
出雲市知井宮町に「智伊神社」(ちいじんじゃ)があります。

当地は西出雲王家「神門臣家」の領地内にありながら、他の出雲系神社とは異質な雰囲気を持っています。

『出雲風土記』にある「知乃社」に比定されるという当社、

御祭神は「高皇産霊神」です。

古来、出雲大社と関連があり、大社の神宝保管の役を務め、大社遷宮の時は古材が下附されたと云います。

早朝に訪れましたが、地元の方数人が参拝に訪れていました。

境内もきれいに掃き清められ、地元民の崇敬厚い聖地であることがわかります。

社紋も独特です。

富家の伝承では、ここは元、神門臣家の宮殿があった場所のようです。
東征軍の将軍の一人である宇佐家出身の「菟上王」は、焼けた宮殿跡に九州式の建物を建てて、占領軍として滞在したと云います。

神門臣家の振根は北の王宮跡に残って奮戦した、とありますので、振根が戦死したのが当地かもしれません。

ただし、「当社は往古、現在地の東北1.5キロ、字東原の多門院に隣接する地にあり」と記され、やや北の地から遷宮されたようです。

御祭神も、宇佐家が祀ったなら、それは「豊玉姫」であったろうと思われましたが、彼女の存在は後の権力者に隠されていますので、当社も物部の祖母神に変えられたのだと思います。

境内にはいくつかの摂社がありましたが、

その一角の稲荷社だけは近寄りがたい雰囲気を醸し出していました。

narisawa110
他のところでも書きました招魂社の奥の石の祠の「龍鱗枠に大」の刻印は大元神社なんでしょうね、きっと。
なるほど🤔
本日参拝しました。
拝殿右手の山道を登っていくと、名前の書かれていない社と石祠があり、扉を失礼すると『大山祇神』と書かれたお札がありました。
境内を掃除していたおばさまに聞いてみると大山さんだとのこと。お社はもちろん大山方面を向いています。
ここにも太陽崇拝の証が残っていることを確認でき、なんだか嬉しくなりました。
出雲族の痕跡が残っているんですね。
すばらしい!
確か、私の気が確かならwここには大社の鍵を受け取る神事が行われていた場所で、別火家の投影が感じられる神社だったと記憶しています。
他にも大社社宝を管理するお役目があったとも。
大社の古材を下賜されるということは、本来の意味がある千木は失われているという事なのでしょうね。
智伊神社は出雲でも特異な雰囲気のある社だと感じました。それが豊系であるか、と言われれば、それとも若干違っているような。
長い年月のうちに、いろいろ混ざっているのではないでしょうか。
narisawaさんの気は確かでしょう(笑)
narisawa110
古墳ハウスの所に置いてあった伊勢と出雲という本ですが48、49ページに
出雲地域の氏族構成について(出雲風土記の研究3 神門水海北辺の研究)で、天平期(700年代)の出雲部の姓の分布図があります。
日下部(日下部臣、日下部首含む)
「古志郷(足幡里、山田里)」、出雲郡、川内郡(大麻里、某里)、出雲郷(朝妻里、多級里)、建部郡波如里、漆治郷工田里、秋鹿郡
吉備部(吉備部臣、吉備部君含む)
古志郷(足幡里、城村里)、多岐郷(山田里、国村里)、滑狭郷(池井里)、日置郷(田里、桑市里、任原里)、朝山郷(加夜里、稗原里)、河内郷(伊那美里、某里)、建部郷某里、漆治郷(犬上里、工田里)
吉備との習合したという説は説得力がある
確かにサホ系の人も出雲に来ている
他
私的考察・凡治部とはホムジワケか?
海部はあるが安曇は無い
物部も分布が多い
隠岐島と共通する部民姓名は以下のとおり
勝部、生部、日下部、物部、田部、海部、額田部、磯部、私部土師部
語り部は、滑狭郷、伊秩郷、狭結駅、漆治郷、出雲郷、建部郷に居たようです。