
むかしむかし、阿蘇白川にある明神池に、たいそう仲ん良か男んカッパと娘んカッパが住んどらした。
明神池はたいがいきれいかとこで、娘んカッパは魚と泳いだり、歌ば歌うたりと楽しゅう暮らしとったと。
ところが、男んカッパは退屈でしょんなか。そんで、池に来た人間たちにいつもイタズラばっかしとらしたと。
「あんさん、あんまりイタズラばっかりするもんでねぇ。そんうち神さまにしからるるばい」
「なんや、わしらカッパは、人ばたまがらせていくらばい。そんなら、そうたい」
あるとき、度が過ぎた男んカッパは、ついに池んそばにある産土ん神さまにもイタズラばしてしもうたと。
「お供物ば食ぶるくらいは許するばってん、境内ん子宝石ばひっくり返し、狛犬に落書きばしたとは許されん。おぬしんような悪ガッパは、遠くへ飛ばしてしまおうたい」
産土ん神さまはそういってつむじ風ば起こし、男んカッパばピュウと、東ん遠野まで吹き飛ばしてしもうたと。
「神さま、ごめんなさい。あん子がイタズラばしてごめんなさい。もう悪させんごつ言いつくるけん、どうかこん明神池に、もどしてくだせえ」
娘んカッパは産土ん神さまにお願いしたばってん、神さまからは、うんともすんとも、返事がありゃせん。
娘んカッパはそれからちゅうもん、明神池ん中に突き出た石に座り、桜ん咲く春も、木の葉が舞い散る秋も、木枯らしが吹き荒ぶ寒か冬も、ずっと男んカッパが帰ってくっと待ち続けたばってん、ついにそん姿ば見ることはありゃせんかったと。
彼ん帰りば待ち続くる娘んカッパん姿は、悲しゅう哀れで、訪れた人もつい涙ばこぼしんしゃった。
いつしか石ん上には娘んカッパん姿ものうなり、今は石だけが昔んままポツンと残されとうと。
人々はそん石ば「河童石」て呼ぶごつなったちゅうことばい。


熊本県阿蘇郡南阿蘇村にある「群塚神社」(むれづかじんじゃ)を訪ねました。

当社は「明神池」と呼ばれる湧水池のそばに建ち、当地の産土神として祀られています。

「あたぁ博多ん豚骨ばっか食べどっと」

「ごっつニンニクば効かせた熊本ラーメンば喰わんね。飛ぶど」

創建は不詳。
現在の祭神は「水波能女命」、「国常立尊」、「国狭土尊」となっています。

天正年間、吉田城城主には子がなく、この水源で身を清め、境内にある誕生石に願いをかけたところ、子宝に恵まれたといいます。
しかし、産後の肥立ちが思わしくなく乳が足りず、日に日に痩せ細る子どもたちに困り果てた奥方は、境内にあるいちょうの木に乳房のように垂れ下がっている気根を撫で、その日から病気も回復し、乳の出もよくなったのだと。

境内に怪しい鳥居があり、

その先に地面から突き出た石がありました。

なるほど、これが子宝の石、「誕生石」というわけですね。
ごもっともさま。



群塚神社の下には、これまた美しい明神池がありました。

ここは「明神池名水公園」として整備されています。

池の水は毎分2t湧き出ており、驚くほど透明感があります。

いわゆる「モネの池」が阿蘇にもありました。

明神池は石橋を挟んで、一方に広いエリアが設けられています。

こちらの池には、女の子の銅像が置かれていました。

この女の子は、明神池に伝わるカッパの娘。
平成9年に建てられたものですが、彼の帰りを待ち続け、悲しみの中でも希望を持つ娘カッパの姿が、よく表されています。

思わず抱きしめてあげたくなる、切なげな姿。
このカッパ娘ちゃんが座っている石が、伝説の「河童石」だということですが、古来の信仰があったものかもしれません。

やい、てめぇか、可愛いカッパ娘ちゃんを心配させる、イタズラ好きのオスガッパは。

また明神池は、日本最後の内戦である明治10年の西南の役の話も伝えられます。

会津藩家老「佐川官兵衛」は佐川直道(300石)の子として生まれました。
王政復古の大号令後、京都守護職を解かれた官兵衛は、大坂城に退去し、会津主戦派の先頭となり、非戦派の神保修理や山本覚馬らと対立しました。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いの際には官兵衛は伏見で薩摩藩兵と激突し、大砲隊を指揮する林権助と協力しつつ奮戦。
右目を銃弾で負傷しながらも刀を折るほどの凄まじい戦いぶりを見せました。
この官兵衛の獅子奮迅の姿から、敵兵によって「鬼佐川」「鬼官兵衛」と呼ばれたといわれています。

明治に入って旧会津藩が斗南藩として再興されると、官兵衛は青森県へ移住し老母とともに極貧生活を送りましたが、のちに警視庁に出仕、一等大警部に任命されました。
明治10年(1877年)西南戦争が勃発。
警視庁から東京警視隊9,500人が別働第三旅団として派遣されることになり、官兵衛も巡査200人を率いて豊後口第一号警視隊一番小隊長として従軍しました。
阿蘇南郷谷に出征した官兵衛は、当地区長門屋の座敷にて南郷有志隊と薩摩軍に対する作戦会議を行い、この水で身を清め、群塚神社に必勝を祈願したと伝えられます。
しかしこの時すでに、敵・薩摩軍は二重峠を占拠し、堅牢な陣地を築いていたのでした。

3月18日未明、二重峠の戦いにおいて抜刀した佐川隊が薩摩軍陣地に斬り込むと壮絶な白兵戦が展開されました。
そこで官兵衛は薩摩軍の隊長・鎌田雄一郎と斬り結びます。
薩摩といえば示現流で知られていますが、官兵衛の学んだ溝口派一刀流にはそれをかわす秘太刀があったともいわれます。

官兵衛は鎌田の示現流をかわして追い詰めますが、横合いから銃撃を胸に受け、戦死しました。
享年47。

墓は大分縣護國神社と福島県喜多方市の長福寺に。
官兵衛の戦死の報に川路利良は、「豊後口の総督は佐川氏にすべきであった。わが不明のために、あたら勇将を死なせてしまった」と痛嘆したということです。

また佐川官兵衛の御霊は、西南戦争で政府軍として戦い戦死したことから、靖国神社に合祀されています。
このような事例は佐川官兵衛ただ一人である、とされているそうです。



せっかくここまで来たので、有名な「白川水源」(しらかわすいげん)にも足を運びました。

25年ほど前、僕は熊本に1年間住んでいたことがありますが、当時、幼い息子・娘を連れて、ここに来たことがあります。
当時、参道途中にある石屋には、霊能者っぽいお兄さんがいました。

白川水源は、白川吉見神社の緑に囲まれた境内にあります。

おそらく、この水源を神体として、古くから祀られてきたのでしょう。

環境省が日本全国から選ぶ”名水百選”にも選ばれている白川水源は、毎分60tもの豊富な湧水を誇る聖地です。

清流白川の総水源である湧水は、不老長寿、諸病退散の神水として昔から語り継がれています。

そんな長閑だった南阿蘇も、今ではインバウンド化が進み、白川水源も落ち着かない場所となりました。

白川吉見神社は白川水源の鎮守神として、水神である国龍大明神(くにたつだいみょうじん)と罔象女神(みつはのめのかみ)が祀られます。
国龍神は高森の「草部吉見神社」の主神ですので、罔象女神を祀る水神信仰の方が古くからあったのだろうと考える方が多いようですが、果たしてどうでしょうか。
阿蘇の主神格たる国龍神も、そこそこの古い神であると思われます。

とはいえ、彼の統治の元、ここに変若水を祭祀する姫巫女がいたと、僕は感じます。


インバウンドの喧騒から逃れるように、僕はさらに足を伸ばして、「塩井神社」にやって来ました。

当社は平成28年(2016年)4月の熊本大地震で、拝殿が倒壊してします。

塩井神社の境内にも素晴らしい水源があるのですが、大地震の影響で一度崩れ、水も枯れ果ててしまいました。

後に、地元民の方々の努力によって復活。
その水源がこちらです。

美しい。

鎮守の杜から湧き出す清水は、今も当地の灌がい用水・簡易水道などに広く利用され、地域住民の生活を潤しています。
水源から流れ出て、白川へと注ぐ塩井川は、南阿蘇でただ一つ西から東へ流れる川として知られ、”ノンボリ(上り)川”と呼び親しまれています。

この青く透き通った湧水は「女水」と呼ばれ、不老長寿の神水と古くから尊ばれていました。
またかつては、一関八坂神社からの御幸もあり、穢れ祓いの霊水として重用されたことが偲ばれます。

今回訪ねた、カッパ娘がいたという明神池を挟んで、白川水源から塩井社水源までの土地は、かつて「白水村」(はくすいむら)と呼ばれていました。
僕の母系の苗字が「白水」(しらみず)で、そのことをアシュラさんにお話しした時に、「ここが白水姓の発祥の場所だ」と、教えていただきました。

塩井神社に祀られる神も、水神・罔象女神。
今は久木野村・長陽村と合併し、南阿蘇村となった白水村ですが、ここにはこうした8つの湧水源があり、「水の生まれる里」として知られています。

「白い水」が表すところは、このような「透き通った水」という意味かもしれませんが、あるいは白水の湧水群に伝えられる不老長寿の霊水、すなわち「変若水」(おちみず)に通じるものと考えられようかと思います。

そうであれば、白水家の本来の大里は四国になるのではないかと僕は思うのですが、しかしどうでしょうか、大地からいくつも、滔々と湧き出す清らかな水を見た古代の人は、何を感じたか。
この水こそ、常世から生まれる命の水であると、感じたのかもしれません。

そんな、僕の母系の姓を残す祖母も、先日99歳で常世へと参りました。
あと90日で100歳になろうか、という歳でしたが、直前までよく食べ、都合の良い(悪い)時だけ認知症になっていた、すこぶる元気で、ヤンチャな祖母でした。
ご近所にあらぬことを言って迷惑をかけまくった時は、僕も菓子折りを持ってお詫びして回った、そんなこともありました。
しかしさすが、”白水”ゆかりの女、大往生です。

それはさておき、こうして久しぶりに白水村を訪ねてみると、「水の生まれる里」確かにそこは、25年前にも強い郷愁を覚えた、僕にとって麗しい古里のひとつだったのです。

本当にモネの池のようです✨
そうですよね😊
2016年震災後は迂回道路が開通した頃から毎年伺っています地域です。
既にその頃には白川水源はかなり観光地化進み、駐車場増設の頃かと思いますが、
アフターコロナはオーバーツーリズムと伺い水源だけは足が遠のいておりました。
この地の「白水家」のお名前に込められた思いが伝わってきます。
別の御縁から、阿蘇白川駅の駅舎でカフェをされてる元アメリカ在住の方と交友ができ、
塩井神社をご紹介いただきました。まだ枯れている最中に復活を祈り・・・
そして少しづつ濁り水がたまりはじめ、美しい水として蘇るまで、
静かに毎年白川駅のお店に寄りつつ思い続けてきた場所です。
初めて行ったのは小学生だった50数年前、高森線に蒸気機関車が走っていました。
記事ありがとうございました。
「水の生まれる里」、良いところです。