諏訪大社 上社『御頭祭』前宮篇:八雲ニ散ル花 番外

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そして、その中で、最も注目しなくてはならないのは、「前宮」で行われていた「御頭祭」における「神使」の密殺である。
アイヌ民族における熊祭と似た儀式として、神に選ばれ、神となった童児(男巫)が、祭の最中に殺され、そのことによって狩猟、農耕の豊穣が祈られたのである。
この儀式が狩猟文化の中から生まれたものか、あるいは農耕文化の中からか、そしてまた、それらとは異なった必要から生まれたのか、今のところ明確な断言はできないけれど、生神としての「神使」殺しは行われていたのである。

- 日本原初考1『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会 編 -

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PM1:50
長野県茅野市宮川に鎮座の「諏訪大社上社」(すわたいしゃかみしゃ)「前宮」(まえみや)に、nariさんと僕はやって来ました。

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諏訪大社上社の例大祭『御頭祭』(おんとうさい・おとうさい)の主たる祭事は、この前宮の「十間廊」にて執り行われます。
なので先に前宮に来ている人も多く、すでにベストポジションは全て他の人に取られていました。分かっていたけどね。

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間口三間奥行十間入母屋流造こけら葺。

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十間廊は「じゅっけんろう」ではなく「じっけんろう」と呼びますが、かつてはここに100余りの燈篭をかかげ、75頭のシカ・イノシシなどの頭をまな板に乗せて並べていたと云いますから、まさに首実験の場であったのかもしれません。

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実際は、御頭祭で鹿の頭75頭分を供える様式になったのは江戸時代のことで、それ以前は不明のようです。
数に関しても明確に75頭と各種文献・資料に記されているわけではなく、その数字はまちまちなのだとか。
最初は贄の数も少数であったものが、諏訪明神の権威を演出するために次第に数が増えていき、江戸期には75頭に相当するまでになった、ということかもしれません。
この神に供えられる75頭の鹿の頭の中に、必ず1頭、耳の裂けた鹿が含まれていたと云われ、「諏訪七不思議」の一つ「高野の耳裂鹿」(たかののみみさけじか)として知られています。
75頭の儀式が江戸期からであったなら、耳裂鹿はいつから語られるようになったのでしょうか。

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PM2:00
僕らが前宮に来てから程なくして、神輿渡御(わたりまし)の一行が到着しました。
本宮(ほんみや)から1.5kmの道のり、お疲れ様です。

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神輿も到着。

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しかし、

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ここからさらに階段を登らなくてはなりません。

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もう一息。

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そして最大の難関、

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神輿を十間廊の中に安置するまでが遠足(渡御)です。

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ヨイショー、入ったー。

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神輿は明治期から大祝の代わりとして用いられるようになりましたので、十間廊はこうした場面を想定して造られてはいません。

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神輿は十間廊の上段の狭いスペースに安置され、御簾が開かれます。
かつぎ棒は収まりきれませんので飛び出して、その上に八足(神饌台)が付けられていました。
広い下段には、神職や御頭郷の方々、各界の代表・総代・氏子代表などなどが所狭しと着座されています。

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上段にははじめに剥製の鹿3頭が並んでいましたが、この後さらに2頭の鹿が神前に運ばれて来ました。

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僕ははっきりと確認できませんでしたが、nari氏曰く、最初の3頭のうちの1頭の耳が欠けていたとのことです。

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十間廊の周囲はすでに多数の人で溢れていましたので、僕は周囲を移動しながら、撮影スポットを探していました。

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そしたらなんとまあ、

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nari氏いた~っ!

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これはナリ撮の写真。
なんと絶好のポジションでnariさんは撮影をされていました。

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さすがnariさん、サスナリです。

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八ヶ岳原人』さんのブログによると、江戸時代中期の文献には、「上段の間中央に高麗縁(こうらいべり)の菰(こも)畳に鹿皮が敷かれ、その上に大祝が着座した。左には太刀持ちが控え、前には鹿頭を載せた俎板(まないた)が5枚横一列に置かれた」と書かれているそうです。
なので、現在の鹿5頭は、古来の形式に倣っているということになります。

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それから神前に御杖柱が運ばれ、祝詞奏上が始まります。
こうして見ると、御杖柱はかつては普通の杖状のものだった、というのは重要なポイントになるかもしれません。

御頭祭の正式な名称は、「大御立坐神事」(おおみたちまししんじ)といい、本来は旧暦3月の酉の日を含む13日間も続く盛大な春の祭でした。
この「大御立坐」の言葉を見ると、御頭祭の本質は75頭の鹿の頭を並べることではなく、「神の憑坐」(よりまし)がお立ちになる、つまり「大祝の渡御」の神事であることが理解できます。
鹿の頭をずらりと並べたというのは、江戸時代から明治にかけて為された後付けの要素でした。

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ではそれ以前の大御立坐神事を理解するには、まず前宮のことを知らなければなりません。
江戸期までは前宮は上社本宮の境外摂社「前宮社」でした。つまり、本来は前宮は本宮の一部であり、下社(春宮・秋宮)と違って明治の半ばまで上社は1社だけだった、ということになります。

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前宮というのは、古来より諏訪大社上社の祭祀場であり、また諏訪明神の御神体たる「大祝」を生み出す場所でした。

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大祝となる子は、8歳前後の幼い男巫(おとこかんなぎ)で、建御名方命、八坂斗女命の神裔ということになっています。
この男児は即位式に先立って22日間、厳重な潔斎をおこなうのですが、その場所が今の前宮の本殿がある場所に建てられていた「精進屋」でした。
童児大祝は現人神となるために、この精進屋に入り、30日間潔斎し、身を清め、浄化して神を降ろすための準備を行います。
この30日の潔斎は厳しいものだったといわれ、食事も少なく、ずっと静座し、毎日水浴したということです。

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潔斎を終えた童児大祝は、前宮境内にある「鶏冠社」(柊の宮/楓の宮)に赴き、大きな石(要石)の上に立たされ、神降ろしがなされます。

『まず、柊の木の下にある末広形の平な石の上に、〈からむしろ〉あるいは〈葦/あし〉を敷き、その周囲を簀(す)の垣で巡らす。
即位石の前には、三個の金壺石(鉄漿石/おはぐろいし)があり、平常は厳重に注連縄が張られていた。
即位は、雅楽吹奏のなかを白衣の童子が登場し、葦(萱筵/かやむしろ)のひかれた石の上で鉄漿・紅・白粉・眉ずみをもって化粧し、振り分け髪を冠下に結い上げ、穀(かじ)の葉散らしの錦織の袴を着け、山鳩色の束帯を整え加冠され、呪印を結び四方を拝すことによって現人神〈大祝〉となるという。』
<日本原初考1『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会 編>

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こうして諏訪神の御正躰となった大祝は本宮に遷り、生きた御神体として信仰の対象となったのでしょう。
本宮の大祝が前宮に「渡御」する「大御立坐神事」は、いわば大祝の里帰りのような祭事ですが、それに先立って大祝の代理として選ばれた子ども「神使」(おこう)6名が、各地の「湛」(たたえ)に向かって豊穣祈りを捧げる「廻湛神事」を行いました。
これが元来の大御立坐神事の第一の本質です。

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さらに郷の人々は大祝と共に、皆で直会(なおらい)をし、神様とともに食べ、お酒を飲む「神人共食」の儀を執り行いました。
菅江真澄民俗図絵』にも鹿肉をはじめ、猪や鳥、魚の肉などのバリエーション豊かな料理が描かれていました。

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大御立坐神事での様々な料理の中で、最も重要なのは鹿肉でしたが、なぜ鹿なのか。
これについては、「弥生時代に毎年生え変わる鹿の角が稲の成長と実りのサイクルと一致したため、鹿は稲作の象徴とされたことが起源」だと解説するサイトを見つけました。
ディープに諏訪を案内するガイドのブログ『諏訪ブログ』の中の「坂間雄司」氏の記事です。

「奈良時代の『播磨国風土記』には、鹿の血がまかれた土地に籾をまくと一夜にして苗が生えたというエピソードがあり、鹿と稲作の強い結びつきが伺えます」とも。
「稲作が始まり、農耕はより一般的になりました。しかし、当時の人たちは稲作を含む農耕は自然=神様に逆らう行為ととらえました(この思想は「古事記」のオオゲツヒメとスサノオのエピソードで暗喩)」

・・・なるほど、なるほど。
自然に生えているものを採取するのではなく、自ら土地を耕し生み出す農耕とは、神殺しに近しいと。

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PM3:00
十間廊での祭事は滞りなく終了し、その後、神職と参列者は直ちに「内御玉殿」(うちみたまどの)に移動して大祭を行い、次に「若御子社祭」が執り行われました。

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かつて13日間行われていた御頭祭の最終日には、この内御玉殿の神宝がお披露目されていたらしく、「神宝拝観」が長期に渡る神事の最後を締めくくっていたようです。

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13日分を1日に大幅短縮された現在の御頭祭では、そのようなご神宝を拝めるわけでもなく、仕方なく僕は境内にあったお宝っぽい木を拝むことで締めくくることにしました。美乳♪

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PM3:20
前宮での祭事が全て終了しましたので、御霊代を乗せた神輿は再び、本宮までの1.5kmの道のりを渡御していきます。

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諏訪大社に関する研究で大いに参考になるのが『八ヶ岳原人』さんのブログで、今回も多数引用させていただきましたが、ミシャグジのほか、チカト信仰や天白信仰に至る『諏訪信仰』研究で外すことのできない人が「今井野菊」(いまいのぎく/本名:今井すみ江)さんになります。
昭和28年(1953年)に、古墳や遺跡が続々破壊される状況を嘆いた彼女は、史家の細川隼人と共に50余名からなる「旧宮川村誌編纂研究会」を設立しました。
しかし諏訪信仰の難解さなどから次第に脱退者が増えていき、会員はついには今井さん一人だけとなりました。
それでも彼女はコツコツと研究を続け、25冊にわたるその成果を「旧宮川村誌編纂研究会」名義で自費で印刷して地元民に無料で配布しました。

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昭和49年(1974年)7月、今井野菊さんの元に訪れた「古部族研究会」北村皆男・野本三吉・田中基の3人は、一週間諏訪に合宿しながら今井に教えを乞い、『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』『古諏訪の祭祀と氏族』(1977年)『諏訪信仰の発生と展開』(1978年)の3冊の本を出版するに至りました。
この貴重な3冊の本は一時絶版となりましたが、「人間社文庫」社によって復刻再販されています。
しかもありがたいことに、とてもリーズナブルな価格設定であり、奥深い諏訪を垣間見たいのであれば『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』の1冊だけでも入手されておかれることをお勧めします。

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その『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』の中で、「古部族研究会」の3人がショックをうけたのが、「前宮」で行われていた「御頭祭」における「神使」(おこうさま)の密殺である、ということです。
これがおそらく、”「神の憑坐」がお立ちになる”という「大御立坐神事」(おおみたちまししんじ)の第二の本質であろうかと思われます。

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「御頭祭の中心は、なんといっても、神さまへの使者『神使』(おこうさま)が、前宮に現われる時ですね。周囲には、大祝をはじめ、国司、地頭、氏子などたくさんの人々が集まり、神長官守矢氏が、『神使』にうやうやしく『みつえ』を捧げるのです。
 この『みつえ』に、神長は、『第一のおたから』である、佐奈伎の鈴(鉄鐸)を、自らの首から外してかけ、周囲に集まっている人々に『八拍手』の礼をさせるのです。
 そして、この『みつえ』を『神使』の背中に負わせ、藤白波というものを肩からかけさせるのです。童児である『神使』は、白衣の背に『みつえ』を負い、こうして馬に乗せられるのですね。白衣の子どもの顔は赤く上気し、神々しく見えたでしょうね。
 『神使』へ、『かたかしわ』の盃を受けさせると、いよいよ、『神使』(おこうさま)を先頭にした三そうめぐりがはじまるのですが、この頃には、あたりは暗くなり、七十五頭の鹿の頭がそなえられた十間廊や、人々が集まり食事や酒盛りをしている内御魂殿、中部屋御殿などの軒には、いっせいに吊り燈寵がともされ、かがり火がたかれ、松明のあかりが風にゆれ、雰囲気は、いやが上にも盛りあがってゆきます。
 この中を、乗馬の童児『おこうさま』を先頭にした一隊が、御帝戸屋前に集合し、雅楽が、激しく鳴りはじめる頃、いっせいにときの声をあげて、三そうの道を左まわりに走りはじめるのです。
 『神使』を拝む氏子たちの間を、馬上の『おこうさま』は、ときの声をあげて走る人々と共に三周し、夜祭は、最高潮に達するのです。
 この祭典のまっただ中に、『神使』(おこうさま)は、神に召されてゆくというのですね」

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『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』のこの項の著者である野本三吉氏は、「神に献じられた鹿75頭の中に中に必ず耳の裂けた鹿があった」という件について、柳田國男氏の「一つ目小僧」に関する推論を余談として書かれています。

「ずっと昔の大昔には、祭の度ごとに、一人づつの神主を殺す風習があって、その用に宛てらるべき神主は前年度の祭の時から、籤または神託によって定まっており、これを常の人と弁別せしむるために、片目だけ傷つけておいたのではないか」

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実にショッキングな内容ですが、遠野の語り部から聞いた座敷わらしの話も、弱い子供を口減らしのため殺めなければならない事情があったとのことでした。
かじる草木の根さえもないような、極限状態の飢饉では、強い命を残すために止むを得なかったと。
こうした人身御供の歴史が我が国にあったことは、残念ながら否定できず、また安定して食を得られる今の時代の僕らが、今の感覚で安易に非難することもできません。

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今井野菊さんと「古部族研究会」の3人の考察では、生きていくためのその年の五穀豊穣のため、神を降ろした童児を神事の中で殺めることで土に還した。
それは最初のうちは大祝であったが、次第に乞食の子や身寄りのない子を神使として身代わりにした、ということでした。

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nariさんと僕は神輿渡御の一行に先んじて、本宮に戻って参りました。

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普段は開かれていない四脚門から、磐座の硯石(すずりいし)を眺めるためです。

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この硯石は別の場所から遷されてきたものだという説もあるようですが、大祝となる童児が神降しの時に立った要石のひとつなのかもしれません。

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程なくして神輿渡御一行が布橋に到着しました。

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今の御頭祭はもちろん、鹿の剥製を並べるという点以外は多くの祭りと同じく、平和そのものの、のどかな神事でした。

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『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』では、「神使の密殺は鎌倉時代あたりまで行われていたふしがうかがわれる」とのことでした。
しかし僕は思います。
確かにそのような事実があったことは否定できないかもしれませんが、割と早い段階から密殺はフリ、つまり演技に変わったのではないかと。
人はしたたかな生き物ですから、生きるということに少しゆとりが生まれれば、命を大地にお還しするという神事も、都合よく解釈したのではなかと思われます。
少子化で苦しんだのは、何も今ばかりのことではありません。古き時代から良き大人は、子供の健やかな育成を願わないわけがないのです。
そこで生まれたのが、耳裂鹿だったのではないでしょうか。一つ目小僧の鹿ヴァージョンです。

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毎年地に落ちて、また生えてくる角を持つ鹿こそ、神の見立てに合う贄である。
密殺のフリをして、代わりに約束された鹿の命を贄として捧げますので、ここはまあ、そういうことにしてくださいませんか、と。

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PM4:00
神輿は無事、諏訪大社上社本宮の斉庭に安置されました。
2026年4月15日のこの日は、嵐を呼ぶ男narisawaさんの影響で午後からは雨予報とのことでしたが、

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しかし神輿渡御の間もほとんど雨は降ることはなく、ここにきてポタリポタリと雫が落ちてきました。

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御霊代(御神体)が山吹色の衣を纏い、神輿から幣殿の奥へと収められます。

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「オオー」と人々をかしこまらせる警蹕(けいひつ)の声が響き、諏訪大社上社の大祭『御頭祭』は終了したのでした。

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