
島根県にある山陰唯一のローカル私鉄「一畑電車」、通称「ばたでん」。

本日も健気に走っております。がんばれよ~っ!!

島根県出雲市東林木町に鎮座する「都我利神社」(つがりじんじゃ)を再訪しました。
国道431号線脇にある神社ですが、

相変わらずの階段が出迎えてくれます。
毎年11月3日に執り行われる例祭のクライマックスでは、170段あるこの石段を、神輿を担いだ男衆たちが一気に駆け上がるのだそうです。
ドヒぃ~っ。

階段を登った先、逆N字に参道が折れる形で随神門があります。
昔の参道は、違っていたのでしょうか。

都我利神社は、『延喜式』に「都我利神社」(つがりのかみのやしろ)と記され、『式内社調査報告』には「風土記の伊努社四社、伊農社三社のうち の一社に相当する」と書かれています。

主祭神は「味耜高彦根命」(あじすきたかひこねのみこと)」で、彼が所持した剣も併せて祀られているといいます。
アジスキタカヒコの剣とは、天稚彦(あめのわかひこ)の喪屋を切り崩した十束剣(とつかのつるぎ)のことで、正式名を『古事記』では「大量」(おおはかり)、『日本書紀』では「大葉刈」と記されます。
この「大葉刈」の「刈」が「我理」となり、都我利の社号となった、とされます。

アジスキタカヒコの剣はさらに別名として、『古事記』では「神度剣」(かむどのつるぎ)、『日本書紀』では「神戸剣」とも表記されます。
これは日本書紀の方が、歴史に近い名を残していると言えます。

富家に伝えられるところによれば、アジスキタカヒコ(”根”は蛇足)は大国主と宗像のタギツヒメとの間に生まれた皇子となります。
彼はおそらく、9代スクナヒコに相当する人物であったろうと推察されます。

余談ですが、天稚彦は、大国主と曳田・八上姫の間に生まれた娘・下照姫の夫となります。
ただし、富士林雅樹先生の『出雲王国とヤマト政権』では、系図上に下照姫の母の名は明記されておらず不明となっており、天稚彦のことは海稚彦と記されています。
天稚彦は海家である、ということでしょうか。

『古事記』によると、天稚彦は高木神に裏切りの嫌疑をかけられ、矢に射抜かれて死んでしまいます。
天稚彦の死を嘆く妻の下照姫の元に、アジスキタカヒコが弔いに訪れますが、天稚彦とよく似ていた彼を、天稚彦の父母が「我が子は死なないで、生きていた」と言ってアジスキタカヒコに抱きつきました。するとアジスキタカヒコは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣で喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまったと、となっています。
この話を信じるなら、大国主の娘をもらった海稚彦は、大国主殺害計画を神門家に密告しようとして、高木族(海家)の人間に殺されたのかもしれません。
その後、大国主が殺害され、アジスキタカヒコが海稚彦の親族を糾弾したことを表しているのではないか、と考えることもできそうです。

さらに余談を続けるなら、天稚彦命は「倭文神」(シトリノカミ)健葉槌(たけはづち)のことであるという説がありますが、『日本書紀』の「国譲り神話」において、葦原中国平定に先立って悪神「天津甕星」(あまつみかぼし)、またの名を「天香香背男」(あめのかかせお)を討たせた神が「健葉槌」であると記されています。

僕は四国の探求から、天津甕星・天香香背男を西出雲王家・神門家の「赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命」(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)ではないかと、すこしドキドキしながら考えています。
我ながら、ちょっと大胆が過ぎる考察です。
しかしながら、都我利神社から西に1kmほどの場所に「伊努神社」(いぬじんじゃ)がありますが、そこに祀られるのがこのサワケであり、后の「天之甕津日女命」(あめのみかつひめのみこと)となっています。
天之甕津日女の夫がサワケ=天津甕星、というわけです、ドキドキ。

当地では、伊怒神社を「西の宮」、都我利神社を「東の宮」と呼び、神門家8代主王の大国主、その父神と子神が祀られていることになります。
そして奇しくも『古事記』と『日本書紀』は、そこに天稚彦命=健葉槌の影を忍ばせているのです。


さて、余談が過ぎましたが、僕がこの都我利神社を再訪した目的は、B氏に教えていただき、この変額を確認するためでした。
都我利神社の扁額の向かって右隣にある扁額、

「伊佐波神社」とあります。
これは当社に合祀された、「延喜式」に都我利神社の次に掲載される式内社「伊佐波神社」のことで、近隣にかつて存在した神社であろうと考えられます。
伊佐波神社の祭神は「伊弉諾尊」、あるいは『出雲國神社考』によると「泣澤女命」、あるいは『特撰神名牒』によれば「伊射波止美命」だということですが、
・・・伊射波止美!
そう、井澤富彦です!!

前回僕は「伊佐波神社」を「いざなみじんじゃ」と読んでしまっていたので、よくあるイザナギ・イザナミを祀った神社だろうと思い込んでいたのですが、「イザワ神社」だというのなら、話が違ってきます。
延喜式に載る程の神社を抱える井澤富彦の勢力が、出雲にあったのは、軽い驚きを感じます。

井澤富彦は”富”の字があるように、富家ゆかりの人物、いや正確には登美家か。
それが神門家の領域に神社があったというのならば、彼は神門家とも縁が深い人物だったのかもしれません。

そう言えば、志摩国一宮の「伊射波神社」には、奥宮のような場所に磐座があり、「領有神」と書いて「うしはくがみ」と呼んでいました。

都我利神社の裏手にも牛の神像が祀られていますが、「うしはくがみ」の「うし」と関係があるのかどうか。

それにしても、都我利神社の藁ヘビ様はとてもシンプルかつリアルで、生き生きとした美しい造形をなさってある、と思うのでした。



都我利神社の本殿裏、美しい藁ヘビ様のさらに裏手を覗き込んでみると、何かありました。

へー、前回は気付かなかったな。

これは「中島治兵衛」という人を祀ったものとあります。
江戸時代の寛文年間(1670年頃)、稲作ができないドロドロの沼地への課税に対して村人が強訴したところ、多くの村人が捕縛されてしまいました。
これに村役人であった中島治兵衛は、自分が首謀者であると名乗り出て村人を助け、打ち首になったのでした。

村人は彼に恩を感じ、氏神の境内に石造の廟を建て祀りましたが、昭和5年の遷宮に際してそれに代わるものとして、この石碑を建てたということです。

narisawa110
Bさんのところとリンクするならここかな?
ttps://takeminatomi.seesaa.net/article/a13847352.html
話は逸れちゃいますが、香都知命をカグヅチと同一視する視点があった気がします。
私的に気になるのは→抜粋
「出雲臣の系譜では神活須毘命(神魂命)を天穂日命の別名とし、楯縫をしたのは天夷鳥命
と言う事になる。」
恐らくですが、例の伊勢と出雲の本によると楯縫郡は物部氏が掌握していた知能性が高いです(ただし神門に近い系統ではないか?=物部化)。
ここのまとめに、三輪君の系譜からアジスキタカヒコが事代主と同一視される視点があると書かれていますので、実際にはスクナヒコであったことからの混同視はあるんだろうなと思います。
阿波説の重要な考察材料としては他地域では関東以外に顧みられないホヒの系図が挙げられます。これにより出雲の方が分家筋、日本は出雲より古い阿波から始まったとなるわけです。
→抜粋
「天背男命の娘神に天津羽羽命がおり、事代主命の妃神と言われています。
天甕津日売命は、天御梶媛とも言い阿遅鉏高日子根神の妻神であるという認識が風土記以前の時代からあったと言う説もあり」
→「天津羽羽命」が女性である
→「天御梶媛=天甕津日売命」であり
叢雲の剣は神門の剣だったりするんですかねえ?
そして四国には「おふなとさん」がある事から、私的には四国の出雲族とは、本当は、物部氏と中が良かった神門に近い人たちが後年に関東のようにホヒやタケヒナドリを持ってきたのと同じ構図のように感じ始めています。
こうすると、和歌山の事代主、淡島が婦人病に効くとかの流れになり、事代主のイメージの違いに違和感がなくなるような気がするわけです。
阿波説の本質はそのままいくと神門説の説明過程に過ぎないのかもしれません。
徳島の大麻山が「朝山」から来ているのであれば、四国に勢力を伸ばしていたのは、神門家かもしれないですね。
東西王家の国境線を伸ばしてみても、四国はほぼ西王家寄りになると思われます。
narisawa110
最近の流れ話と総合すると、諏訪と結びついたタケミナトネの事代主の系統の国造の系図が、後年に諏訪化したらしい事からも、本質が神門の様に思えてきます。
もう一つ、阿波には叢雲との関係がありますが、渡会氏の系統の後年のナカトミとの繋がりを仮冒した事と関連してる気がします。
上毛に近い磯部氏。
渡会氏は昔は磯部であったのですね。
ttps://ameblo.jp/keith4862/entry-12967211807.html