
出雲では綺麗な形の奥山に、祖先神が宿ると今でも古老は言う。その山を神名備山と呼び拝む。その山に向かって、古代には銅鐸を使う幸の神の祭りが行われた。それには、縁結びと夫婦円満・子孫繁栄の祈りが込められた。田圃の前で祭られる時は、稲の豊作を祈る目的となった。
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一九九七年に、ゴルフ場建設のための調査中に、妻木晩田遺跡が確認された。そこは鳥取県米子市の東隣の地で、日本海の美保湾が見渡せる岡の上だった。その発掘により、弥生時代の住人の居住状態が分ってきた。そこで、遺跡保存運動が起きた。賛否両論の中で、西尾邑次県知事の勇断により、出雲王国時代のこの遺跡が、保存されることになった。
この岡には、およそ九百棟の住居跡があったが、中には三四本柱の指導者の方形建物があった。洞ノ原地区には、有力者の四隅突出墓が並んでいた。
この形の墳墓は後には大きくなり、四隅突出墳と呼ばれるが、その古墳の突出部の意味が議論された。ある説では、古墳の上での葬儀のために、のばり易くした登り口だと説いた。それが、誤りだったことが判明した。一辺三メートルほどの子どもの小さい墓も、四隅が突出していた。すなわち、この形に意味があった。
当時の人々は、幸の神を信仰していた。その信仰では、「掛けじるし」は「生命創造」の尊い印とされていた。古代には外国にも、同じ考えがあった。エジフトのビラミッドにも、それが表われている。
ピラミッドは正方錐形だ。それを神が天空から見ると、石組の稜線が×じるしに見える。すると、神が新しい命を与えてくれると、古代人は信じた。出雲族も同じ考えを持っていた。その「掛けじるし」を強調するために、四方に突出部を造ったと、出雲では伝えられている。
ー 大元出版 谷戸貞彦 著『サルタ彦大神と竜』


私が淀江入りをした初日のことですが、富T嬢と合流し、淀江の聖地巡礼の最後に「是非、お見せしたい景色があるので」と、「妻木晩田遺跡」(むきばんだいせき)に連れて来ていただきました。

妻木晩田遺跡は、米子市淀江町と西伯郡大山町にまたがる大山北麗の丘陵「晩田山」の里山一帯、152ヘクタールに及ぶ日本最大級の弥生集落遺跡で、竪穴住居跡が400棟以上、掘立柱建物跡が500棟以上見つかっています。
それで、妻木晩田遺跡に着いたわけですが、すると警備の方が「もう閉めますよ」とおっしゃいます。
なんと、まさかのゲームオーバー。

仕方なく、トイレだけお借りしていると、事務局の方と富T嬢が親しげに話しておられます。
この事務局の方は、富T嬢のかつての職場の上司?の方のようで、「少しだけなら、どうぞ見ていってください」と快く中に入れてもらえたのでした。
ああ、人のご縁というのは、有り難いものです。

ご恩と、警備の方に申し訳なさを感じ、足早に目的の場所を目指します。

izumeさんと富T嬢が私に見せたかった、という景色がそこにありました。

小ぶりな四隅突出型墳丘墓と雄大な日本海、美しい弧を描く弓ヶ浜が一望できる絶景。
これは素晴らしい。

斎木雲州氏・富先生が『出雲と蘇我王国』の中で
「旧向王家の分家が、ホウキ国の淀江にあつた。そこには弥生時代後期から古墳時代にかけての、ムキ(妻木)晩田遺跡がある。このムキは、向王家のムキが地名になったと思われる」
と記されていた場所がここです。

また、その本には続けて
「向家は富家とも呼ばれる。妻木晩田遺跡には、富王家にちなむ富岡という地名もある」
と記されますが、ここが「富岡」、隣の向山古墳群が「福岡」と地名が付いていることも、面白い謎です。

第一次出雲戦争で吉備王国は2度出雲王国を攻め、2度目の侵攻では吉備の軍勢は美作を通り、まず伯伎国を攻め、そして日野川流域を占領したといいます。
この時、出雲王国に属していた妻木晩田の岡も攻められました。
妻木晩田遺跡の岡の先端には、狼煙を使った跡が発掘され、火災で焼けた住居跡や戦いの傷を受けた骨も発見されています。
西暦170年頃のその時、伯伎と出雲の人口は激減し、回復するのに数十年かかったと伝えられる、と谷戸貞彦先生は、ご著書『サルタ彦大神と竜』の中で記しておられます。
歴史は時に、厳しい現実を世に曝け出しますが、この岡に立ち、微かな潮の香りを受けていると、しかしひょっとすると、という想いに駆り立てられます。
淀江という場所は、出雲王家と海部家・物部家と、争うばかりでなく、うまく交流した、そんな時代があった場所なのではないだろうか、と。

晩田山の丘に吹く風は、きっと古代から変わらないのだろうと思ったのでした。

あ〜、気持ちよ、さ、そ、う!
気持ちよ、い、で、す、YO☆