
島根県雲南市、山間の小さな集落に鎮座する「幡屋神社」(はたやじんじゃ)を訪ねて来ました。

薄青い、藍鼠色の鳥居がおしゃれです。

創建は不詳ですが、奈良時代に編纂された『出雲国風土記』(大原郡条)に記載される「幡屋社」(はたやのやしろ)に比定される古社です。

階段を登った先の境内は狭く、拝殿を正面から撮影すると、超広角レンズでも端が切れます。

祭神は「瓊々藝尊」(ににぎのみこと)と「武内宿禰神」(たけうちすくねのかみ)。
由緒によると「当社の起源は、忌部氏の末裔が祖神と崇める”瓊々藝尊”をお祀りしたことにはじまる」とされています。

忌部氏がなぜニニギ(物部)を?という疑問が湧きますが、それはさておき幡屋神社の古伝によると、「古代出雲地方に居住した忌部氏には二流あり、一方は松江市玉湯町玉造を中心に曲玉制作を手がけ、もう一方は、ここ幡屋において機織りに携わった」ということです。
つまり、ここ幡屋の地は、古代における最先端技術であった織布の産地であり、さらに出雲国内における機織りの発祥地でもあった、とのこと。

しかし「幡屋」の社名、宮司家が「波多野」氏であることを踏まえると、当地は忌部氏というよりは「秦氏」の聖地ではなかろうか、と考えてしまいます。
などと思い耽っていると、izumeさんがアポを取ってくれていた波多野宮司が社務所から出てみえて、いろいろとお話を聞かせてくださいました。

この幡屋神社は昭和38年(1963年)6月の豪雨により、元宮(旧社地)の境内が崩壊したため、社殿倒壊の危機が生じたことから、昭和41年(1966年)に現社地へ移転遷座されました。
ところが現在の本殿並びに拝殿は、元宮を向いておらず、波多野宮司はずっと不思議に思っておられたそうです。

それである時、現社殿の裏手にある山に入ってみると、そこに”陰陽石”と”クナトの石碑”を見つけたのだ、と宮司はおっしゃいます。
「それはクナトと彫ってあったのですか?」と僕が尋ねると、「そうではないが、見ればクナトだとわかる」とのことでした。
波多野宮司は「富家伝承」のことはご存知でしたが、当初は信じていなかったそうです。
しかし幡屋神社の裏手の丘にそれらを見つけて、「それで伝承は本当だと知った」と話されました。
裏手の丘は、とても不気味で恐ろしいらしく、「無闇に足を踏み入れてよい場所ではない」と、語調を強められていたのが印象に残りました。



波多野宮司は、私たちを二つの場所へご案内してくださいました。

幡屋神社から車で10分ほど、同じく雲南市に鎮座する「岩根神社」(いわねじんじゃ)です。

当神社は「結婚成就」「出生安産」にご利益があるとのことで、地元の方々の崇敬を受けていました。

祭神は、「國常立尊」(くにとこたちのみこと)の他、「國狭土槌尊」(くにのさずちのみこと)、「豊酙渟尊」(とよくむねのみこと)。
しかし由緒には、「天平元年(729年)信濃國樋浦郷葦原邑より御神霊を迎え 当社奥宮の高ノ峯に社殿を創建したと伝えられ古くは”三躰妙見宮”と称した」とあります。
この「信濃國樋浦郷葦原邑」がどこのことか、勧請元の神社がどこなのか、調べてみても良く分かりません。

三躰妙見宮というのは、神仏習合期の呼び名と思われ、星信仰が背景にあると思われますが、本来の神名は現在の祭神名とは違う可能性もあります。

当社が最初に鎮座したのが「高の峯山」と伝えられますが、その山が現社地の参道入口から、チョコンと見えていました。
高の峯(こうのみね)というのは、コウノトリがオオナモチの命を運んできたというのが名の由来だとかで、それが「出産安産」のご利益に繋がっているようでした。
また、この辺りの古い家は「鳥谷家」(とやけ)といい、コウノトリ伝承との関連も気になるところです。

”なるほど”と思い、位置関係を確認してみましたが、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡をつなぐ、古代出雲王家の東西国境に近いと言えば近いが、離れていると言えば離れている、何とも言えない距離にあります。
”コウノトリがオオナモチの命を運んできた”という話は、それはここが”出雲王「大名持」の襲名がなされた場所”であるのかもしれませんが、確証には至らぬところです。

岩根神社の特殊神事に、3年に一度行われる「結婚万歳楽」(けっこんまんざいら)というものがあります。
これは結婚成就と子孫繁栄を願って奉納される神事で、萬歳子(鳳凰が羽ばたく様子を子供達が演じる)の舞と大笑いの行事となっています。

その時に大鏡餅を神前に奉納するのですが、「八升八合」の米を用いて2個作るのだそうです。
岩根神社の言い伝えでは、例大祭では、本殿の真下で相当量の薪を焚いて神饌を調整していたようです。
これは下殿祭祀といって、今でも、神宮の心御柱の周りには八十瓮が配されていますが、本殿の床下で神饌が調理されていた頃(床下が台所だった)の名残、とのこと。
波多野宮司がおっしゃるには、「岩根神社は、ちょっと特殊な神社」だということですが、これは”神地で大名持(大鏡餅)が誕生する”ことを表しているのかもしれない、と僕は感じました。

岩根神社にはもう一つ、面白い伝承がありました。

本殿の妻飾に彫られている雌雄の龍が、夜な夜な田畑を荒し大きな鳴き声で騒ぎ立てるというので、これを鎮めるために両眼にクサビが打ち込まれたと伝えられます。

彫刻が夜な夜な暴れ出す、という話は各地の神社でちょいちょい見かけますが、目にクサビを打ちつけた、という過激なものはあまり聞いたことがありません。

そうした伝承も含めて、岩根神社は古い風習を今に残す、希少な神社だと感じました。



15時を過ぎた頃、小雨がぱらつき始めましたが、九州からせっかく来てくれたので、ということで、波多野宮司が幡屋神社の元宮までご案内くださいました。
だけど、えっ?まさかのヤブ漕ぎ??

五条桐彦恒例の、ヤブ漕ぎ大会が始まるのかと緊張が走りましたが、草が繁っていたのは入口だけでした。

すぐに土の道になったものの、しかし元宮までの参道は、異様さを感じる薄闇い林道でした。

く、クマ氏、出てこないよね🐻

雨は枝葉が避けてくれますが、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつきます。

しばらく歩くと、石の階段が現れました。

もはや、これも恒例ですな。
行きますか。

階段を登り切ったところに、「船石」の案内板がありました。
当社の祭神は遷座に当たって、船石を使用したとの言い伝えがあるようで、その船石がこの先の谷底にあるのだそうです。
なるほど。

そのまま元宮がある登り道を進みます。

もう一息、階段を登ると、

幡屋神社発祥の地が見えて来たのでした。



入口からここまで、約10分ほど経ったでしょうか。
そこは平坦に開けた場所となっており、かつて社殿があったであろう下地が残っていました。

その旧社地の奥に、巨大な何かがいました。

異様な圧を放つソレの前には、「大磐座」と案内があります。

お、王蟲じゃね⁈
この大磐座の頂部にある「鏡岩」が神体だとのことですが、

ムムム、彫ってありますね。。。

彫っちゃったの !!? 御神体っ !!!

って思ったら、その隣の丸い石が神体石でした。

彫ってある岩の方がいかにも鏡岩っぽい形状ですが、鏡岩とは鏡というよりは光を放つ「玉」を形容したものなのでしょうか。

大磐座の向かって右手にある丸石は「荒神」のようです。
ひょっとすると、古くは藁蛇を巻いていたのかもしれません。

さらにその奥にあったのは、古井戸の跡。
水神として祀られています。

「船頭岩」「船子岩」というものもありました。
これは元は「船石」とで3つセットだったらしく、要は船石も元はこの平地にあったものが、土砂が崩れて谷底に落ちたようです。
ところで、「当社の祭神は遷座に当たって、船石を使用した」という言い伝えですが、この当社というのは、幡屋神社のことではなさそうです。

『出雲風土記考』によると、「幡屋社 幡屋若宮大明神 古はイナサカ谷に御社ありしも今は幡屋八幡の社内に移せり」とあります。
「幡屋八幡」というのは、鎌倉時代に武門が政権を握るようになった折、宝暦14年(1764年)に山城國佐女牛八幡宮の分霊を正八幡宮と称えて「宮の谷」に奉斎したものだとのこと。
山城國の「佐女牛八幡宮」(さめがいはちまんぐう)とは、現在、京都市東山区にある「若宮八幡宮社」(わかみやはちまんぐうしゃ)のことで、後冷泉天皇の勅願によって源頼義が石清水八幡宮の若宮(新宮)を勧請したものだということです。
なぜ、幡屋八幡が、宇佐八幡宮もしくは石清水八幡宮から直接勧請されなかったのか、その疑問はさておき、「宮の谷」というのが当地のことであり、「遷座」というのは山城國佐女牛八幡宮からの遷座のことであって、船石を使用した神というのは幡屋社の神ではなく八幡若宮の神である、ということになります。

「幡屋社 幡屋若宮大明神 古はイナサカ谷に御社あり」の「イナサカ谷」は、どうやら幡屋神社の現社地にあたるようで、幡屋社は現社地から元宮の「宮の谷」に遷座、幡屋八幡と合祀され、豪雨の影響で昭和41年(1966年)に現社地に再び戻って来た、というのが真相になります。

ということは、幡屋社の一族(秦氏?)は古来から「イナサカ谷」の現本殿の裏手の丘を守って来たということでしょうか。
ならば、この元宮の磐座を祭祀して来た一族というのは誰なのか。
鎌倉時代に幡屋八幡が創建される遥か以前の古代から、ここが祭祀の場だっただろうことは想像に難くありません。

そう考えると、「古代出雲地方に居住した忌部氏には二流あり、一方は松江市玉湯町玉造を中心に曲玉制作を手がけ、もう一方は、ここ幡屋において機織りに携わった」という幡屋神社の古伝の話が思い浮かびます。
幡屋神社の近くには、阿波から来た神「阿波枳閇委奈佐比古」(あはきへわなさひこ)由来の「船林神社」や「和奈佐神社」「貴船神社」があり、『出雲国風土記』に「スサノオの御子である”青幡佐草日子”(あおはたさくさひこ)が麻を蒔いた」と伝わる高麻山(たかさやま)があります。
そうか、青幡佐草日子の”幡”は秦氏のハタなのかも。

”阿波国と麻”といえば、麻植の神「天日鷲」(あめのひわし)がいます。
彼は阿波忌部の祖神と伝えられます。
阿波のワナサ彦は、天日鷲と関係があるのか。
これを踏まえて僕が思うところは、幡屋神社の秦氏(波多氏)は青幡佐草日子ゆかりの一族で、青幡佐草日子は阿波系の秦氏だったのでは、ということです。
阿波系の秦氏、というのは言ってみてなんですが、自分でも良く整理がついておりません。
が、徐福系とは別の機織の一族が、阿波にもいたのではないでしょうか。

幡屋神社の現祭神が、なぜ瓊々芸尊と武内宿禰神なのかは良く分かりませんし、正直、違和感があります。
本来の祭神は青幡佐草日子なのかもしれません。
幡屋地区は昭和40年代ごろまで機織りが盛んで、神社で商売繁盛などを祈願する人が多かった、ということです。
松江城のクサビや、松江大橋の最初の板はみな、幡屋神社有林から搬出されているといいます。
この幡屋の地が、古代における最先端技術であった織布の産地であり、さらに出雲国内における機織りの発祥地でもあった、というのは間違いのない事実でしょう。

それから、元宮から出て来たところの水路に溜まった赤い土、

「これって鉄じゃないですか」とizume氏が指摘していました。
そうかもね。

narisawa110
ここでロマン的な妄想を。
武内臣太田根は、出雲側からお嫁さんを貰って没したとあります。
仮に、女系が後年に忌部氏を名乗る方であったとすればこのような祭祀形態になり、家名を守る為に秦や旗ではなく、最初は「波田」の二文字から始まったんじゃないかと思います。(波根から連想)
記紀の最初の方は忌部氏が書いたとありますね。出雲で最初のお隠れになった神様が祀られる神社は忌部氏と関連があると思われます。
大元教は、もしかしたら忌部氏の関与が強いのかもしれませんね。
narisawa110
ニニギと武内宿祢という事であれば、出雲伝承的には「崇神と、その子孫である物部武内彦」という事になろうかと思います。
伝承本で言えば、崇神が尾張家かのように書かれたことにより、武内宿禰が全ての血が入った存在であるという事になっていますが、本質は山幸彦物部氏という事になろうかと思います。
紀氏が仮に私の妄想通りの大伴であったとすると、武内宿祢の母系は大伴であり、天物部氏になります。
そうすると、武内宿禰は海部より昔に分化した磯城家より格上を自認する古い出雲の血を引くスーパー物部氏になるという事でしょうか?
幡氏の解釈は出雲伝承本で言えば海童たち庶子の集合体の様に考えられますが、一般論においてはもう一つ、神功皇后期以降のソツ彦以降の系統が挙げられると思います。ソツ彦の分家筋が秦氏や葛城氏に置き換わりましたよね。
これが和歌山経由、四国で出雲に里帰りしたとなると、古い秦氏と新しい秦氏が出雲で揃う事になるのかもしれませんね。
武内臣太田根が出雲に持ち込んだものは、鏡とかだけじゃなく、生活に役に立つ最新の織物技術もあったのかもしれませんね。
少し話は飛びますが、古墳ハウスの所にあった本ですが、斐川町富村の近くに「神戸郷」がありそこには「神奴部、鳥取部、健部、若倭部、海部、津島部、大伴部、額田部」の全てが関与していたようです。
このうち、神奴部に関してですが、忌部 百継(いんべ の ももつぐ)の例を示します。
彼は、奈良時代に活動した紀伊国名草郡の豪族。氏は「神奴のち忌部」姓はなしとあります。
幡屋神社宮司から
この度は、ご参拝いただきありがとうございました。
岩根神社について補足させていただきます。
大鏡餅ですが、「八合」の米ではなく、「八升八合」の米で鏡餅を2個作っていました。
岩根神社の言い伝えでは、例大祭では、本殿の真下で相当量の薪を焚いて神饌を調整していたようです。これは下殿祭祀といって、今でも、神宮の心御柱の周りには八十瓮が配されていますが、本殿の床下で神饌が調理されていた頃(床下が台所だった)の名残です。
岩根神社は、ちょっと特殊な神社です。
これは早速ご覧いただき、誠に恐縮です。
記事のアップが、お会いしてから2ヶ月以上過ぎてしまいました😅
補足、というかご訂正、ありがとうございます。
上記のコメントをそのまま使用させていただき、修正させていただきます。
うろ覚えのうえ、時間が経ってしまいましたので、間違い・勘違いもあると思います。
他にもご訂正がございましたら、お遠慮なく申し付けください。
確かに、岩根神社の由来、参拝した印象から、特殊な神社であると私も感じました。
というよりも、幡屋神社を中心としたエリアは、出雲の中でも特殊ですね。
きっとまだ表に出ていない隠された歴史があるのだと思います。
narisawa110
最終的には氏族をどの段階から始祖として、ナニナニ族という判断をする、という事になりますが。
基本的には記紀におけるカガセオの話以外は、古語拾遺においてのみ「天羽槌雄神として岩戸神話」に織物をヒラヒラさせて象徴的に描かれます。
流れとして、紀氏の元になったのが大伴氏で、岩戸別の神を中心的に祀ります。
二田物部氏は、伴造であったとするのであれば、親玉は大伴氏になります。
武葉槌の別名は神綺日安命の別名とも言われ、読みはカンザキ、ではなくカムハタです。
この武葉槌神は、四国から日本海にかけて分布し、日本海側では天物部氏と称します。
恐らくですが、後年の忌部氏の独立によって、出雲の縁やこの物部化が隠されたのが現在の忌部氏系図ではないでしょうか?
よくよく考えると、記紀だけを見れば天背男は忌部氏であり、武葉槌(大伴?)にやっつけられただけの話で終わり、何処が物部さんなのかさっぱりわからない事になります。
しかし、大伴氏の可能性のある士族は物部化しており、「記紀お得意の解釈のループ」が発生します。
神武は物部氏が神武にされた事により、神武が神武を倒したかの様なループが発生しています。
四国においても攻め込んだのは物部氏である訳ですが、出雲伝承本には、カガセオは物部の神かの様にかかれ、矛盾します。
それを解決するのが、山幸彦ではない物部氏、天物部氏の考え方だと思います。
そうすると見る銅鐸が出ることも、忌部氏系図に背男が出てきてもおかしくはないですし、香香青男の本質は大伴、神門という事になるのかな〜、なー、と思います。
富編集長の、忌部氏が物部氏のふりをしたりしたとあるのは、「天物部氏」の事だとしたら、忌部氏が中臣家の前のヤマトの祭祀を担ってたのが、磯城家と出雲の姫であったという話と矛盾しなくなる気がするわけです。
また、出雲の縁があったからこそ、記紀編纂時に忌部町に土地まで確保でき、神社まで残ったのではないでしょうか?国司赴任の際に千家が土地を世話したのかもしれませんね。
古語拾遺は記紀服属の域を出ていない書き方をした事によって、その前の氏族を書けなかった。逆にその書き方をした事によって大きく罰せられることはなかった。そんな気がします。
”物部氏のふりをした忌部氏=天物部氏”、なるほどね。
narisawa110
そうなんです。タクハタチジヒメの出てくるあの忌部氏系図ですが、あれだけを見ても「どこが物部化してるの?」と思ったわけです。
先代の伝承者であるマサオさんは、実は但馬故事記において接触の痕跡が伺える記載があり、先代のまとめた資料に別の側面の丹後の事が書いてあったのかもしれません。