美保神社:八雲ニ散ル花 08

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「なんとも長閑なものよ」

美保の海に浮かぶ一艘の小舟に男は寝転び、青い空と白い雲を眺めていた。
男は妻のいる美保関にやって来て、こうしてのんびり釣りを楽しむ時間を心から愛していた。
越の国からやって来た美姫「沼川姫」との間には、息子と娘も儲けすくすくと育っている。
出雲の国の8代「八千矛」王と、この男、副王「八重波津身」の代になって、ますます出雲は平安で泰平な世となっていた。
二人の男に共通の文字「八」は出雲では吉数であり、それに象徴されるように出雲は、八千代にこの平和が続くものと思われた。

「ん?」

八重波津身は何か気配を感じ、身を起こした。
太陽に眩んだ目に視界を馴染ませると、近づく一艘の舟に数人の人影が見える。

「少名彦様、大変です」

少名彦とは、副王の役職名だ。

「どうした、夷鳥殿」

出雲には数年前に渡来人がやってきていた。
最初にやって来て八千矛王に謁見を賜ったのが「穂日」と「夷鳥」の親子であった。
後にやって来る中華秦国からの渡来人集団の上陸許可を求めてのことだった。

「園の長浜で八千矛様が行方不明になられました。どうか少名彦様も一緒に来て、探していただけないでしょうか。」

あの思慮深い八千矛王が行方不明?
八重波津身は嫌な予感がした。
釣り具を放り出し、すぐに小舟から夷鳥の舟へ飛び移った。

「すぐに出してくれ」

八重波津身を乗せた舟は、武夷鳥と数人の渡来人の舵取りで、ゆっくりと進路を変える。
その背後には、晴天の中に、霹靂を含む雲が鎌首をもたげていた。

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全国の神社で祀られる神の中で、出雲の神(国津神・地祇)というのは、幸の神である「サルタ彦(猿田彦)」を除けば「大国主」と「事代主」がそのほとんどであると言えます。
大国主は「大己貴」(おおなむち)、「八千矛」(やちほこ)などと呼ばれますが、それらは全て一人の出雲王、8代「八千矛王」を指しています。
当時の出雲の王の役職名は「大名持」(おおなもち)と呼ばれていました。
そして事代主は8代副王「八重波津身」(やえはつみ)のことで、役職名は「少名彦」でした。
出雲の王は「遠津山崎帯王」(とおつやまさきたらし)まで17代続きますが、なぜこの二人の王と副王のみが、神としてこれほど祀りあげられているのか。
それはこの二人が他者の手によって非業の死を遂げられているからです。

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島根半島の東端に小さな漁師町があります。
そこは「美保関」(みほのせき)と呼ばれます。

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美保関の漁師町の一角に、小さな祠がぽつんと建っていますが、「市恵美須社」と呼ばれるこの小さな祠が、とても重要な歴史を秘めていることを知る人は少ないと思われます。

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ここは事代主の娘「ミホススミ姫」が、亡き父を最初に祀った社と伝わります。
地名である美保の名も、ミホススミ姫が由来と云います。
後に紹介する「美保神社」は出雲大社と両参りということで通好みの神社ですが、この市恵美須社こそがその原点であると言える場所なのです。

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出雲大社の大国主が「大国=だいこく」と読めることから七福神の一人「大黒様」と呼ばれるようになりました。
それに対して、釣り好きだった事代主は「恵比寿様」と呼ばれるようになります。
美保神社は全国3385社ある恵比寿様の総本宮と云われる所以です。

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美保神社門前の小さな漁師町はノスタルジックな、素敵な町です。
時間にゆとりをもって、のんびり散策したい場所です。

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美保神社は格式張った感じのない、出雲らしい大らかさに満ちた神社です。
境内に足を踏み入れると、爽やかで懐かしい風が吹く、僕の大好きな神社の一つです。

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一の鳥居から振り返るその景色は、とても心を和ませます。
耳を澄ませば、穏やかな波の音とカモメの鳴く声が聴こえて来ます。

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店の軒先には、美味しそうな烏賊が吊り下げられています。

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みずみずしさがまだ残る新鮮な烏賊を注文すれば、じっくり時間をかけて炙っていただけます。

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その烏賊のお値段は、びっくりするぐらいお高いのですが、
それ以上にびっくりするくらい、美味しいのです。

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ここまでやって来て、これを食べ損なうのは、実にもったいないと思います。

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美保神社に足を踏み入れてみればわかりますが、ここは事代主殺害の、悲しい歴史と繋がりがある場所であるにも関わらず、気さくで、心が穏やかに感じる聖地です。

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それはこの神社の創建に、ある思いが含まれているからなのだと、僕は知りました。

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古代の出雲族はインドのドラビダ族が移住して住み着いた民族の末裔でした。
出雲族は母系制度の民族で、おおらかで争いを好まず、平和的でした。
各国の統治は力ではなく言葉による説得で行われます。
性に対して開放的だった一面もあり、一婦多夫、一夫多妻だったので、異性のことで争うことも少なかったと云います。
これらの特徴は、「和をもって尊し」という日本人の精神や、「人に対するやさしさ」という特色に繋がり、今日の日本人が人に対して親切であるというDNAとして受け継がれています。
ちなみに出雲族より先に日本列島で暮らしていた南北に別れた「アイヌ族」や「琉球人」も母系家族制度でした。
縄文時代の土神(土偶)に圧倒的に女神像が多いのは、女系家族制度で父より母のほうが偉く、神聖だったからと云えます。

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当時は妻問婚の時代でした。
母系家族制の名残が正月の玄関飾りの注連縄で、まるい形の注連縄は女性の表象であるそうです。
それは今年一年も婿が通ってくれることを願うものであり、また女刀自(女主人)を祝うものでした。
美保神社の祭神の一柱、副王「事代主」こと「八重波津身」も、意宇川沿いの王宮から、美保関にある妻の「沼川姫」(ぬなかわひめ)の元に通っていたそうです。
彼は妻と家族のいるこの美保の海で釣りをするのが、何よりの楽しみだったと云います。

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妻入りの大屋根が乗った拝殿です。
その前に、比翼(ひよく)造りと呼ばれる小屋根があります。

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ギリシャのパルテノン神殿を彷彿とさせる柱列は解放的で、誰でも受け入れる心を表しています。
それは先住系の人でも、渡来系の人であっても隔てなく、ということです。

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大国主と事代主が治める平和な出雲に、突如として嵐が吹き荒れます。
大国主「八千矛」の元に、渡来人の使者がやって来ます。
「天穂日」(アメノホヒ)と「武夷鳥」(タケヒナドリ)と今に伝わる親子です。
彼らは後にやって来る中華秦国の「徐福」一行の上陸と居住の許可を願い出ました。
大国主は出雲の法「八重書き」を守ることを条件に、これを許可します。

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ある日、いつのものように、妻のいる美保関で釣りを楽しんでいた事代主のもとに諸手舟がやって来ます。
舟に乗っていた武夷鳥は
「園の長浜(出雲市西園町)で八千矛様が行方不明になったから、八重波津身様も来て探して下さい」
と言って、事代主を舟に乗せます。

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舟は長浜ではなく、弓ヶ浜の粟島(米子市彦名町)に着きました。
すると海童(かいどう)たちが現れ、舟を取り囲みます。
「海童」というのは、徐福がシャントン半島から連れてきた童男童女たちのことです。
事代主は彼らに捕らわれ、粟島の裏の洞窟に幽閉されました。
粟島は今は埋め立てられ、陸続きとなっていますが、当時は王の海に浮かぶ孤島でした。

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そして大国主・八千矛王も、当時は陸伝いには到達不可能であった、猪目洞窟に幽閉されました。

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後日、王と副王の遺体は、それぞれが監禁された洞窟で見つかります。
その死因は枯死であったと云います。

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各地に出雲の神として「大国主」「事代主」が祀られるのは、彼らがこうした非業の死を迎えたことを人々は知っていて、それを恐れたからです。
しかし古事記・日本書紀の編纂者は、なぜかこの出雲王国の存在自体を隠すため、神話として史実を捻じ曲げました。
記紀による出雲国譲りの神話では、タケミカヅチらが大国主に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言います。
そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまったと記しています。
更に事代主の息子であるタケミナカタも、大国主の息子として登場させ、タケミカヅチを諏訪まで追い立てたという悪意のある惨めな表現で記してしまいました。

美保神社の重要な神事である12月3日の「諸手舟神事」と4月7日の「青柴垣神事」は、事代主の不慮の死を忘れまいとする、出雲王家子孫によるとても悲しい神事なのです。

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美保神社の由緒を見ても、事代主は大国主の子供であり、事代主の娘であるミホススミ姫を「三穂津姫命」として祀っているにも関わらず、彼女を大国主の妻であるとしています。
つまり美保神社は出雲大社の妻と子を祀った神社であると虚実を述べているのです。
かつての美保神社は旧東出雲王家の向家が神主になっていたそうですが、多忙であったので、美保神社の管理を神職の横山家に任せたと云います。

「日本書紀」によると、出雲国譲りの後、高御産巣日神が大物主神に、「もし国神を妻とするならば、あなたが心を許していないと思う。だから私の娘の三穂津姫をあなたの妻とし、八十万神をひきつれて、皇孫のために護り祀れと云った」と記しています。
事代主の娘を天津神系の神と置き換え、事代主と同一であるはずの大物主を大国主に置き換え、史実をめちゃくちゃに捻じ曲げています。

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父系制度では性に開放的ことは罪であると考えます。
そして自ずと好戦的な民族になりました。
後々渡来して来た秦の民や新羅の民は、父系制度の一族でした。
バカがつくくらいに人の良い母系制度の一族は、父系制度の一族に良いように征服されやすい傾向にあったのです。

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右殿に事代主、左殿に三穂津姫命(ミホススミ姫)を祀る双子の本殿は、文化10年(1813年)の造営で、大社造の左右二殿連棟の特殊な形式で「美保造」または「比翼大社造」といわれ、国の重要文化財に指定されています。
屋根に乗る「千木」は一般には男神を祀る方が「縦削ぎ」で、女神を祀る方が「横削ぎ」であると云われています。
が、本来は出雲系の社が「縦削ぎ」であり、渡来系物部族の社が「横削ぎ」であったそうです。
美保神社は不思議なことに、この縦削ぎと横削ぎが併存しています。
それは先住出雲族と渡来系である九州・物部族が、永い恩讐の果てにそれらを乗り越えて、仲良く泰平を築こうとの思いを込めて出雲王族の子孫が建てたからだと云います。

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8代目の王と副王を同時に失った出雲王国は、その後も存続し続けますが、17代山崎帯(やまさきたらし)王の代で、九州の物部族東征によって滅ぼされてしまいます。
その際にも、あたかも出雲の民のように振る舞い、その裏で物部軍を出雲に道案内をし、引き入れたのは穂日家の人間だと云います。
やがて熊野系物部氏である秋上家(あきあげけ)が、出雲に占領軍司令官として来てそのまま住み着きました。
物部王朝は短くして終わりましたので、秋上家は出雲人の中で孤立します。
それを機に少しずつ勢力をましてきた穂日家は、次第に秋上家を圧迫するようになりました。
秋上家は昔の王宮だった神魂神社を、そのままの形(純粋の神魂造り)で守っていました。
神魂神社は出雲王家の子孫「富家」の王宮だったのです。
そこで富家は、秋上家を助け、これを再興するに至ります。
神魂神社を守ってくれた秋上家に富家は感謝をし、ミホススミ姫の住居跡である美保関に、この平和を象徴する神社を創建したのでした。

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美保神社に参拝すると、拝殿の中から笛の音が聴こえてきます。

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どうやら神事のリハーサルが行われていました。

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思わず見惚れて、時を忘れてしまいましたが、

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そこにはミホススミ姫が降臨したかと思えるほどの麗しさがありました。

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拝殿にはピカピカの10円玉が入った「福種銭」(ふくたねせん)という袋がありました。
説明書には、その10円を使って「福」を広げて下さいと記されています。

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