしょうか。



高森阿蘇神社から西に650mほど離れた場所に、「津留年之神社」(つるとしのかみしゃ)があり、気になったので訪ねてきました。

津留はこの場所の地名で、「年之神」を祀る神社となります。

開放的な拝殿は、どこか美保神社を彷彿とさせるものがあります。

祭神の年之神は、『肥後国誌』によると「五穀豊穣を祈る農事の神として知られ、阿蘇神社のあるところ必ず年の神があり、年は春夏秋冬、一年中の農事のことで年禰社ともいう」とあります。

この年之神は「歳之神」とも書き表されますが、これは「サイノカミ」と呼ぶこともでき、元は「幸神・塞の神」のことであったろうと推察されます。
本殿の中を失礼して拝見しますと、

このような、夫婦の神が祀られています。
その姿はまさしく、サイノカミです。

面白いのが、この年之神が当社では、「国龍命」(くにたつのみこと)とされていることです。
草部吉見神です。

国龍命は西出雲王家・神門家の血筋である会知早雄であり、本来の阿蘇開拓神ではなかろうか、と僕は考えていますが、「阿蘇神社のあるところ必ず年の神があり」ということがさらにそのことを裏付けています。

境内にある小社も、前に樹が植えられて隠すように、

夫婦のサイノカミが祀られています。

境内に聳える大銀杏は、樹齢470年、幹回り6.3mで、地域のシンボルツリーとして大切に守られています。
この銀杏の木は、気根が多くあり、祈れば乳の出が良くなると云われていました。



津留年之神社の鎮座地一帯は、津留遺跡という環濠集落があったことが分かっています。
その東に高森阿蘇神社があり、西に「市下神社」の名が見えます。

市下神社の扁額には、なんと「八面社」の文字が刻まれていました。

当地はかつて市下村と呼ばれ、地名を冠した社名となっています。
しかし地元民は「八面社」と呼び親しんでいるようで、こちらが本来の呼称かもしれません。

祭神、由緒などの詳細は不明。
ただ、「八面神」を祀っていると思われます。

この辺りで八面神といえば、鞍岡の「冠岳」(かむれだけ)に祀られる「冠八面大明神」(かむれやつおもてだいみょうじん)が思い浮かびます。

冠岳はその山容がまさに鬼の如くであり、冠八面大明神が「鬼八」(きはち)ではないかと、僕は考えています。

市下神社の境内には、八幡宮、天満宮、稲荷、猿田彦などを祀った小社や石碑が置かれていました。

それらはこの地区に点在していたのを、ここに集めたものだと思われます。

僕は鬼八の正体は、草部吉見神たる国龍命ではないかとも考えていますが、その両者が、ここ津留地区で一応繋がることになります。
さらに最近は、阿蘇の鬼八と高千穂の鬼八は同族ながらも別の存在ではないかとも考えています。
高千穂の鬼八は五瀬命ではないかと思うわけですが、奇しくも八面神=冠八面大明神であれば、五ヶ瀬の鞍岡が繋がってきます。
もちろん、これだけをもって万事解決!とはなりませんが、先々、鬼八の正体を探るにおいて有力な手がかりになっていくかもしれません。

境内にあるのは、基本的には出雲的ですが、この若宮八幡宮だけは、やや物部寄りか。
生目神も祀られていました。

当社境内には、江戸時代から明治時代にかけて活躍した、熊本県出身の石工「甲斐有雄」(かいありお)の和歌が彫られた石碑があるとありましたが、どれのことかよく分かりませんでした。

甲斐有雄は約1800基もの道標を、熊本県を中心に大分県や宮崎県などにも設置したことで知られています。

彼の歌は、阿蘇山を歌ったものが多く残されていますが、津留集落の地からは、横たわる阿蘇五岳を望むことができました。

境内社の立石明神社には、元宮園と羽場に鎮座していたという石神をここに集めたようですが、

奇しくも3体並んで、サイノカミのように祀られていました。
そして一番大きめの石を別の角度から見てみると、なんとなく亀の頭のようにも見えたのでした。
