二田物部神社

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兼ねてよりnarisawaさんに勧められていた、新潟県柏崎市西山町二田に鎮座する「二田物部神社」(ふただもののべじんじゃ)を参拝して来ました、YO☆

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当社祭神は「二田天物部命」(ふたたのあめのもののべのみこと)で、明治40年(1907年)に合祀された若宮神社の祭神「物部稚桜命」(もののべちざくらのみこと)と諏訪神社の祭神「健御名方命」(たけみなかたのみこと)を配祀しています。

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物部稚桜は二田天物部の十二世孫に当たるとされています。

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当社社伝『二田宮伝記』によると、祭神の二田天物部命は、天香語山命(あめのかごやまのみこと)に従って天鳥船に乗り、高志国(越国)の天瀬(尼瀬)に降臨したといいます。
その後、石地で香語山と別れ、その地で稲作を広めた。すると多岐佐加の二田を献上する者があり、そこに住んだので、その地を二田という、とのことです。

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二田天物部命は亡くなったあと、二田の土生田(はにゅうだ)の高陵に葬られました。
崇神大君の治世に物部稚櫻に神託があり、 物部神社を石地磯より南大崎に遷座。
その後、二田亀岡山中腹、土生田岡、亀岡山頂、亀岡山麓へ遷座された、とのことです。

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これを少し整理してみると、天香語山命と二田天物部命が上陸したという天瀬は、出雲崎のあたりになります。
二人は石地に移り、そこで別れて香語山は彌彦に移って祭神となった、とされています。
二田天物部命は石地で稲作を広め、多岐神社のあるあたりまでを所領し、その地を二田とした、ということです。
これは、出雲崎石井神社や、西山町の御島石部神社に伝わる出雲大神の伝承に通じるものがあります。
御島石部神社の伝承で、出雲大神を出迎えた「二田彦」と「石部彦」という人物がいましたが、この二田彦が二田天物部命、石部彦(石井彦)が天香語山命である、ということはあり得ないでしょうか。
さらにいうなら、彼らは表向きは物部族・海部族を象徴していますが、実は本来は出雲系の一族であった可能性は、はないのでしょうか。

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祭神の十二世の孫という物部稚櫻は、物部イニエ王(崇神大君)の時代、つまり第1次物部東征と第2次物部東征の間の頃に、神託によって 物部神社を石地磯より南大崎に遷したとあります。
ということは、二田物部神社は、元々は西山町の御島石部神社、あるいは石井神社だったのかもしれません。

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余談ではありますが、物部稚櫻を検索すると、「物部長真胆」(もののべ の ながまい)という人物が出て来ます。

『日本書紀』「巻第十二」
17代履中大君は3年の冬、磐余市磯池で船を浮かべて遊宴し、「膳臣余磯」(かしわでのおみあれし)が酒を献じた時、盃に季節外れの桜の花びらがひらひらと落ちてきた。大君は不思議に思い、長真胆に命じた。

「是の花、非時(ときじく)にして来れり。其れ何処の花ならむ。汝、自ら求むべし」
(この花は咲くべきでないときに散ってきた。どこの花であろうか。そなた、探してきてくれぬか)

これを受けて長真胆は花を探し、「掖上室山」(わきのかみのむろのやま)で桜の木を見つけ、献上した。
大君は喜んで、宮の名前を「磐余稚櫻宮」(いわれのわかさくらのみや)と命名し、長真胆に「稚櫻部造」(わかさくらべのみやつこ)の氏姓を与え、膳臣余磯の名も「稚櫻部臣」(わかさくらべのおみ)とした。

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『新撰姓氏録』をみてみると、

①若櫻部朝臣:阿倍朝臣同氏、大彦命孫、伊波我加利命の後
②若櫻部造:出雲色男命の後
③若櫻部造:饒速日命十世孫、止智尼大連の後

の3系統が記されており、①の大彦・阿倍系若桜部氏と、②③の物部系若桜部氏がある、ということになるようです。
つまり稚桜部氏には、大彦系と物部(越智)系があるようです。

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香語山神と物部神について、石見一宮の物部神社にも、似た由緒が伝わっていました。

祭神である「宇摩志麻遅命」(うましまぢのみこと)は、天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定し、天香語山命は新潟県の彌彦神社に鎮座した。
祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎し、安の国とした。

しかし、ニ田物部神社由緒では、物部神は当地の土生田で亡くなっており、流れとしてもそれが自然なので、石見一宮の物部神社はやはり、第2次物部東征で佐比売山を奉斎する神社が物部化したものと考えた方が違和感がありません。

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二田天物部命については、『先代旧事本紀』では、饒速日(にぎはやひ)の天降りに供奉した「天物部等二十五部人」の一とされ、『新撰姓氏録』でも同様のことが記されています。
物部稚櫻を物部イニエ王(崇神大君)の頃より十二世分の時代を遡ると、祭神が生きていた頃は”徐福(饒速日)渡来”前後となり、二田天物部命と物部稚櫻の関係は一応の辻褄を得ます。
また、『先代旧事本紀』では天香語山を「高倉下」(たかくらじ)と同神としていますが、『ホツマツタヱ』ではこれを「タカクラシタ」として同様のことが記載されているそうです。

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二田物部神社の由緒にある天香語山命が”高倉下”にゆかりのある人物であるとするならば、時代はちょうど第1次物部東征と第2次物部東征の間くらい、ということになろうかと思われます。
ならば、祭神の十二世の孫という物部稚櫻こそが、高倉下系の一族と共にやって来た二田天物部命、本人ではなかろうか、とも考えられます。

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また、岩の掛橋で出迎えた”という二田彦が二田天物部命を奉じる者、石部彦(石井彦)が天香語山命を奉じる者だったとしたら、全体としての辻褄が合ってくるような気がしています。

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nari氏が二田物部神社の宮司家「三島家」の方とお話しされたところでは、三島家はかつて「越智氏」とも称していた、とのことです。
そして当地区で一番古い神社が、少し北寄りの多岐神社なのだと。
二田天物部命が二田を献上された「多岐佐加」の地というのが、この辺りではないでしょうか。
また、nari情報では、彌彦神社の宮司家「山本家」にも、越智姓の系統があるということです。

”小市国造家の祖から、越智郡大領の越智玉興より、三代目で三島家と越智宿禰に分かれますが、その三島家が居たところが、何と「高橋郷」と言う場所だったようです。
その分かれたあとその孫の代で4つの家に分かれますが、そのうちの一つが一時的に山本家を名乗り直ぐに高橋家にかわります。鎌倉時代には関東御家人になります”

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二田天物部神の古い聖地が多岐神社なのだと仮定すると、ふと思うところがあります。
多岐神社の祭神は、多岐津姫なのか、多岐津彦なのか、ということです。
多岐津彦は、大国主と多岐津姫の息子・アジスキタカ彦の息子なのですが、母親は楯縫郡の御梶姫だとされます。
楯縫郡は島根半島側の西部を指しますが、半島側は古くは、四国系の一族が支配していたのではないか、と僕は考えています。
御梶姫は越智族の姫ではなかったか。
そして伊予国(愛媛)にある”多伎神社”は、越智氏由来の神社でした。
さらには、先日入手した大元出版の初期の本、斎木雲州著の『お伽話とモデル』に次のように書かれていました。

”『播磨風土記』に、「伊和(岩)ノ大神(大穴持)の御子である伊勢津彦」の言葉がある。すなわち、神門家(出雲の二王家の一つ)のタギシミミ(多岐志耳・アジスキタカ彦の子)が伊勢国に移住し、かれは伊勢国の大豪族となり、伊勢津彦と呼ばれた”

つまり、二田天物部神とは、多岐津彦(タギシミミ)が伊勢津彦として北上した神なのではないでしょうか。

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出雲を出た多岐津彦は、クシヒカタを慕って大和の葛城地方へ移住しました。
葛城は第二の出雲王国となるはずでしたが、そこへ武装した丹波の海家・村雲の一族がやって来ます。

『古事記』に、次のような話が書かれています。
初代の大君(村雲)が没した後に、葛城に住むタギシミミが大王の后・伊須気依姫を娶ろうとした。
姫は悩んで、歌を詠んだ。

「狭井川よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす…」

それを聞いた后の御子・神八井耳と沼河耳は、驚いてタギシミミを討つ用意をした。
沼河耳は兄・神八井耳に、「武器を使って、タギシミミを殺したまえ」と言った。
兄は手足が震えて、殺すことができなかった。
弟は兄の武器をもらい受け、部屋に押し入リタギシミミを殺した。
…神八井耳は弟に対し、「わたしは、敵を殺すことができなかった。あなたは、敵を殺すことができた。…あなたが大王となって、天下を治めなさい。わたしはあなたを助けて、祭事をつかさどる者になって仕えましょう」と言った。

この話の兄・神八井耳とは、彼自身とともに親戚の尾張家(海部家)勢力のことも象徴しています。
またタギシミミとは、大国主の后・多岐津姫の名を受け継いだ多岐津彦のことで、神門家の勢力を象徴しています。
つまりこの話は、ヤマトにおいて2代沼河耳(綏靖)大君が、神八井耳や尾張家、神門家の勢力に勝ったことを示しています。

この時、多岐津彦勢は伊勢へ、一部は伊予へ移住したものと思われます。

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物部東征の戦乱期、伊勢の地に移住して来た”高倉下”系の人々がいたとします。
そこで多岐津彦系の人々と合流し、”new伊勢津彦”勢力が誕生します。
彼らはそこから北上し、信濃国に拠点を築きつつもさらに北上、越国の首都と思われる居多地区へ至ります。
そして出雲神族として出雲崎や石地に上陸。
そこで高倉下勢は別れて、彌彦を目指した。このグループには、信濃で合流した大彦勢もいたのかもしれません。
石地で”訳”あって物部化した多岐津彦勢は、彼らの祖神を二田天物部命として祀り、また一部はさらに北上して多岐神を祀り、社群を形成した。

と、こんな想像です。

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『播磨風土記』では、伊勢津彦を「伊和ノ大神の御子」としています。
石井神社の”石”は”伊和”なのかもしれません。
そして”伊和ノ大神”は”大国主”のこととされていますが、実は四国系の”天石門別神”(あまのいわとわけのかみ)なのではないでしょうか。

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物部二田氏は、筑前国鞍手郡二田郷(現在の福岡県鞍手郡鞍手町)を本拠とする伴造氏族だと伝えられます。
nari情報では、彼らは九州の地盤では”月神”を奉じていた様だということです。
北陸に二田彦・石部彦(石井彦)がおり、九州に物部二田氏と筑紫君磐井氏がいる。
この九州勢は、越国から来た一族なのではないでしょうか。

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二田物部神社は、社地の寄進や朱印状、起請文などから、歴代領主から崇敬されてきた古社だということが窺えます。
延暦14年(795年)に坂上田村麻呂が武運長久の為に鞍置馬を奉納し、社領として三島郡を安堵、戦国時代には春日山城(新潟県上越市)の城主・上杉景勝が寺領千七十石を寄進し戦勝祈願の際には白鞘太刀一口を奉納したことが伝えられます。
江戸時代に入ると高田藩領として慶長16年(1611年)に藩主・松平忠輝から50石の社領を安堵され、天領時代には3代将軍・徳川家光を始め、5代将軍・徳川綱吉、8代将軍・徳川吉宗らからも50石の社領を安堵されています。

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二田物部神社の社宝である一対の木造狛犬は室町時代に制作されたと推定され、昭和48年(1973年)に新潟県指定重要文化財に指定されました。
越後二の宮の称号と共に、江戸時代には越後十八社の一つに数えられ、越後の人々の信仰を集めてきた歴史深き神社。
二田天物部神と弥彦の神には、まだまだ奥深い謎が秘められていそうです。

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