母智丘神社:満天ニ鳴ル花 鬼星七支篇 03

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宮崎県都城市横市町に鎮座する「母智丘神社」(もちおじんじゃ)は、桜の名所として知られる母智丘公園内の小高い丘の頂にありました。

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小高いとは言っても、そこそこの高さ。
なるほど、ここから登って行けと・・・

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「石段を登るのはいいが…別に車で登ってしまっても構わんのだろ?」

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ということで、楽できることなら楽したい!車で母智丘頂部までヒュンとやって来ちゃいました、YO☆

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当社創祀は不詳で、往時は石岑稲荷明神(いしみね?)と称して、地方民の崇敬厚い神社であったとのこと。
社地の丘は「持尾」と書かれていたものを、後世に「母智丘」と改書したということです。

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母智丘神社は江戸時代の中ごろまで稲荷石と洞穴があったことが知られており、現社司の祖先である「久保田寶樂院」と「鬼塚光明院」が交互に祭祀を営んでいたということです。
ちょっぴり出雲の二王制っぽいね。

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社殿は明治3年(1870年)に、都城の地頭として赴任してきた「三島通庸」(みしまみちつね)が荒廃した社殿を改築して建立、とあります。
出たわね、ミシマ。

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祭神は、「豊受昆売神」(とようけひめのかみ)と「大年神」(おおとしのかみ)。
元宮である境内社の石峯(岑)稲荷明神には「稚産霊神」(わくむすびのかみ)が祀られています。
これら祭神は後に置かれたものと思われますが、豊家の姫と、大年神は出雲神かカゴヤマか。
何か意図されたものを感じます。

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そして母智丘神社の見どころといえば、社殿背後の磐座群になるでしょう。

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さほど広い範囲とはいえない敷地に、所狭しと巨石が立ち並びます。

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この丘の上一帯に散在する巨石群は、火山の噴出物によって地中に埋まっていたものを、明治3年の母智丘神社再興工事の時に発掘されたもので、当然、三島通庸が関わっていたと思われます。
古く石器時代には、これらの巨石が丘の上に群立していたものと考えられますが、これを見た三島は何を思ったでしょうか。

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この付近からは数多くの土器や石器も発見されおり、一帯は石器時代においては石材の採取場であったとともに、巨石群は信仰の対象となっていたものと考えられています。

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境内にある一対の岩は「陰陽石」と呼ばれ、「陽石」は周囲17.3m、高さ3.3mの大きさがあります。

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陽石を横から見ると、人工的に段が付けられており、男根を模していることが分かります。

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「陰石」は周囲19.3m、高さ1.7mあり、

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陰門と呼ばれる裂け目は、長さ1.2m、深さ0.5mあります。

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ところどころに見られる丸い穴は、杯状穴ですかね。

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陰石は、脇にある祈願水を陰門にかけると願い事が叶うと言い伝えられているそうです。
つまり女神を悦ばせると、願いが叶うということでしょうか、いや失礼、これは大人の話でした。

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陰陽石の間に挟まれるように「割裂神石」という、高さ1.2m、幅2.4mの岩があります。

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スッパリと剣で斬ったような形のこの磐座には、水神タカオカノカミが祀られているといい、昔から付近を掘り荒らすと大雨が降ると言い伝えられているそうです。
穴を掘ると雨が降る、イミシンです。

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また、この割石の一部は東霧島神社にある「神石」であるとも云われています。
なるほど、まあそう言われれば似ている気が、しなくなくもなくもないです。

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陰石の上にある大きな石は

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「ワニ石」と呼ばれます。
周囲23.3m、長さ9.7mの岩は魚に似ており、口にあたるところが長さ1.8m、幅25cmに裂け、目にあたるところに60cmの丸い穴があることからワニ石と呼ばれるようになったそうですが、よく分かりません。

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いずれにせよ、いかにも「出雲的」、あるいは「豊的」な磐座群が母智丘の頂部に密集していることになります。

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母智丘神社のパンフレットには、霧島北斗七星と共に、谷口さんの考察が記されていました。
下段にあるイワクラ(磐座)の定義は、イワクラ学会による定義のものと思われますが、富家伝承の視点から僕は、この定義に若干の異議を感じています。

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ともあれ、この霧島北斗七星の第3の磐座においても、またサイノカミ的な陰陽石があった、ということになります。
それからちょっと足を運ぶのに躊躇われるのですが、このお社の裏手は、

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「雨乞岩跡」だとのことです。

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確かに水路のような溝があり、とても神秘的な場所です。
しかし”跡”とはどういう意味でしょうか。元々はまだ何か、ここにあったということなのでしょうか。

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磐座群の最奥部から少し降りたところに、

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元宮たる「石峯稲荷大明神」が鎮座しています。

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母智丘神社の中でひときわ大きい稲荷石を祀ったもので、左右に穴があり、穴の奥は八畳敷と六畳敷くらいの洞穴となっていて白狐の巣であったと云われているそうです。

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出入り口の左右の穴というのはよく分かりませんでしたが、なるほど、先ほどの雨乞岩はこの稲荷石の背中でしたから、道理で畏れ多く感じたものです。
そうとは知らず、大変失礼いたしました。

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それにしてもこれほどの岩々が立ち並ぶ聖域を「石岑」とはよく言ったものです。

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石峯稲荷大明神の石を回り込んだ先は、展望台に続いていました。

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途中、ワニ石の背中を見ることができました。
確かにでかい。

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下からは分かりませんでしたが、稲荷石の上にあった祠のある岩には、かじったような窪みがあります。

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この聖地を再発掘したという三島通庸なる人物ですが、彼は幕末の薩摩藩士で、寺田屋騒動に連座するなど尊王倒幕運動に参加。戊辰戦争が起こると西郷隆盛に取り立てられ、武器弾薬や兵糧の輸送を受け持ち、補給部隊として活躍しました。
戊辰戦争後は都城の地頭として地域振興の事業を行います。
三島は、前領主を慕う領民から排斥を受けながらも、上荘内郷、下三股郷で様々な振興策を行ない、鹿児島などから商人を集めての町づくり、安永川の堤防修築、そして母智丘神社の建立などを行ないました。
三島通庸は、「民治のかなめは敬神にあり」と敬神思想を重視し、母智丘神社を起点に道路を造り、参道には桑、茶を植栽したのだそうです。

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これら功績が内務卿・大久保利通に認められ、明治4年(1871年)に東京府参事として新政府に出仕します。
東京府参事からは教部省の教部大丞を経て、明治7年(1874年)に酒田県令(山形)に就任。この人事には伊藤博文が関わったとされています。
明治9年(1876年)に現在の山形県が設置されると、三島は初代・山形県令に就任。
県令時代は、反対派を押し切り強力に土木工事を進める手法から、世間では「土木県令」や「鬼県令」の異名で呼ばれたといいます。

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展望台からの景色、見事です。桜の頃はさぞ美しいことでしょう。

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ここは元旦には初日の出を眺める人で賑わうそうで、天気が良い日には、遠くは右手に桜島、左手には宮崎市の鰐塚山などを見ることができるとのこと。
この都城盆地は、今から200万年前は湖だったそうで、諏訪盆地や奈良盆地を彷彿とさせます。

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三島通庸が山形で過ごしたのは、明治7年から明治15年までの7年間で、この間、山形県庁舎を中心とした都市整備事業や地方郡役所の建築、新道開削や石橋架橋の道路整備事業など、多くの実績を残しました。
彼は当時では珍しい西洋風の建物を多数つくり、市民たちは近代的都市への変貌と文明開化の到来を感じて、新しい県政に期待を抱きました。
道路交通網の整備も積極的で、山形・福島と東京とを結ぶ「栗子隧道」、山形と仙台を結ぶ「関山隧道」、山形と新潟を結ぶ「片洞門」なども開削しました。

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山形県南陽の自然、田園の美しさを、「東洋のアルカディア(桃源郷)」と評したイギリス女性旅行家「イザベラ・バード」は、三島通庸が作った山形の町並みを見て、「日本の都会には珍しく、重量感がある」と評し、近代的で立派な建築物と広くて清潔な街路の調和を褒め称えました。
人をもてなすことを好み、家族や使用人以外にも食客を多く抱え、食堂には長机を並べて家族や親戚、知人を集めて会食を催していたという三島通庸。
彼は明治21年(1888年)の夏、警視総監在任中に脳溢血に倒れ、同年10月23日、東京麹町にあった官舎にて見舞いに訪れた多くの部下・友人たちに看取られ、この世を去りました。享年54。

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栃木県の那須野ヶ原にある標高311mの丘陵・赤田山周辺は、明治13年(1880年)に三島が「肇耕社」(ちょうこうしゃ)という農場を設立し開拓をした場所でした。
彼はこの赤田山の頂上に、母智丘神社のを豊受大神を勧請しました。

「神代より 荒れし那須野を開きつつ 民栄えゆく 里となさなん」
「きつね鳴く 那須野原も今年より 稲穂そよぎて 秋風ぞ吹く」

激動を生きた三島の瞳には、この母智丘の景色が原風景として、映っていたのかもしれません。

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