荒神谷遺跡 / 加茂岩倉遺跡:八雲ニ散ル花 35

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紀元前200年頃、出雲王国の海岸に秦国人の乗った船が着きました。
彼らは徐福の先遣隊として渡来した「穂日」(ホヒ)と「武夷鳥」(タケヒナドリ)たちでした。
彼らはすぐに出雲兵に捕らえられ、神門臣家の王官に連れて行かれます。
そこで穂日らは、秦国から持って来た青銅器を貢物として八千矛王に捧げました。
その貢物のひとつに、古い形の銅鐘がありました。
「句鍟」といわれる銅製の鐘を真似て出雲王家で作成されたものが「銅鐸」です。

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銅鐸は元は「佐那伎」(さなぎ・さなぐ)と呼ばれ、木などに吊るされ、その鐘の音で神を呼ぶ、祭りの神器として用いられたと云います。
子の出産や作物の豊作を祈り、サイノカミの祭りの時には、銅鐸を内側からたたいて鳴らしました。
伯者国の稲吉角田遺跡から、大型の弥生土器が出土し、それには木につるされた銅鐸らしい絵が、描かれています。

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荒神谷遺跡の博物館に、それを模したレプリカが置かれていて、往古の調べを聴くことができました。

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出雲王国の王家は銅鐸を製造し、王国内の各豪族たちに配りました。
そして王国内の各地で、銅鐸の祭りが行われていきます。

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やがて銅鐸の祭りは登美家によって大和地方にも広がっていきます。
次第に銅鐸も大型化し、鳴らす神器から飾る神宝へと変化していったそうです。

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銅鐸には動物や作物も彫られるようになり、豊穣を願った古代人の祈りが感じ取れます。

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西暦80年頃に辰韓(新羅)から渡来したアメノヒボコの子孫達は但馬を開拓し、福井の気比の村辺りまでを支配しました。
彼らは大和王朝に同調し、当初は銅鐸の祭りを行っと云います。
気比川を河口から約1.5kmさかのぼった所にある気比神社の近くからは、四つの銅鐸が出土しています。

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やがて勢力を増してきたヒボコの末裔の国は、但馬(タジマ)王国となります。
そこでタジマの王は、南方にある播磨に進出しようと考えました。
しかし当時、そこは出雲王国の支配地だったのです。

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播磨地方は大和王国と出雲王国の政治文化の中継地で、両国を繋ぐ重要な地域でした。
播磨の「伊和神社」(兵庫県宍粟市)の付近からは、出雲のシンボルである銅鐸が出土しており、出雲の磐座信仰も受け継いでいます。

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一方、九州筑後川流域を中心とする物部王国は、次第に強力になっていました。
その支配地は筑紫全域に広がり、さらに壱岐と対馬にまで及んでいきます。
その頃の物部王国のシンボルは、銅矛でした。
物部政権が和国の中心として拠点を置くには近畿地方がいいと考え、大和ヘの侵攻を謀りました。
物部政権が東征を成功させるためには、強大な大和王国を弱体化させる必要があります。
そのため、大和政権と出雲政権との分裂を画策しました。

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物部王はタジマ国へ使者を送り、ヒボコ勢が出雲王国圏の播磨を攻撃し占領するよう頼みました。
この時、物部王はヒボコ勢に銅矛を与え、大和・出雲連合のシンボルである銅鐸の祭りを止めるよう求めます。
気比神社近くに埋納されていた銅鐸は、その時埋められたものと云います。
こうしてヒボコ勢と物部勢による、大和・出雲連合王国を挟み撃ちにする密約が交わされたのです。
そしてヒボコ勢の攻撃がはじまりました。

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斐川町神庭(かんば)西谷の小さな谷間に「荒神谷遺跡」があります。
昭和58年、広域農道(出雲ロマン街道)建設にともなう遺跡分布調査で、調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器をひろった事がきっかけとなり発見されました。
遺跡の南側に「三宝荒神」が祭られている事から荒神谷遺跡と命名されます。
昭和59年、谷あいの斜面から358本という、大量の銅剣が出土し、人々を大変驚かせました。
更に昭和60年に、その時点からわずか7m離れて銅鐸と銅矛が出土します。
この遺跡発掘によって、これまで疑惑視されていた出雲王国の存在が、にわかに信憑性を帯びてくるのです。

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『後漢書』「東夷伝」に和国の内乱の様子が記されています。
桓・霊の間(147~188年)に、和国内は大いに乱れ、各国が互いに攻め合って、何年にも渡って君主がいなかったと云います。
それは出雲王家で伝える戦乱の年代と、まったく一致していたそうです。

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「播磨国風土記」神前郡の記事には「八千軍(やちぐさ)というわけは、天之日矛命の軍兵が、八千人あった。だから、八千軍野という」とあります。
ヒボコ軍はもの凄い大軍で播磨を攻めたのです。
八千軍野の地名は今は福崎町の八千草に変わっているそうです。

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風土記に粳岡(ぬかおか)での戦闘の記事が記録されています。
「粳岡で、伊和の大神(オオナモチノ命)とヒボコノ命の二柱の神が、おのおの軍をおこして、相い戦いました。」

揖保の郡・粒丘にも記事があります。
「まれびとの神(ヒボコノ命)の武勇盛んなことを怖れて、主の神(オオナモチノ命)は先に領地を確保しようと巡り、粒丘に登り着いて食事をされた。
そのとき口から飯粒がこぼれた。
それで、粒丘という。」

ヒボコ勢は鉄が欲しかったらしい。
鉄がよく採れた宍禾(しさわ)の郡にも進撃したと云います。
「宍禾の郡の川音村と高家の里、オオナモチノ命とヒボコノ命がこの谷を奪い合いました。
それで、奪谷といいます。
その奪い合いの所為で、谷の形が曲った葛のようになりました。」

宍禾の郡、波加の村の記述では、
「国占めのために争った時、ヒボコノ命が先に来て、伊和の神は後に着いた」と記されています。
すなわち、ヒボコ勢が先手を打って進軍し、防備を固めたため、後手に回ったイズモ軍は領地を回復できなかったと云います。
その結果、ヒボコ勢によリ播磨は占領されてしまいます

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加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡の間に「大黒山」という山があります。
その山は東出雲王家と西出雲王家の両家の領地の境界でした。

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播磨の領地を奪われ出雲王国の東部がタジマで分断され、出雲王国の勢力は次第に弱まりました。
同盟国の大和王国は援軍を派遣してくれませんでした。
両王家は大黒山の麓に集結し、出雲王国の建て直しを図ることを話し合います。
出雲王国は大和王国との共通のシンボルである銅鐸の祭祀をやめ、両家境界の大黒山麓「神庭斎谷」の地下に銅矛と銅鐸を埋納することにしました。
そして物部王国の銅矛に似せた出雲オリジナルの銅剣を、王国の新しいシンボルとすることに決めます。
物部型のシンボルを出雲王国が採用したことで、出雲政権と大和政権の連合はこの時、終わることになりました。

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播磨地方をヒボコ勢が侵略した時、同盟国である出雲から頼まれた救援を、大和王朝7代「フトニ」(賦斗邇)大王は無視していました。
が、後になって大王は考えを直します。
2世紀の中ごろ、大王は播磨の攻略を御子たちに命じました。

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「伊佐勢理彦」(イサセリヒコ)と「若建彦」(ワカタケヒコ)が大軍を率いて、その地に向かったことが、日本書紀の孝霊記に書かれています。
この時の大和軍の攻撃は激しかったようで、ヒボコ勢の人々は散り散りに逃れたことが伝わっています。

ある者は日本海に逃がれ、船を使って西に進み、筑前の糸島半島「伊都国」に移住しました。
播磨に住んでいた人々の多くはまだ住民が少なかった淡路島に逃げました。
一部の人は、船で淀川をさかのぼり、琵琶湖東岸の坂田に住んだと云います。
また残りの一部は吉備に逃がれたと云うことです。

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ヒボコ勢の出雲侵攻は、元は物部王の企みで始まったことでした。
しかしこの時、ヒボコ勢の加勢に物部軍がやってくることはなかったのです。
いや、物部軍は大和を南から攻めるべく紀伊国に上陸していたのですが、そこで思わぬ足止めを食らっていたのでした。

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フトニ大王は圧倒的力で播磨を占領しましたが、その地を出雲王国に返そうとはしませんでした。
フトニ王の此度の播磨と但馬攻撃は、自分の領地を増やすための進撃だったのです。
背景には、出雲王国が大和王国との連合を離れて、国のシンボルを銅剣にしたことを、フトニ大王は不快に感じていたこともありました。
また、ハリマ地方をヒボコ勢に取られたままにして置くのも惜しかったようです。
つまり大王も良質な鉄を求めたのでした。

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更に、彼は出雲領の播磨国を奪っただけでなく、大軍を使って出雲領吉備国に侵入し占領しました。
大和王国の磯城王朝を親戚と考えていた出雲王家にとっては、予想もしない出来事で裏切りでした。
完全に油断した出雲王国は、防戦の準備が遅れることになります。

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大和軍は、ついに吉備のすべての地方と美作地方を占領しました。
フトニ王の二人の息子は「大吉備津彦」と「若健吉備津彦」と呼ばれ、吉備の中央部に当たる「吉備の中山」に定住します。
そこから大吉備津彦と若健吉備津彦は、軍勢をまとめて出雲南部戦線に移ります。
この一連の戦いは熾烈を極め、出雲では「第1次出雲戦争」と呼んでいると云います。
この時、出雲兵も果敢に戦ったと伝えられていました。
時にはゲリラ戦で吉備軍と交戦します。
が、旗色は悪く、間もなく奥出雲に敵が侵入する段階になったことから、出雲の両王家は対応を協議することにしました。
西出雲王家の神門臣家は、銅剣を渡すことを条件として休戦することを提案しました。
しかし銅剣をすべて差し出すことは、キビ政権に敗北したも同然と、東出雲王家の富家は反対し徹底抗戦を主張しました。

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奥出雲は神門臣王家の領地ですが、富王家の兵が守備することを申し出ましたが、神門臣王家はそれを望みませんでした。
話し合いは続けられましたが、結局妥協には至りません。
それで、これからは互いの王家の方針には、干渉しないことが決められたと云います。
両家は古くから協力し合っていましたので、完全に別れることは望みませんでしたが、実質的には、その時点で出雲王国は東西に分裂してしまいます。

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富家は所有する全ての出雲形銅剣344本を、神に守って貰うために、神庭斎谷の地下に隠すことにしました。
神門臣家は所有する出雲形銅剣を、吉備王国に差し出すつもりでしたが、銅剣そのままを渡すのは自尊心が許さなかったようで、それを融かして、インゴットにすることにしました。
両王家は領地の境である、神庭斎谷に再び集まります。
富家は以前に銅矛と銅鐸を埋納した斜面の左側に銅剣を埋納しましたが、神門臣家も、14本を神門臣家の守護を神に頼むために、一緒に埋納することになりました。
そして最終的に、この荒神谷遺跡と呼ばれる場所に、358本の銅剣が埋納されることになったのです。

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荒神谷遺跡の向かって右側からは、銅鐸6個と銅矛16本が発見されています。

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左側からは銅剣358本が発見されました。
その数は、これまでに発見されていた国内の銅剣の総数を上回る数だったと云います。
それがたった一箇所から発見されたのです。

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358本の銅剣のうち、344本には「×」印が刻まれていました。
それは謎とされていますが、この×の傷は、東出雲王家である「富家」の紋章を表したものだと云うことです。
富家の紋章は、「竜鱗枠銅剣交差紋」でした。

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外枠は亀甲紋ではなく、出雲族の崇拝する龍神のウロコの形でした。
銅剣は王者の象徴ともいわれましたが、中の×シルシの意味は、剣による交戦ではなかったと云います。
古代には「あたらしい生命が発生する尊いマーク」と考えられ、サイノカミ信仰を表したものでした。
紋の「銅剣」部分は目立つので、後には「大根の交差紋」に変えられたと云われています。

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荒神谷遺跡では銅剣のレプリカを、発見当初の状態に並べて、当時の状況を再現してありました。
しかし出雲大社横の、「島根古代出雲歴史博物館」ではその実物も見ることができます。

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上段には、往古の姿を再現した200本あまりの黄金に輝く銅剣のレプリカが陳列されています。
その姿も圧巻ですが、

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その下には、生々しい、青銅色の剣が丁寧に並べられていました。

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これだけの銅剣が発見された当時の驚きは相当なものだったと思われます。

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銅剣を埋納した斜面の上は土でおおわれました。
江戸時代以後は、そこは立ち入ると罰が当たる、と云われていたそうです。

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永い年月のあと1984年に、畑の奥と呼ばれていた西谷(斎谷)から、この358本の銅剣が発掘されました。
出土した鋼剣の数の多さが話題を呼び、出雲王国の実在を論じる学者が増え、今も研究が進められています。

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島根県雲南市加茂町岩倉に「加茂岩倉遺跡」(かもいわくらいせき)があります。
平成8年(1996年)10月14日、農道の工事中にこの場所から大量の銅鐸が出土したことは記憶に新しいところです。
発掘された銅鐸の総数は39個であり、1ヵ所からの出土としては全国最多となります。
加茂岩倉遺跡は1999年1月14日に国の史跡として指定され、出土した銅鐸は1999年6月7日に重要文化財、さらに2008年7月10日に国宝に指定されました。

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さて、奥出雲を狙う吉備軍に対して、出雲王国は休戦の申し入れを行ないました。
それは神門王家が中心となり、出雲王家所有のすべての銅剣を融かしたインゴットを引き渡すという内容のものでした。
この時、吉備軍には、荒神谷に銅剣の一部を埋納したことは秘密にされました。

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吉備軍の中には戦さ続きの野宿に疲れ、吉備に帰りたがる兵士が増えていました。
また死傷者が多く出たので、吉備津彦は戦争継続は厳しいものと考え、それで、和議が結ばれることになります。
青銅のインゴットを受け取った吉備王国は、自国のシンボルとして平型銅剣をさらに造り加えて、支配地に配りました。

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青銅器の種類については、「イワクラ(磐座)学会」の「調査報告電子版 2012年12月20日掲載 」資料を拝借させていただきました。
http://iwakura.main.jp/

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出雲両王家が分断された、この時から後は、出雲王国は末期に区分されます。
末期の初めは、吉備と出雲両国間はしばらくの間だけ平和が続きました。

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吉備津彦らは吉備の中山に凱旋しました。
が、出雲王国が内部分裂し、東出雲王国が吉備王国の属国になっていないのを後で知ることになります。
これをフトニ王は怒って、東出雲王国を亡ぼすために、再び攻撃を命令しました。

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吉備軍は四十曲峠を越え、伯耆国に侵入します。
この作戦は、直轄地の出雲と因幡以北の旧出雲王国領との分断をはかり、東出雲王国を弱体化し完全に降伏させる意図がありました。
このたびの吉備軍の攻撃は、明らかに東出雲王国に向けられていて、西出雲王家とは縁が薄いものでした。
しかし西出雲王家の神門臣家は銅鐸を多く所有していたので、銅鐸を渡せと吉備王国から求められることを怖れたと云います。
神門臣家は今後は鋼鐸祭祀を完全に中止する方針を決め、出雲両王国に残されていた銅鐸を、富家とともに埋納することにしました。
その場所が加茂岩倉遺跡です。

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遺跡には銅鐸は綺麗に並べて埋納されていたと考えられています。

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発掘場所はレプリカが設置され、当時の状況を大切に保管されていました。

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神器である銅鐸を埋納することは、祖先神でもある「境の神」(サイノカミ)に捧げることであり、境を守って貰う意味もありました。

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埋納地に選ばれた加茂の地は、入り口に男神を表す、大きな磐座がありました。
その奥地に女性を表す銅鐸を埋納することは、敵の侵入を防いでもらうという意味のほか、子孫繁栄を願う思いもあったということです。

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加茂岩倉遺跡で出土した銅鐸の一部にも、釣り手のところに「×」の傷が刻まれているものがありました。

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富家が所有していた銅鐸は14個あり、神門臣家のそれは更に多かったと云います。

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吉備軍が東出雲王家を圧倒し始めた頃、フトニ大王にニュースが届きました。
それは、「筑紫王国の物部軍が和歌の浦に上陸した。その軍は紀ノ川を逆のぼり、大和国に侵入するらしい」との情報でした。

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そのニュースは、フトニ大王の恐れていたことでした。
しばし考えたフトニは、「ひとまず、休戦しよう」と、つぶやいたと云います。

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出雲軍に使者を送り東出雲王国と休戦して、吉備の兵士を撤退させました。
しかし時は既に遅かったのです。
フトニ大王は、出雲の播磨領を速やかに救援し、大和と出雲両王国連合を中心として筑紫の物部軍を制圧し、和国統一をするべきだったのです。

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この出雲との戦争の間に、大和王国内は他の御子たちの勢力が強くなり、フトニ大王の権威は国内にすでに無くなっていました。
そこに物部軍が紀伊国から北上してきたのです。
フトニは単に地方、吉備王国の王と見なされました。
つまりこの時から、吉備王国と大和王国の2国が対立する時代となったのです。

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東出雲の富家は、同じ事代主の血を分けた親戚の吉備津彦に攻められたことを教訓に、「強くなった親族に警戒せよ。目立たぬように生きよ」という
家訓を子孫に残しました。

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この時までは「出雲臣家」と「富家」を使っていましたが、目立たぬように、「向家」の名も使うように変えたと云います。
さらに宮殿が目立たないように、祭りの場を宮殿から離れた田和山(松江市乃白町)に移し、以降、出雲王国は銅器祭祀をやめ、王の墳墓を積極的に造るようになっていきました。

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