
建速須佐之男命の曾孫、大国主之命が頚城(居多)よりこの里に移りたもうて
海面の孤島(佐渡)を平治せんと欲し給えど
船を造る巨木の無いのを憂いられ
宮居近き石井の水を大地に注ぎ給いしに、不思議にも一夜のうちに12株大樹が忽然と生えた。
其の霊樹で船を造りて島へお渡りになった。
その時大小の魚族がお船を佐け護り、無事にお渡し申したので、その孤島をタスケワタシ(佐渡)の島と云い
また、鱈をスケトウと云う。
佐渡を平定し去られるに臨み、この地・かの島を往来するには良き処である、航海の船を保護せんと云々。
12株の石井の辺りに宮造りし海上鎮護の大神と崇め奉る。
其の旧地は井之鼻の十二林山と伝えられている。
-『石井神社遷座年記略伝』


「出雲崎町」(いずもざきまち)は、新潟県中越地方にあり、4kmにわたって続く”妻入り”のまち並みで知られるところです。

江戸時代には幕府直轄の天領地となり、北前船の寄港地、佐渡島からの金銀荷揚げの地として栄え、約3.6 kmの街道沿いに2~3万人が住んでいたと言われます。

出雲崎は日本における「近代石油産業発祥の地」であり、紙風船の生産日本一(全国シェアの80%超)でもあるとのこと。

良寛の出生地で、松尾芭蕉の『おくのほそ道』にも登場した、そんな出雲崎ですが、かの”戸締り”鈴さん一家の海の行楽地が出雲崎であったということで、

うら若き乙女時代のヒルコ姫も、スク水の林間学校先は、いつも出雲崎だったということです。

ならば私も、大いに出雲崎を堪能しようではないかと、道の駅「越後出雲崎 天領の里」へやって来たのですが、お目当ては出雲崎のBI☆SYO☆KU(美食)。

数あるどのメニューも魅力的でしたが、ここは一択、数量限定!!「出雲崎漁直送御膳!!」キミに決めたーたーたーたーっ!

ドーンっ!! ktkr☆
スク水少女ヒルコ姫のダシで育った出雲崎の海の幸がてんこ盛りやないかーいっ!!

と、これ以上騒ぐと真性の変態扱いされてしまうので、静かにお食事いたしましょう。ふう、ギリギリセーフ。

おばちゃんが「ごめんね、わすれてたー」って持って来たサザエの壺焼き。サザエでございますっ♪

このメニュー、茶碗蒸しにもサザエが入っているのですが、出雲崎町は県内有数のサザエの水揚げ量を誇る産地なんだそうです。

出雲崎産のサザエは粒が大きく旨みが強いのが特徴で、「さざえの炊込みご飯」は2013年の国際ご当地グルメグランプリでグランプリを受賞し、ご当地グルメとなっていました。

そしてこの存在感。あ、圧倒的じゃないか!
真鯛まるまる1匹の煮付けですよ。

身はプリプリ肉厚でジューシー!!
本日も尊いお命、たくさん頂戴いたしました。
ごちそうさまです。



出雲崎の町の外れ、高台の一角に「獄門跡」(ごくもんあと)という場所があり、つい気になって立ち寄りました。

佐渡の金銀を運ぶ重要な港だった出雲崎。
文化5年(1808年)、江戸幕府直轄の出雲崎代官所が稲荷町から移転し、一緒に罪人の処刑場もここへ移され、今も獄門跡として残っています。

ここでは「おそらくは幾千もの斬首がなされたであろう」といわれ、「特に重罪人の生首は浜辺の方にさらされた」と伝えられています。
中には、幕府の年貢の厳しさで貧しい暮らしに苦しめられた人たちが米騒動を起こし、その首謀者がみせしめに処刑された、ともいわれ、のどかな出雲崎でも、ここだけは重い空気が残されていました。
奥の堂には処刑人の霊を慰めるための地蔵尊が数体置かれており、供養塔が建立されています。
毎年9月1日に町内の人達によって、地蔵尊の前で百万遍講を行っている、とのことです。



新潟県三島郡出雲崎町石井町にある「石井神社」にやって来ました。
へぇー、ここって”三島郡”なんだ。

ここ出雲崎は、一時期「国上寺」でも騒然となったイケメンズの一人、禅僧「良寛」(りょうかん)の出生地として有名ですが、

彼の家は当町髄一の旧家、廻船問屋「橘屋」の山本家となります。

石井神社が、奈良時代初期の和銅4年(711年)に井鼻の十二株山神屋敷から現在の石井町に移されて以後、神事はこの橘屋山本家が司ってきており、それは300年経った今も続いています。
明治2年の石井神社記で「旧地即ち井鼻の十二山是なり」と書いたのは、その橘屋次郎左衛門こと「山本伊織」氏であるとのこと。

岡本雅享先生が、2016年の『新潟日報』に寄せている記事では、
「前出雲崎町文化財審議委員長の磯野猛さん(86才)は若い頃、良寛顕彰の父と呼ばれる佐藤耐雪(たいせつ)翁から、橘屋は名主として石井に移るまで井鼻にあったと教わった。石井神社はもともと橘屋の屋敷神(氏神)で、橘屋の移転に伴い今の地に移ったと、磯野さんはみる」
とも記されています。

さて、参りますか、ドンマイ。

当社は出雲崎町の総鎮守で、式内社「石井神社」の論社となっています。
しかし江戸時代には「十二所明神」と称していたと伝えられます。

社伝によれば、「神代に佐渡を平定しようとした大国主命が石の井戸の水を撒き、一夜で成長した12株の霊樹で造船し佐渡へ渡った。この時、12株の霊樹がある井鼻に海上守護の大神を祀ったので、当初は十二所神社と呼ばれた」とされます。

奈良時代に佐渡奉行が祈願して嵐が治まり帰還できたことで信仰心が高まり、和銅4年(712年)に当地へ遷座。
信仰心が高まったから遷座した?、というのは変な話です。
これは磯野氏の説である「橘屋の移転に伴い今の地に移った」とする方が自然か。

現在の祭神は「大国主命」一柱となっていますが、大国主を助けたのは12株の大樹であり、航海を守った大小の魚(魚族?海族?)なので、助けられた方の神を祀るというのも不自然です。

拝殿前の狛犬は、出雲風の勇み型コマさん。
出雲崎産の幸を食べすぎた私を、睨んでいます。

出雲崎という地名は、平成の大合併で「良寛町」という地名に吸収され、消えるところでした。
しかしこれは回避され、与板町・和島村は長岡市に編入されましたが、出雲崎町は独立したままとなりました。
貴重な歴史を伝える地名が、消えずに本当に良かった。

本殿の裏手には小さな洞穴があり、水が溜まっていました。

佐渡島に渡れず困っていた大国主が石の井戸の水を汲んで撒くと、一夜にして12株の大樹が茂ったとありますので、これがその「石井」である、という設定なのかもしれませんが、ここは遷座地なので、これが石井であるはずはありません。
そういえば神屋敷では、井戸どころか水が湧いているような場所も、見当たりませんでした。
「石井」とはいったい・・・

Googleマップでは、当社をご丁寧に「いしいじんじゃ」とふりがながふってあったので思い至りませんでしたが、調べてみると、当社・石井神社は「いわいじんじゃ」と呼ぶようです。

つまり「石井」とは「いわい」なのです。

「いわい」というと、「筑紫君磐井」氏のことが、タイムリーに思い浮かびます。

旧地・神屋敷の石祠は「彌彦神社」方面を向いていましたが、先日nari氏に冗談で「イヤヒコ=イワイヒコ」なんじゃねって言ったのが、”あながち”って気になってしまいました。

式内社「石井神社」の論社は他に、柏崎市の西山町石地、北条、西本町と、長岡市上岩井の比較的近い場所に複数存在し、彌彦神社を挟んだ対面の沼垂郡にも同名の式内社があります。
また柏崎の石井神社には「石部神社」が寄り添うように鎮座しているところもあり、古代に、越国に部民としての「石部」があって、そこの人が「石井・磐井」だったのではないか、とうっすら思い浮かんできました。

海の向こうに微か映る島影は佐渡島。
佐渡島は金の他にもいろいろな鉱石が採れ、美しい赤玉石も採れました。
ここにはそうした採石の部民がいて、越が磐井氏の故郷だったのではないか、とも思えたのでした。
