雲井宮郷造神社”倉持氏考①”:満天ニ鳴ル花 端白雲井篇 03

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「はじめまして。
小生の地元にお越しいただいたことに驚きました。
この社より車で15分の倉持地区に新治國一宮「雲井宮郷造神社」が鎮座されます。武甕槌、大國主、事代主、さらに出雲族で新治国造始祖の毗那良珠命と建御名方を祀ります。
井戸の名や摂社の性器信仰など、富家伝承の要素が具にみて取れます。
無人社ですが正月三が日は宮司さんがみえられます。
氏神ゆえ毎年の参拝の際にいただいた社史もございます。参考になればと思い取り急ぎご報告まで」

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今年の初夏に『偲フ花』へ、そういったコメントをいただき、コメ主さんとの交流が始まりました。
それで夏の暑さが過ぎ去った頃、予定表と楽天トラベルを眺めていると、「あ、この日、関東に行けるわ」ってことになりまして、久しぶりに茨城方面に足を伸ばすことにしたのです。
コメ主さんにお伝えしたところ、休暇を合わせてくださり、1日筑波山界隈をご案内いただけることになりまして、マジ感謝。
一般の職業の方に比べて休暇が少ない僕は、毎回濃密なスケジュールになるものですから、基本的には自由のきく一人旅を好みます。
しかし最近は、インスピレーションといいますか、ご縁の糸が見えたような気が、しなくなくもなくない場合もあったりしまして、それでその方と旅先をご一緒いただく機会が増えてまいりました。
闇雲にお付き合いを増やしているわけではありませんが、ご縁の国の神様のご末裔様とご縁をいただいてからは、不思議な導きがあるものだと感じ入っている次第です。

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今回、ご縁をいただいた方は”倉持さん”という方ですが、旅の直前になって”B氏”の教え忘備録を眺めていたところ、驚いてしまいました。

「筑波山の北側には、神門系の新治國造がいた新治郡。新治郡月郷、新治郡から分割された真壁郡の月波郷。月波郷は、筑波村と呼ばれたそうだ。
新治國造の言い伝えがある雲井宮郷造神社。車持姓で、末裔は”倉持”を名乗ったそう。
上毛野氏の一族にも車持氏がいて、群馬県に月波神社」

えっ?今から会う人の名前、出てるんですけど~~~っ!!!びっくらぽん🥺
すぐにB氏にもこのことをお伝えしたんですが、氏も興奮してある感じでした。

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さて、倉持さんに朝イチで連れてきていただいたのが茨城県筑西市倉持に鎮座する「雲井宮郷造神社」(くもいのみやくにのみやっこじんじゃ)です。
そう、鎮座地がすでに”クラモチ”。

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当社について、希少な由緒書きを倉持さんからいただきました。
雲井宮郷造神社は境内に案内板もなく、ネットにも情報は多くないので、こちらにある由緒をそのまま掲載します。

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由緒
景行天皇四十一年、国造毗那良珠命が武甕槌、大国主、事代主の三神を奉祀して当地の経営に当る。子孫車特命永く当地に溜りて治績を挙げ祖神を配祀(社伝)俗に「郷造の杜」と云う。建御名方は小田家未葉の頃配祀と云う。
当地名「倉持」は倉持命の名による。即ち「久良毛知」の転化。
大道年間藤原宗成、当社を崇敬社殿造営。仁和二年六月二十八日「授常陸国正六位上郷造神従五位上」(三代実録)建久四年小田城主八田四郎源知家、社殿・玉垣・神門の造営あり。
応永九年知家六代孫宍戸四郎其貞の男朝雄当地に築城、当社を厚く奉斎(倉持宅はそのあと)永正元年に小田城主成治当社再建。
慶安元年十月二十四日朱印三十一石を賜わる。
寛延四年本殿造営。安永六年から毎年旗下大木長之助、玄米一俵を祭祀料として寄進があった。又明暦年中から同川福勝之助より玄米二斗づつ献じこの神を畏敬し、このことは維新まで続いた。天明八年拝殿・玉垣再建。氏子は真壁・筑波・新治三郡にわたって二十ヶ村をかぞへたが、明治六年の変革で倉持と成井のみとなる。同年郷社に列格。同四十年七月十九日(第三四三号)供進指定。
昭和二十七年十月二十四日 宗教法人認証

新治国
「国郡(くにこほり)の旧事(ふること)を問ふに、古老(ふるおきな)の答えていへらく、古(いにしえ)は、相模(さがむ)の国足柄(あしがら)の岳坂(やまさか)より東の諸(もろもろ)の県(あがた)は、惣(す)べて我姫(あづま)の国と称(い)ひ。
是の当時(とき)、常陸と言はず。
唯(ただ)、新治(にいはり)・茨城(うばらき)・筑波(つくは)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の国と称ひ、各(おのおの)、造(みやつこ)、別(わけ)を遣わし撿校(おさめ)めしめき。その後難波(なにわ)の長柄(ながら)の豊前(とよさき)の大宮(おおみや)に隣軒しめしし天皇(すめらみこと)のみ世に至り、高向臣(たかむこのおみ)・中臣幡織田連(なかとみのはとりだのむらじ)等を遺はして、坂より東の国を惣領(すべおさめ)めしめき。時に我姫(あずま)の道、分かれて八の国と為り、常陸の国其の一つに居れり」
と常陸国成立
蝦夷鹿島雲井宮郷造神社(えみしかしまくもいのみやくにのみやつこじんじゃ)とある。
社伝では、景行天皇四一年の創建と伝え、日本武尊(やまとたけるの0みこと)の東征時、新治国造であった毗那良珠命(ひならすのみこと)によって奉斎が始まったとしている。仁和二年(八八六)六月二十八日には、
「授ニ常陸国正六位上御造神従五位下一」
式外社として実在が判明する
式内社として真壁郡大國玉神社・筑波山神社
倭武の天皇、東の夷国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに、国造毗那良珠命を遣はして、新たに井を掘らしむ

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分かりやすく訳しますと、

【由緒】
景行天皇41年、国造であった「毗那良珠命」(ひならすのみこと)が、武甕槌命・大国主命・事代主命の三柱の神をこの地に祀り、当地の開拓と統治にあたりました。
その子孫である車特命(くるまもちのみこと)は、長くこの地に留まり、優れた政治的な功績を挙げたため、祖先の神を合わせて祀ったと社伝にあります。
このことから、社地は俗に「郷造の杜」(くにのみやっこのもり)と呼ばれています。
祭神の建御名方命は、小田氏の末裔の時代になってから、合わせて祀られたと伝えられています。
当地の地名である「倉持」は、倉持命の名に由来します。すなわち、「久良毛知」が転じて「倉持」になったものです。

大同年間(806~810年)、藤原宗成が当社を深く崇敬し、社殿を造営した。
仁和2年(886年)6月28日、『日本三代実録』に「常陸国の正六位上・郷造神に、従五位上を授ける」と記録される。
建久4年(1193年)、小田城主であった八田四郎源知家が、社殿・玉垣・神門を造営。
応永9年(1402年)、源知家の六代目の孫にあたる宍戸四郎其貞の子、朝雄がこの地に城を築き、当社を厚く崇敬して祭祀を行った。倉持氏の居宅は、その後に置かれたものである。
永正元年(1504年)、小田城主の成治が当社を再建した。
慶安元年(1648年)10月24日、幕府から朱印状によって三十一石の社領を与えられた。
寛延4年(1751年)、本殿を造営した。
安永6年(1777年)からは、毎年、旗本の大木長之助が祭祀料として玄米一俵を寄進するようになった。
また、明暦年間(1655~1658年)からは、同じく川福勝之助が玄米二斗ずつを奉納し、この神を深く敬っていた。この奉納は明治維新まで続いた。
天明8年(1788年)、拝殿と玉垣を再建した。
かつて氏子の範囲は、真壁・筑波・新治の三郡にまたがり、二十か村を数えた。しかし、明治6年(1873年)の制度改革によって、倉持と成井の二つの地域だけとなった。
同年、郷社に列せられた。
明治40年(1907年)7月19日、第三四三号の指定により、供進指定社となった。
昭和27年(1952年)10月24日、宗教法人として認証された。

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【新治国と常陸国の成立について】
『常陸国風土記』に記された、古老の言葉によると

「国や郡の昔のことについて尋ねたところ、古老の者が次のように答えた。
昔は、相模国の足柄山の坂より東にある諸地域を、すべてまとめて『我姫(あづま)の国』と呼んでいた。
この当時は、まだ『常陸国』(ひたちのくに)とは呼んでいなかった。
ただ、新治・茨城・筑波・那賀・久慈・多珂という、それぞれの国に分かれており、各地には国造(みやっこ)や別(わけ)という役職の者を派遣して、土地を治めさせていた。
その後、難波の長柄の豊前の大宮に都を置かれた天皇の御代になった。
天皇は、高向臣(たかむこのおみ)や中臣幡織田連(なかとみのはとりだのむらじ)らを派遣し、足柄山より東の地域全体を統括させた。
そのとき、我姫の国は八つの国に分けられ、その一つとして常陸国が成立したのである」

つまり、現在の常陸国は、もともと「我姫(あづま/東)の国」と呼ばれていた広大な地域が、後に八つの国に分割された際に成立した国である。

【雲井宮郷造神社について】
「蝦夷鹿島雲井宮郷造神社(えみしかしまくもいのみやくにのみやつこじんじゃ)」とある。
社伝によれば、当社は景行天皇41年に創建されたという。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国を遠征した際、新治国造であった毗那良珠命(ひならすのみこと)が、この地で神々を祀り始めたことを創祀の起源としている。

仁和2年(886年)6月28日には、次の記録がある。
「常陸国の正六位上・郷造神に、従五位下を授ける。」
これは『日本三代実録』に記された神階授与の記事であり、当社が平安時代にはすでに朝廷から神階を授けられるほどの神社として認識されていたことを示している。
したがって、当社は延喜式神名帳に記載された式内社ではないものの、平安時代の史料によって存在が確認できる、いわゆる式外社である。
なお、式内社としては、真壁郡の大國玉神社や筑波山神社などが知られている。
日本武尊が、東方の蝦夷の国々を巡り歩かれた際、新治の県に立ち寄られた。
そのとき、国造であった毗那良珠命を遣わし、新たに井戸を掘らせた。

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以上がいただいた由緒書きによるところとなります。
また『常陸国風土記』に記されていることを追記しますと、

【常陸の由来】
・常陸と呼ばれるようになったのは、往来する道が川や海の船着き場に隔てられておらず、郡や郷の境界に山河の峰谷が続いていて、直通(ひたみち=続きに続く道)という意味でこの名が付いた。
・別の説では、ヤマトタケルが国造の毗那良珠を派遣して新たに井戸を掘らせたところ、流れる泉が清く澄んでおり、とても新鮮であった。その時、ヤマトタケルは乗輿(みこし)を止めて水を褒め、手を洗うと衣の袖が泉に垂れて濡れた。よって、袖を浸すという意味でヒタチとした。

・そもそも常陸国の堺は広大で、土地もまた遥かに遠く、土はよく肥えており、開墾された場所では山海の幸が得られたことから、人々は安らかであり、家々は賑わっていた。もし、耕作や紡績に励めば立ちどころに富み、自然に貧窮から脱却できる。ましてや、塩を求め魚を味わうなら、左は山で右は海である。桑を植え麻の種を蒔くなら、後ろは野で前は原である。いわゆる水陸之府蔵(うみくがのくら)で、物産は豊かである。古の人が常世国(とこよのくに)と言ったのは この国のことかもしれない。ただし、水田は上は少なく中は多いので、長雨に遭うと苗が実らないという憂いを聞くが、旱魃ならば穀物は実り豊かであるという歓びも聞かれる。

【新治郡の由来】
・新治郡(にひばりのこほり)。東は那賀郡で堺には大山があり、南は白壁郡、西は毛野河、北は下野、常陸二国の堺は波大岡である。
・古老が言うには、昔、美麻貴天皇(崇神大君)の御世に東国の荒ぶる賊(俗に阿良夫流余斯母乃)を討とうと、新治の国造の祖である毗那良珠を遣わした。
・毗那良珠がこの地で新たな井戸を掘ると清水が流れ出た。すなわち新たに井戸を治ったことによって新治郡という名が付いた。それは今でも名を改められていない。

※参照:人文研究見聞録 様

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大元出版では常陸国に関して、アベ王国の領域であり、「ヒタチ」国名は「日が立つ(昇る)」という言葉がもとになっており、そこでは朝日信仰があった、と説明されます。
ヒタチという読みの響きはまさにそうであり、常陸という文字は、直通(ひたみち=続きに続く道)の方がしっくりとくるものです。
最初にヒタチという言葉があり、そこに常陸の字が充てられたのだろうと思われます。

新治国(にいはりのくに)は、古代律令制以前に、現在の茨城県西部に存在した国で、現在の茨城県笠間市、筑西市、桜川市あたりが比定されています。
これは毗那良珠がこの地を新たに治めたことで国が豊かになったことを示唆していると思われます。

毗那良珠は新しい井を開墾したかもしれませんが、当地はもともと湿地に近い土壌で、湖沼が元から多かった地域なのではないでしょうか。
「雲井宮郷造神社」とは、「聖なる井」の宮を治めた「郷造」(国造)の神社だと、名前から察することができます。
つまり当社は、新治国の原点ともいえます。

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現在の当社祭神は、本殿に主祭神として「武甕槌命」(たけみかづちのみこと)を祀り、本殿左に「大国主命」と「建御名方命」、本殿右に「事代主命」と、そして新治国造の祖として「毗那良珠命」(ひならすのみこと)を配祀しています。

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神社の由緒によると、新治国造の祖の比奈良珠命が武甕槌・大国主・事代主の三柱の神をこの地に祀ったとされています。
その後、比奈良珠命の子孫の車持命が、比奈良珠命も合わせ祀ったと。
武甕槌がやや引っかかりますが、車持氏は藤原氏にも所縁があります。のちの影響で主祭神に据えられたのか。
しかし武甕槌も元は出雲系大和族・磯城登美家の人間であり、他の祭神、由緒を見ても、比奈良珠、車持氏、倉持家は明らかに、出雲族の血を引いている、ということが窺えるのです。

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雲井宮郷造神社境内は、今もそこそこの広さを感じましたが、かつてはさらに広大だったようです。

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倉持さんからいただいた由緒書きには、次の境内摂社が記されていました。

稲荷神社:保食命(うかのみたまのみこと/豊作祈願)
竈神社:斉火武主火神(いみほたけぬしひのかみ/厄除)・奥津彦神(おきつひこのかみ/竈の神)・奥津姫神(おきつひめのかみ/勝手の神)
大桑神社:大月姫神(おおつきひめかみ/食物)
天满天神社:菅原道真(すがわらみちざね/学問)
愛宕神社:軻遇突智命(かぐつちみこと/火)
鷺森神社:大己貴神(おおなむちのかみ/医薬)・少彦名命(すくなひこなのみこと/縁結び)

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大桑神社の大月姫神はオオゲツヒメのことでしょうね。彼女は蚕の神でもあります。

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そして道祖神社。猿田彦命(さるたひこのみこと/交通安全)を祀りますが、

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出雲信仰の名残を感じます。

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これは由緒書きの背景に描かれていた、昔の雲井宮郷造神社の境内図を抜き出したものですが、

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かろうじて読み取れるこれは、「白山神社」。
愛宕神社に置き換えられたか、仄かに匂う、越智の香り。

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かつての境内地であっただろう隣の畑に出てみると、筑波山が見えていました。

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僕が写真を撮っていると、一人のご婦人が、朝の散歩をされてありました。
倉持さんと僕がご挨拶をすると、少し、神社のことについて話してくださいました。

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かつては大いに賑わいを見せていた雲井宮郷造神社と倉持地区ですが、当社の宮司家である倉持家は断絶し、今は別の神社の宮司さんが兼任されているとのことです。

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他の倉持家も、倉持地区ではあと1軒のみとなっているそうです。
これはなぜかよくあることですが、家の名前が付けられた土地に、その名の家がいなくなる、そんな現象があります。
ご婦人によると、代わって多く住んであるのが飯島家、なのだそうです。
飯島氏は「信濃国」「甲斐国」「陸奥国」「常陸国」に多く、信濃国飯島氏は源経基の次男・源満快を祖とする片切氏の支流にあり、分家には出雲国の三沢氏があるとのこと。
常陸国の飯島氏は『新編国志』に、「常陸国那珂郡飯島村より起こる」と記されているのだそうです。

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「六つ乃井に うつる雲井の 月満(つきみつま)でも きよ起(き)めくみを くみて志らるる」
(六つの井戸に映る、雲のある空の満ちた月を見ながら、その清らかな水を汲んで身を清めると、ありがたいお恵みを深く知ることができるでしょう)

雲井宮郷造神社に伝わる御詠歌によれば、ここにはかつて6つの聖井(湖沼)があったことを偲ばせます。その「六つ乃井」が御神体だったのでしょう。
麗しの東国・新治の郷は出雲の第三郷だったのか、ご縁をいただいた”倉持氏”について、もう少し考察を深めたいと思います。

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2件のコメント 追加

  1. 倉持 のアバター 倉持 より:

    五条先生に取り上げられていただき、心より御礼申し上げます。今後のご考察を楽しみにしております。

    また情報が入りましたらご報告させていただきます。

  2. Lincol Martín のアバター Lincol Martín より:

    この地域の歴史とルーツを巡る、実に興味深い旅でした!偶然の出会いが、これほど多くの発見や過去との繋がりへの扉を開くことができるということに、特に感銘を受けました。それぞれの発見を分かち合うあなたの愛情が、ひしひしと伝わってきました。敬具。

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