この精進屋の話をしている時、野菊さんの瞳が宙に浮かんだようになり、こんなことをいったのである。
「待ってくださいよ。そういえば、その精進屋を、どこかの村で買いとったということを聞いたことがあったけれど。はて、どこだったろう。糸萱の方だったかなあ、そんなウワサを聞いたことがありましたよ」
前官というのは、諏訪神社成立の鍵を握るところであり、その中枢は、大祝の精進屋である。それが、あるいは他に移されて存在しているかもしれないというのである。野菊さんが、糸萱だったかもしれないといった言葉をたよりに、糸萱の宿に戻ってすぐ、ぼくらは湯田坂さんに、そのことを聞いてみたのであった。すると、驚いたことに、この糸萱の村の鎮守になっているというのである。
「ああ、そりゃあのォ、この下の糸萱の氏神様になっておるぞ。昔の金で三百円だったせえ。前宮様を新しく建てるで、こわしてあったのを、オラの村で買ってよオ。そいで建てたんだわ。オラも手伝ったでよく覚えとるぞ。もう、三、四十年も前のことだぞイ」
年数的にもあう。すぐさま、三人して道をくだり、うっそうと大木の茂った鎮守の森ヘいそいだ。昼でも暗いこの森は、夜ともなると一層不気味であった。
そのうす暗い大木の中に、氏神「子の神」社として、あの大祝の精進屋が、そのままの形で建っているではないか。
あれだけ前宮について詳しく調べていた野菊さんで疑さえ、見落としていた事実が、こんなにもあっけなく発見できるとは思ってもみなかったことである。
偶然というには、あまりにできすぎていた。
「なんだか気味が悪いなあ」
柄の大きな田中さんがニヤリと笑う。
野菊さんを訪ねた初日から、こんなできごとに会うと、何かしら日に見えない糸で導かれているような、不思議な気持にもなってしまうのであった。
- 日本原初考1『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会 編 -
御座石神社から東に向かい、国道299号線に入ると空が開けてきます。
車を降りてみると、180度にわたって八ヶ岳が広がっていました。
長野の広大さを満喫しつつしばらく走ると、こんもりとした杜が見えてきます。
Googleマップでは、この辺りに「折橋子之社」(おりはしねのしゃ)があると示していますが、鳥居や社殿は見当たりません。
一旦通り過ぎてしまいましたが、戻って数台分の駐車スペースを見つけ、車を停めて降りてみればなるほど、完全に下に埋没するように人目を避けて神社が鎮座しています。
これはいわゆる下り宮を意識して作られたということなのでしょう。
調べてみると、この折橋子之社はもともと近くの芹ケ沢地区の飛岡子之社から分霊され、勧請されたものでした。
その飛岡子之社がやはり同じように、車道から降って隠されたように鎮座していることから、それに似せた当地が鎮座地に選ばれたのでしょう。
階段を降り切ると手水があります。
折橋子之社にはもともと社殿がなく、小さな祠があるのみだったそうです。
昭和7年(1932年)に上社前宮の精進屋が、伊勢神宮の余材拝領によって造り替えられました。
そこで、由緒ある前宮の精進屋は解体となりましたが、それを翌年の昭和8年に糸萱村が当時のお金300円で購入して折橋子之社の社殿にしたのです。
境内の周りを、穢れを清め流すように小川が流れています。
その水気を吸ってふかふかのクッションのように茂る苔や草の先に
かつての精進屋がひっそりと佇んでいました。
『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』に載せられていた前宮の精進屋がこれ。
今の前宮本殿も精進屋を模しているように見えますが、少々豪奢に過ぎるかと。
そして折橋子之社の社殿がこれ。
早朝の参拝ともあって、恐ろしいほど幽玄です。
ただ書籍の写真と縦横比の違いが気になります。
どうやら屋根は付け替えられ、板組も変えられたようです。
しかしそれでも、ここから漂うのは、即位式に先立って22日間の厳重な潔斎を行なった、神童・大祝の息遣いでした。
少年はこの中で食事も少なく、ずっと静座し、毎日水浴し、厳しい潔斎をひとり行い続けたのです。
そしてやがて意識は朦朧となりミシャグチ神が降りる状況ができあがっていったのでしょう。
ミシャグチ神が天降った大祝はミシャグチ神そのものとなり、神人同一化して神の意志を告げるのです。
しかしこの大祝のかたわらにいて神意を聞きとり、神の言葉を人々に伝えるのは守矢家の神長でした。
つまり諏訪大社・上社の実権を握っているのは大祝ではなく神長の守矢氏であるということが分かります。
大祝は幼い男巫(おとこかんなぎ)で、出雲神・建御名方命、八坂斗女命の御神裔ということになっています。
そして大祝は前宮での御頭祭の後、密殺され地に返されたのです。
僕は大祝は、タケミナカタの血族ではなく大彦のそれだと考えています。
が、いずれにせよ、外部からやってきた統治者の勢力を拡大させないために、土着の洩矢が尊厳を与える風に装って祭祀を利用して種を制限したのではないかと僕はこの祭事の真意を思い至りました。
やがて神への贄は大祝から『神使』(おこうさま)という別の少年へと移り変わっていきます。
おこうさまは身寄りのない子や乞食の子を拾ってきて据えられ、その密殺は鎌倉時代頃まで行われていた節があるそうです。
『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』の中の野菊さんの話によると、その祭事の流れはこうです。
「御頭祭の中心は、なんといっても、神さまへの使者『神使』(おこうさま)が、前宮に現われる時ですね。周囲には、大祝をはじめ、国司、地頭、氏子などたくさんの人々が集まり、神長官守矢氏が、『神使』にうやうやしく『みつえ』を捧げるのです。
この『みつえ』に、神長は、『第一のおたから』である、佐奈伎の鈴(鉄鐸)を、自らの首から外してかけ、周囲に集まっている人々に『八拍手』の礼をさせるのです。
そして、この『みつえ』を『神使』の背中に負わせ、藤白波というものを肩からかけさせるのです。童児である『神使』は、白衣の背に『みつえ』を負い、こうして馬に乗せられるのですね。白衣の子どもの顔は赤く上気し、神々しく見えたでしょうね。
『神使』へ、『かたかしわ』の盃を受けさせると、いよいよ、『神使』(おこうさま)を先頭にした三そうめぐりがはじまるのですが、この頃には、あたりは暗くなり、七十五頭の鹿の頭がそなえられた十間廊や、人々が集まり食事や酒盛りをしている内御魂殿、中部屋御殿などの軒には、いっせいに吊り燈寵がともされ、かがり火がたかれ、松明のあかりが風にゆれ、雰囲気は、いやが上にも盛りあがってゆきます。
この中を、乗馬の童児『おこうさま』を先頭にした一隊が、御帝戸屋前に集合し、雅楽が、激しく鳴りはじめる頃、いっせいにときの声をあげて、三そうの道を左まわりに走りはじめるのです。
『神使』を拝む氏子たちの間を、馬上の『おこうさま』は、ときの声をあげて走る人々と共に三周し、夜祭は、最高潮に達するのです。
この祭典のまっただ中に、『神使』(おこうさま)は、神に召されてゆくというのですね」
このおこうさまについて、今井野菊さんは次のようにものべています。
「諏訪大明神信仰の古い思想に、神殿のなかにおいて殺された者は必ず神裔の一員として生まれ変わってくるとされ、その一族もつながりをもつことができると信じられていたという」と。
僕は洩矢族はアイヌではないか、と考えていました。
アイヌ民族には食した熊を神として祭り天に送る熊祭という儀式があります。
神となった童児「大祝」や、その身代わりである「おこうさま」が、祭の最中に殺され、そのことによって狩猟、農耕の豊穣が祈られたその儀式がこれに似ていると感じたからです。
しかしとある古代に詳しい方にそのことを話すと、
「洩矢はユダヤだよ。御頭祭は熊祭とは比べ物にならないくらい壮絶すぎる。まあ、アイヌも元はユダヤだけどね」とおっしゃります。
偲フ花にコメントをくださる「8まん」さんによると、
「諏訪奇祭である子供を生け贄に模した祭りは明治までされてたのはご存知かと。これは旧約聖書の「イサクのはんさい」という儀式の日本版らしいです。アブラハムを神様が試すアレです。神様はアブラハムが神に恭順を示し息子のイサクを贄に捧げようとした事を認め神の力を笑ったアブラハムを許した。んで、代わりに羊を贄に捧げたと。
日本でのこの地方では、羊がおらず代わりに鹿が捧げられるようになったと。
そうそう、肝心のミシャグチ若しくは漢字通りだと「ミサクチ」。その神とどう繋がるの?なんですが名前を分解してみます。エゾ近辺で 「ミ」とは「オン」御と上の方を指す。「サク」はまんま名前、「チ」は神。で「御、サクの神。」となる。「サク」は昔から田んぼの~の意味なんですが、出雲族より早くこの辺りにいた民族は狩猟族。稲作文化は後。
で、東北民族は昔から口の開きが少なく(寒い地方独特らしい)「イ」が抜けた。「ミイサクチ」が発音が崩れて「ミシャグチ」若しくは「ミサクチ」になったと。」
なるほど、なんだかいろんなものが繋がりだした気がしてきたのでした。
こんばんは。CHIRICOさん。ミサクチの話を覚えて頂いてて光栄です。
私がミサクチの神を知ったのはオカルト話を追究して行った先にありました。(笑)
東日本大震災は東北に流れたユダヤの民を生贄とする儀式だった。なんていうトンデモ話からでした。
最初はなんのこっちゃと思ったのですが地震兵器は横においといて、日本とイスラエルの伝統文化は酷似していて、神輿だったり相撲、日本の神話が向こうの神話にまつわるものと酷似したり。福島の十の教えと十戒。君が代だったり、かごめかごめ、スサノヲの八重垣。向こうの言葉に訳すと・・・。ところどころにユダヤが絡む理由。それは少なからず誰かが意図的に隠して伝える一つのルーツの姿のようにも。
まあ、ここいらは信じるも信じないのもなんとやら。FBのタケミナカタの子孫であると言ってた方も古代の話であちらの話もしてましたね。
この国の成り立ちには多くの土着の民と覇権争いによって消えていった歴史があり、これを知るのもロマンです。
私達は誇りある日本人として世界に胸を張れる民族として生き残りたいものです、この選別される世界を。
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FBのグループは少々オカルトに寄りすぎな感じがして、最近はほとんど閲覧するに留まっています。
ユダヤの影響が日本にあったとするのは肯定しますが、かごめかごめの歌や封印がどうちゃらとなると、ちょっと行き過ぎのような感じで。
でも結局真実はわからないから古代は楽しいのであって、それを妄想するのは何人たりとも自由だと思います。
ただ、おっしゃる通り、自虐史観に生きたり恩讐に囚われるよりも、先祖に誇りを持てる歴史を発掘したいものですね。
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