
古代出雲の製鉄の神は金山彦神であったが、物部式精錬は屋内炉であったので、「金屋子神」と呼ばれた。
伝説では、「むかし鷺(さぎ)が月から、桂(かつら)の枝をくわえて来た。その枝に金屋子神(金山彦ではない)が乗っていた」と。
すなわち金屋子神が、新しい製鉄法を教えてくれた、ことになる。
この話の「月」というのは、3世紀のいわゆるヒミコの字佐・物部連合の東征で、宇佐の「月の女神」を奉じて九州勢が出雲に攻めて来た、ことを指している。
宇佐神官は古くは、「月の女神」を祭っていた。
そして月に住むウサギの名前により、ウサ神宮という名前が出来た。
またウ「サギ」のサギから、「サギに乗り、金屋子神が来た」話になった。
「月には、桂が生えている」との中国の話から、「金屋子神が桂の枝に乗って来た」と表現され、桂の木を「金屋」の横に植えて拝み始めたらしい。
ー大元出版 谷日佐彦 著『事代主の伊豆建国』


奥出雲たたらの聖地。

シズさんの勧めで、モモさんと僕の3人は、1200社を数える金屋子社の総本社、島根県安来市広瀬町西比田鎮座の「金屋子神社」(かなやごじんじゃ)へとやって来ました。

金屋子神社の参道横には、各地より奉納された鉧(けら)が置かれていました。

鉧とは、たたらで生成される鉄の塊のことです。
たたら一代(ひとよ/一操業)で使われる砂鉄は13t、木炭13.5tとなりますが、そこから採れる鉧は2.5tほどであり、さらに良質の「玉鋼」(たまはがね)となるのは約1tだけだということです。

境内の池の中に、小さな社がありました。
よくある弁天社かと思いきや、「金儲神社」(かねもちじんじゃ)だと案内にありました。

金儲けと書いて金持ち、“呼ばれなくても押しかけたい”名前の神社ですが、昭和の初めに金屋子神社の宮司に育てられた方が大成し、その報恩のため寄進した社だと書いてあります。

「”金”屋子神社の”信者”」で「金儲」、なるほどね!

祭神は金屋子神社と同じだということですが、社の下には白蛇が祀られていました。
白蛇は金運の象徴ともされますが、やはり弁天社を兼ねているのかもしれません。

金屋子神社は数度の火災に遭っており、文献その他ほとんどの資料が焼失してしまったとのことです。
なので創建、由来は不詳となっていますが、金屋子神社に伝わる『金屋子祭文雲州比田ノ伝』には、次のように記されていました。

“”その昔、日照りが続き、村人が雨乞いをしていたところ、雨と共に、播磨国岩鍋(兵庫県千草町岩野辺)に天降る神がいた。
「吾は金(鉄)作りの金屋子神である。今よりあらゆる金器を作り、悪魔降伏、民安全、五穀豊饒のことを教えよう」
金屋子神はそう言うと、盤石をもって鍋を作った。故にこの地を岩鍋という。

しかしそこには、住み給うべき山がなかった。そこで、
「吾は西方を司る神なれば、西方に赴かん」
と言って、白鷺に乗って西国に赴いた。
金屋子神が出雲の国能義郡黒田奥比田の山林に着き、桂の木に羽を休めていたところ、たまたま狩りに出ていた安部正重(宮司の祖先)が発見し、やがて神託により、長田兵部朝日長者なる者が宮居を建立し、神主に正重を任じ、神は自ら村下(むらげ/技師長)となって、朝日長者の集めた炭と粉鉄(砂鉄)を吹けば、神通力の致すところ、鉄の涌くこと限りなし””ということです。

天明4年(1784年)に、伯耆国(鳥取県)日野郡の鉄鉱山を営んだ下原重仲により書かれた『鉄山秘書』「金屋子神祭文」にも同様のことが書かれています。
しかし、「たたら御三家」の一つ田部家が創建した雲南市吉田町木ノ下の金屋子神社の縁起『金屋子神略記』によれば、金山姫命が奥州信夫(しのぶ、福島市)の山家に現れ黄金を吹き出し、次に吉備国中山細谷(岡山市)に鈩(たたら)を建てた後、雲州比田庄葛城の森に光を放って現れ、安部氏に製鉄技術を教えたと伝えられています。
(白栁恋季:山陰山陽地方鉄の神信仰の地域的展開:地名と伝承・神社文献を通じて)

『金屋神略記』は本社である西比田の金屋子神社の縁起を書写して納めたとされており、木ノ下金屋子神社の延宝9年(1681年)の棟札にもそのことが記述されているようです。
さらにその原型となったのは『金山姫宮縁記』であり、『鉄山秘書』(鉄山必要記事)の金屋子神降臨譚は、「和鋼」の名付け親である俵國一が明治45年に公表するまで、世に知られていなかったということです。



金屋子神社の祭神は、「金山彦神」(かなやまひこのかみ)、「金山姫神」(かなやまひめのかみ)とされ、ほか15柱を祀り、古来タタラ製鉄七守護神として知られています。

安政5年(1858年)の祭礼の日に、火災のため社殿は焼失。
現在の社殿はその後に建立されたものですが、造りは壮麗で、彫刻もまことに優美です。(県指定文化財)

金屋子神社の拝殿は、普段は閉ざされていることが多いようですが、この日はたまたま社殿内でお勤めをされていた宮司さんから、シズさんのご縁もあって昇殿参拝させていただき、お話も伺わせていただきました。

拝殿内はとても荘厳で、神の威厳を感じる造りでした。
宮司さんに紹介いただいた、拝殿内にある大きなケヤキの一枚戸には、見事な龍が彫刻されており、これは荒川亀斉(あらかわきさい)の作だということでした。

金屋子神社は諸国に分祠が作られ、鍛冶鋳物師らはその職場に必ず金屋子神を勧請し、本社の祭礼(4月21日)には遠近にかかわらずこの地に足を運んだといわれます。
現在でも製鉄・冶金関係者らの参拝は多く、トヨタの前身でもある「豊田自動織機」は当社より金屋子神を勧請、現在も本社工場内に「豊永神社」として鎮座しています。

当社祭神は金山彦・金山姫となっていますが、宮司さんによれば「金屋子神」は女神であると伝えられているとのこと。
たたら場が女人禁制とされたのは、女神が嫉妬するからと一般には言われていますが、その真意は、職人たちが女性に気を取られて仕事を失敗しないように、という意図があったようです。
確かにジブリ映画の『もののけ姫』でも、タタラを踏む女衆らは、ずいぶんとはだけていた印象です。
僕がそんな職場にいたら、間違いなく大やけどを負っていたはず。色んな意味で。
また拝殿内には、金屋子神が白狐に乗った絵図が数枚掛けられていました。
これは明らかに、ダキニ天の絵図と同じ構図ですが、鉄を陰陽五行で表すと「白」になるため、このように描き表されることになったのだろうということです。
鉄と稲作には深いつながりがあったので、穀物神と製鉄神の姿が重なったのかもしれません。

大元出版の谷日佐彦氏の『事代主の伊豆建国』によると、古代出雲の製鉄は露天タタラであったので、その神を「金山彦」と呼んだとあります。
それに対し物部式の精錬は、屋内に長方型の炉を土で築き、その高熱で精錬を行ったため、彼らの神は「金屋子神」と呼ばれました。
つまり金山神と金屋子神は、別の神であるということになります。

『金屋子祭文』では、金屋子神がは宮司家の祖先・安部正重に製鉄技術を伝え、金屋子神は村下(むらげ/技師長)となって製鉄の指導に携わったと記されていました。
金屋子神の伝説では、「むかし鷺(さぎ)が月から、桂(かつら)の枝をくわえて来た。その枝に金屋子神(金山彦ではない)が乗っていた」と語られます。
この話の「月」というのは、3世紀のいわゆるヒミコの字佐・物部連合の東征で、宇佐の「月の女神」を奉じて九州勢が出雲に攻めて来た、ことを指している、と谷日佐彦氏はいいます。
宇佐神官は古くは、「月の女神」を祭っており、月に住むウサギの名前により、ウサ神宮という名前が出来ました。
そのウ・サギのサギから、「サギに乗り、金屋子神が来た」話になったということです。
すなわち”金屋子神族が奥出雲にやって来て、新しい製鉄法を教えてくれた”ことに通じるのです。

金屋子神の来訪は、自然の風を利用する露天タタラから、フイゴ(鞴)を使って人工的に風を送り、より高い熱を使って製鉄する屋内式のタタラに進化したことを示しています。
革の袋を板で挟んだフイゴを鉄師が踏み、炉の火口から強風を吹き込んで製鉄しました。
この踏みタタラ方式により、製鉄の量がふえ、武具と農具の優位性をもたらし、国をさらに発展させたということです。

『鉄山秘書』に「砂鉄7里に炭3里」という言葉があり、これは「1年で砂鉄が7里先まで採集され、炭の原料である森林資源は3里先まで伐採される」ということを意味しています。
製鉄は資源を枯渇させる一面があるため、日本では古墳時代以後は、朝鮮半島から鉄板を輸入することが多くなりました。
韓国では木炭を作り過ぎて、枯れ山が多くなった、と言われています。

金屋子神社の両端に斐伊川と日野川があり、これは製鉄を意味する「火の川」が由来だと、神社の宮司さんは話されます。
内地と島根半島をつなぐ出雲平野と米子平野、弓ヶ浜は、この二つの川の上流で行われた、タタラ製鉄のための砂鉄採取が生み出した一面もあるとのこと。
砂鉄採取のために切り出した土砂が川を流れ、河口に堆積していったのです。
また、砂鉄には二酸化チタンの含有量が多い「赤目砂鉄」(あこめさてつ)と、タタラで鉧及び鋼を得られる「真砂砂鉄」(まささてつ)の2種類があります。
赤目砂鉄は、山陽側から九州にかけての広範囲で採取されますが、真砂砂鉄は山陰側の一部からしか採れません。
ドラヴィダ族が出雲に定住し、そこから南下しなかったのは、そのことを知っていたということなのかもしれません。

金屋子神社の神紋は「井桁に橘」となっています。

橘紋は一般に黄色い”実”を表していると言われますが、これを”花”と見た場合、橘の花の色は鉄を意味する「白」となります。
金屋子神社の神紋は、鉄と水(川)の深い関わりを表していました。



金屋子神社の裏手を500mほど登った先に、奥宮があるというのでやって来ました。
歩いても行ける距離ですが、ブインと車でも来ることができます。

そこは山の谷間に造られた聖域。

奥宮の詳細についても、火災により古文書などを焼失しているため不明となっています。
棟札のみが残っており、そこにはかつて「雄瀧・雌瀧」の二瀑布があったことが記されているとのことです。

積み上げられたものか、自然のものか、高さ数mの巨大な岩塊の上に、小さな社殿が建っています。

物部氏は北九州で大型の銅矛を多量に作ったことが知られていますが、これはフイゴを使った屋内式足踏みタタラで作られました。
その技術が第1次物部東征で大和に伝わり、大和では銅鐸が作られ、宇佐・物部連合軍の第2次東征で、その技術は出雲にも伝わり、出雲型銅剣の製作が盛んになったといいます。
それは3日3晩続く過酷な労働で、足を悪くする者が出ました。
また高温の炉の火を視つめ続けるので、隻眼者が出たともいいます。
それゆえ屋内タタラの守り神を、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と呼ぶこともあった、とのこと。

金屋子神は、古来の出雲族のタタラの神「金山彦」とは別の神と考えられますが、物部系の神というよりは、伝承に「月」に関わる要素が見えるため、物部と共に出雲入りをした豊系の神の要素が大きいと思われます。
ゆえに金屋子神は女神なのか。
金屋子神とは、豊玉姫を製鉄神として祀ったものなのかもしれません。

金屋子神社奥宮の隣には、金屋子神が降り立ったという桂の木が、偶然かもしれませんが生えていました。
古代支那国では、桂を「月に生える木」(月桂)として信じられていました。
だた、伝説の元となったこの木は、モクセイ(木犀)を指し、日本でいう桂の木とは別のものになります。
中秋の名月の頃に、金木犀が甘い香りの花を咲かせたので、月との関連が連想されたのだと思われます。

平安時代の日本の貴族たちは、中国の故事に倣って「月には桂の木がある」というイメージを文学や和歌に取り入れました。
「月の光」や「月そのもの」の美しい比喩として「桂の影」という言葉も使われています。
京の都に名月を愛でる日本庭園がありますが、それは「桂離宮」と名付けられました。

この金屋子神社奥宮はとても厳かで、美しい場所でした。
やがてモモさんが笛を吹き、シズさんが祝詞の奏上を始めます。
僕も合わせて頭を下げるのですが、桂の木の奥にある割れ目のある岩が、どうしても気になります。
あれは女神の岩なんじゃないか、そう思ってカメラを向けた時・・・えっ?
・・・モモさんがいうには、
ズザザザザザ…っと
いい音を立てながら
斜面を滑り落ちて行って…
・・・世の中には不思議なこともあるもので、確かに岩塊の上の社殿の前に立っていたはずの僕は、瞬時にして岩塊下までワープしていたのです。

金屋子神は、自分あるいは部下の村下が、麻につまづいて転んで死んでしまったので、麻を嫌っていると噂されています。
また、犬に追われた時、蔦に取り付いて登って逃れようとしたが、蔦が切れて落ち、犬に咬まれて死んだので、犬と蔦も大嫌いなのだと。
金屋子の姫君はおっちょこちょいだなぁ、なんて思っていましたが、

「そんなわらわの屈辱を、おぬしも追体験せよ」
とでも仰せなのか、僕の知る限り、女神というものは押し並べてツンデレであり、こういったお遊びに付き合わされることはよくあるものです。
まあ、彼女にとってはお遊びでも、こっちとしては毎回、まあまあな恐怖ではあるのですが。

ともあれ、幸いすり傷もなく、再び僕が岩上へと戻ると、シズさんとモモさんは爆笑していました。
あんなにデンジャラスな
イザナミさんの岩穴の時に
一度も滑らなかったのに、
そこで滑るの~!?
と。ごもっとも。

製鉄というのも実にツンデレなもので、製鉄には「一炉で一山」といわれるほどに大量の木炭が必要で、流域の木が伐採されて山が荒れ、土砂が流出し、河川の洪水・農地の荒廃・離村といったパターンになりやすく、それは昔も同じであったといいます。
しかし砂鉄採取で流れた土砂が新たな平地を作り、やがてそこで新たな稲作も行われるようになりました。
江戸期では「鉄穴流し」(かんなながし)という大規模に山を切り崩して砂鉄を採取する方法が取られました。
タタラ製鉄が荒廃すると、切り崩し流された広大な跡地は、稲田へと姿を変えました。
そうして奥出雲では、「西の魚沼」とも称される「仁多米」(にたまい)が生まれることになったのです。

やれやれ、ここから落ちたのか。
Anotherなら・・・ヤバかった。。

どんまい。

ともあれ、シズさんモモさん、それに金屋子の女神の大笑いを受ける羽目になった五条桐彦でしたが、『奥出雲”変態”巡礼』初日の締めくくりとしては、面目躍如というところでしたよね。たぶん。


富山や福井の歴史博物資料館を調べてみると、藤蔓に関しては、柴田勝家などの戦国時代の資料ですけど、
面白いとこで登場していました。
あと、テレビの歴史探偵とか、あとは歴史家磯田さんの番組とかでも出てたような気がしますが。。
(これだから福井とか富山好き、福井もう一度行きたい〜)
「舟橋」
これは、九頭竜川やら神通川やらたくさんの川。福井から大和へ向かうには渡らねばいけません。
そこで、柴田勝家は
鎖で何隻もの船を繋ぎ、藤蔓巻き、川に舟橋をかけて進軍していた資料が残されています。
万能な藤蔓ですが、鉄製である鎖や鉄器とともに使用されることは、実は古代からだったというのです。
なので、藤蔓と鉄は
甲乙つけがたい武器?というよりも
工具だった、ということも言えますね。
諏訪の伝承も、奥が深いものかもしれません。
藤蔓、あれからちょいちょい気になり、気になり始めると、見る本、探す博物館、テレビで
藤蔓、藤蔓と出てきます。
まるでアンテナとテレパシーみたい(笑)
それは藤蔓病ですね。
お医者様にも治せないという・・・
藤蔓病💦
なっなんでバレた(^_^;)
ちよっと前は葛根病でした
ほんと万能。頭痛、筋肉痛だけでなく、ホルモンバランスも整う。ツムラさんが葛根湯のナンバーを1にしてるということは、葛根から始まるからでしょう。
松江にね、ハーブクリニックがありましてん、きちんと調合してくれるのですよ
ほんでね
ほんでね
藤蔓〜♬
釣藤散(ちょうとうさん)ちゅうのめっけましたん(≧▽≦)
同じく藤蔓で防已(ボウイ)ちゃうのもありましてん。
中年以降や高血圧傾向、慢性的な頭痛、めまい、肩こり、イライラなどを改善します。気の高ぶりや頭部の熱感を静める働きがあるらしくて〜
眠れぬ夏の夜、ネットサーフィンしたり仕事のストレスとか、寝付けないときによいらしく。
藤蔓病には藤蔓で治すんです〜
これほんとの話。
松江にハーブクリニック🌿があるんです。コレステロールが高くなり続けてて、通ってるんですけどよかと。
ん?
「と」の遣い方あってます?
たたら製鉄の運搬具にも藤蔓、藤ツルは使われていたのてすね。祭祀やもちろん機織りの材料でご神衣にも。。
富山大学の調査で気になることが。
以下コピペ
「藤のツルは、古代の製鉄技術である「鉄穴流し(かんなながし)」においても必須の道具でした。大量の砂鉄を水で洗い流して採取する際、藤のツルで編んだザルが使われていました。金属を扱う技術は、古代においては神聖な祭祀や呪術と不可分であり、藤のツルは「自然の恵み」と「金属(権力)」をつなぐ神聖なアイテムとして扱われていた背景があります」
恐らくですが、藤蔓には祭祀の際にトランス状態にするような幻覚作用があったと思われます。。
藤蔓に幻覚作用があったかは定かではありませんが、万能アイテムだったようですね。
narisawa110
あるぇ?
そうしますと諏訪の鉄の輪と藤の蔓は、戦ったのではなく習合を表す様にも受け取れますね。
そうなのかもですね。
でもそうだと、あえて争ったように見せかけたのにはどういった意図があったのでしょう。
朝廷には不仲に見せかけて、実はよろしくやっていた、というやつですかね🤭
藤蔓は、権力(金属)と自然の営みを繋ぐ重要アイテム。。だったとすると、
祭祀的要素が色濃く、権力や武力だけではご神意はお導きにならないということから、それを繋ぐ存在として何かシャーマン的存在?がいても不思議ではない気が。。
沼河姫の血をひく建御名方の武器は藤蔓だった、という例えはなんだったのでしょうね。
narisawa110
あるぇ?少し混乱してきました。
確か銅剣の埋納は、フトニの第一次出雲戦争の後で、その時には九州の銅剣か、銅矛を参考にした出雲式の中細型銅剣が存在してませんでしたっけ。
第二次物部東征後では、古墳時代になり墳墓から鏡以外の既存の青銅器は出ないことから、銅鐸廃棄は戦後処理と関係があると考えていました。
つまり三角縁神獣鏡は、負けた側の鏡です。
これが継続して作る事が許され、豪族が没収を免れる事が出来たのは、鉄器の方が重要性が増したのと、錫を加えて硬く脆くする事によって、銅鐸が作れなくなるからだと考えています。
つまり、武装解除と服属儀礼の表れではないかと妄想しています。
出雲で三角縁神獣鏡が出土が少ないのは、青銅材料の隠蔽がうまくいき、残りのそれは吉備国に奪われたからだと思っていました。
「その技術が第1次物部東征で大和に伝わり、大和では銅鐸が作られ、宇佐・物部連合軍の第2次東征で、その技術は出雲にも伝わり、出雲型銅剣の製作が盛んになった」
この一文ですよね。金屋子神社に関しては『事代主の伊豆建国』を参考にしていますが、時代的に矛盾があるのではないかと、僕も考えました。
この矛盾の解決案としては、
・出雲型銅剣の製作が盛んになったのは確かに第二次東征後だが、それ以前からも一定数、露天タタラで作られていた。
・第二次物部東征後でも出雲型銅剣は需要があり制作された。建部もありますので、東征後も銅剣は需要があったと思われます。
また、金屋子神信仰と屋内タタラ技術は、第二次物部東征よりも早い段階で、豊国方面から伝わっていた可能性もあるかもしれません。
narisawa様も五条様もその辺り引っ掛かってらっしゃいましたか…
3世紀前半以前に出雲型製造が存在し、また東征後も「埋められ・消され」と限らず継承されていた可能性もと🤔
豊国の信仰や技術はいつ頃からか… 面白くなってきました。
銅剣、銅矛は武器としても使用されましたが、銅剣には祭祀器としても重要な役割があったのでしょうね。
三種の神器に剣があるのも、そういうことかと。
吹子を使ったタタラが作られ、大量生産が可能になったのでしょうね。
あと、「金子」は「金屋子」から来たのかもしれませんね。
やばい・・核心突っ込まれました💦 武具でない祭祀具なら錫入っていても構いませんし。
何処にも書いていない話でしたが、金屋子→金子説は本当にあります。確証が取れないだけで…
物部となった金子一族が護ってきたものは、時代とともに変遷しますが、恐らく銅→鉄→そして石見銀山守護者。全て金属という流れが想像できます。 🍑さまのブログには先月コメントさせていただきましたが、10年弱前に縄久利神社・鼻繰社・金屋子社さん全て訪問して、不思議な縁を感じていたものです。 やっぱり何かあるなぁ😅
narisawa110
実はですね、青銅製品の埋納時期に関しては谷戸先生も違う事を書いていたはずです。(確かもっと古い時期を当ててらっしゃいました)
また、別のところに過去に平型銅剣の事を書きましたが、初期の平型銅剣はフトニの時代の前からの物です。(確か、第一期から第三期までの編年であった様に記憶しています)
つまり吉備は伝承本で山陽が出雲領であったとされる時から平型銅剣のエリアだったのです。
ttps://online.bunka.go.jp/heritages/detail/592559
(前1世紀〜後1世紀。2世紀より前)
後期型の成立が平型銅剣の完成期(弥生時代後期・1世紀〜3世紀)とされています。
これは伝承通りと思われます。
ただ、途中で出雲のシンボルが銅鐸から銅剣になったと伝承本にはあります。
一応は中細型cから発展したというのが平型銅剣になりますが、そうすると出雲の銅剣は存在そのものはうんと古いものになるのかもしれません。
引用
従来の分類では「中細形銅剣」のc類に位置づけられ、弥生時代中期の終末期(紀元前後頃)に出雲地方で製作・埋納されたと考えられています。
九州においては青銅器全てが存在していたと思われますが、この引用が正しいとすれば吉備津彦の出雲侵攻と時代がずれる事になりますね。
出雲はいつ銅剣祭祀に変わったのでしょう。
黒曜石、銅剣、鉄剣が同時に存在した時期は、思いの外長かったのかもしれないですね。
生活の必需品ですから。
銅鐸の埋納自体は、古い習慣としてあったのかもしれないですね。大規模なのが、第一次出雲戦争のときだった、ということで。
narisawa110
日本最古の今の所の出土例はなんと弥生時代後期、つまり徐福時代になります。
ttps://www.kanamonoya.co.jp/monohp/huigo/0003.htm
滋賀県。
意外に羽口の出土例は九州は少ないんです。
恐らく金屋子(イザナギ、イザナミの孫)は、鍛治技能ではないかと思います。
原始の鉄は酸化鉄や湖沼鉄と考えられていますが、筑紫エリアだけ、原初の鉄の技能がなかった地域のはずです。
かわりに輸入鉄を鍛える事で、錬鉄から鍛鉄へ移行したと考えられます。
ただし、ヤマトより古い時代の遺跡である、さごっさかいと遺跡にある様に、鉄の革新は朝鮮半島、ヒボコ族にあると考えられます。
鉄の輸入は景初より先行して超大量に輸入された形跡が窺えるようです。
もう卑弥呼の時代はやる気満々だった訳ですね。
以前、アシュラさんという方に阿蘇方面を案内していただいた時、磁石を川に沈めるだけで大量の砂鉄を採ることができる川を教えていただきました。
アシュラさんの資料では、弥生時代の遺跡からの鉄器出土数が最多なのは、福岡と熊本だということでした。
九州は赤目砂鉄になるので、鉄にするための脱炭の工程がもう一段階必要となります。なので、より効率の良いフイゴタタラの技術が生まれたのかもしれません。
もちろん、輸入鉄も多かったと思われます。
https://omouhana.com/2025/04/06/一関八坂神社:常世ニ降ル花%E3%80%80神門如月篇%E3%80%8020/
narisawa110
ふっふ。赤目砂鉄、これ重要でありまして、かつては大阪湾は血の海と言われるほど湖沼鉄がとれましたが、実はまともな鉄にするには転換炉などが必要なんです。
つまり鋼に近い鉄が手っ取り早く取れたのが朝鮮半島の磁鉄鉱なんです。
そこに大陸の国が滅んだ事により精錬方法(還元や脱炭だっけな)が流出しました。
素材と精錬方法のこの二つにより飛躍的な進歩となりました。
九州アタ族の領域から瀬戸内海では湖沼鉄のエリアであった様です。
筑紫一族は渡来組であったので、山や川を持ってなかったんじゃないでしょうか。
諏訪でも鉄は取れた様ですが、草の根に着く湖沼鉄です。
吹子祭りの行われる南宮大社でも元は諏訪という伝承でしたっけ。
つまり鏃ではなく闘いに使える古墳に入れても残る実用鉄器は邪馬台国時代に急激に大量に作られますが、素材の生産は朝鮮半島です。(それゆえ禿山になった)
製鉄と鍛治が違うのがこの点です。
ごっさかいと遺跡は出雲伝承を想起させる淡路の鉄遺跡で、ヤマトにまともな量の鉄ができる前、第二次物部東征よりも前の遺跡ですが、製鉄炉は見つかっていません。
ただ、九州式のかえしのついた釣り針が出ていたと記憶しています。
物部氏は古くからヒボコ族を通じて鉄を入手していた可能性があります。これが後にヒボコ族が須佐族に食い込めた理由かと思われます。
第一次物部東征はそれゆえの共同作戦だったんじゃないかと。
吉備族が播磨のヒボコ族をボコボコした時に良質の鉄に触れた可能性があるんじゃないでしょうか。
邪馬台国時代を過ぎると鉄器の生産量が日本一になるのが丹後のエリアでした。
継体期まで、物部氏は半島に鉄の権益をもってたんしゃないかなーと思っています。
褐色鉄と磁鉄鉱じゃまるで勝負ににならなかったのでしょう。
素戔嗚は一度半島に寄り、その後に日本に来てますからね。
仁多米が
「西の魚沼」と呼ばれてるの、
毎日のように食べてるのに知らなかったです
仁田米を毎日食べられるなんて、羨ましい😋
金屋子さんの奥宮、大好きです。
素敵な場所。上がってここで両手を広げるとす〜っとします。
しかし、まさかここで滑るとは(^_^;)💦 足場は上は狭いっちゃあ狭いですが。。大事に至らずよかったです。
ハードな道のりでないと却って
ちょっと油断しちゃうのが変態さんの証かもしれませんね( ̄ー ̄)ニヤリ
過去にもあり得ないところで落っこちたことが何度かありましてね💦
幸い今日まで怪我がないのですが、いい加減気をつけないといけません🥺