「幡萩穂(はたすすきほ)に出る吾は、尾田の吾田節(あかたふし)の淡郡(あわのこおり)にいる神である」
三重県鳥羽市安楽島町(あらしまちょう)の加布良古崎に鎮座の「伊射波神社」(いざわじんじゃ)を訪ねます。
専用の駐車場に車を停め、1kmほど歩くことになります。
伊射波神社は、伊雑宮と同じく志摩国一宮とされています。
創建の時期は不詳とされますが、1500年以上の歴史を持つといわれる古社。
稚日女尊を海の道から加布良古崎へ祭祀したのが起源だと云われ、志摩国の海上守護神として古代から崇敬されてきました。
延長5年(927年)に製作された『延喜式神名帳』に「貞コ粟嶋坐伊射波神社二座 並 大」と記載があり、この粟嶋とは、伊雑宮がある志摩市磯部町から当社の元鎮座地の鳥羽市安楽島町にかけてが古くはそう呼ばれており、伊射波神社2座のうち1つは当社、1つは伊雑宮と考える説もあります。
異説もあるのですが、伊勢・鳥羽・志摩の広範囲にわたって、伊雑宮社家であった古代豪族の「井沢富彦」は統治していたと思われ、伊雑宮も伊射波神社も、彼にとって重要な聖地であったことに変わりはないと考えられます。
当社は、元は安楽島町字二地の「贄」にあったとされます。
昭和47年から61年にかけて鳥羽市教育委員会による『鳥羽贄遺跡発掘調査報告』では、遺跡は、縄文中期から平安中期に至るまでの時代の連続した複々合遺跡で、おびただしい数の製塩、祭祀用土器、儀礼用銅鏃、神水を得るための欅の巨木を刳り抜いて造った豪勢な井戸、神殿と思われる建物跡が発掘され、皇族、貴族が往来した痕跡が見つかっているとのこと。
こうしたことから、古代伊射波神社は国家にも崇敬された偉大な『贄持つ神』であった証だと伝えています。
素敵な入江浜を過ぎると、海岸線に降りる階段がありました。
そこを下ると、
海に面して、伊射波神社の一の鳥居が建っていました。
往古にはこの入江まで船で来て、ここから参拝したのだろうと思われます。
しかしここからの階段が、トニカクキツイ。
キツスギクライシス。
ゆるやかになったよーと思わせての
フタタビクライシス。
朝からTKG3杯も食べるんじゃなかった。。
ホテルの朝食は地産地消のTKG食べ放題セット。
おかずも美味しければ、卵も、ふりかけやだし醤油も豊富で、こりゃもうタベスギ地獄樂。
とまあ、こんな自堕落な僕を蔑むかのように、素木の二の鳥居が立ちはだかります。
そしてここからすこしで、
伊射波神社本殿に到着です。
朝の心地よい風が吹いています。
とてもシンプルな社殿。
奥にはお籠りさんのための籠堂もあります。
古くから、加布良古太明神、志摩太明神と呼ばれ、地元安楽島や近在では、『かぶらこさん』の愛称で親しまれてきた神社。
拝殿内にはいろんなものが展示されています。
ワンオク的な人も来ていたようです。
そういえば、芸能人に熱狂する人も、神に熱狂する人も、どこか似ているよね。
グッズ(お守り)買ったり、歌(祈祷)聞いたり、歌詞(祝詞)口ずさんだり、
サイン(御朱印)もらったり、ポスター(お札)貼ってみたり
目があった(逆光が差した)と喜んでみたり、
追っかけ(聖地巡礼)してみたり、
無理やり握手(御神木ぺたぺた)してみたり、
家(禁足地)に忍び込んでみたり、
分かった、分かってもらえた気になってみたり
よく似てる。
境内のあちこちで穴だらけの石をよく見かけます。
拝殿の入口にある石は、はちまき石かな。
また当社には次のようなことも伝えられています。
当社の玉垣内には丸白石が敷き詰められていて、昔から漁民はこの白石を船霊として船中に安置し、豊漁を祈る慣習がある。
古老の伝によると、白石を家に持ち帰ってはならないが、船守りとして持ち帰った場合には、後日必ず二倍にも三倍にもして社地に返さねばならなかったという。
また病気平癒を願う者が深夜にただ一人この社に詣で、白木綿一反を敷いて待つと、御神体の白蛇が現れ、白布の上を這って祈願者の頭上を目がけて毒気を吐きかけてくる。
それを恐れずこらえていれば、いかなる病も平癒した、と。
白石ってのはよく神社で敷かれていますが、御神体が「白蛇」だというところに、僕は過剰反応してしまいます。
なぜなら、当社祭神が、もうコレもんでアレもんですから。
伊佐波登美尊(いざわとみのみこと)は、言わずもがな、我らが「井沢富彦」のことです。
大和姫を歓待して、出雲の太陽の女神の鎮座地を案内した人物。
また志摩国の新田開発にも大きな功績を残したと伝えられ、大歳神と号されたとのこと。
大歳神!すると伊雑宮境外所管社「佐美長神社」(さみながじんじゃ)の、稲穂をくわえた鶴を「大歳神」として祀ったというその彼は井沢富彦だったのでしょうか。
玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)は『倭姫命世紀』によれば、天孫瓊瓊杵命の重臣・牟羅雲命の裔で、神武天皇の勅により伊勢国を平定した天日別命の娘と記されています。
これはもうめちゃくちゃで、瓊瓊杵は物部、牟羅雲は海部で時代も合わなければ、主従関係になどなり得ぬ組み合わせです。井沢富彦に「伊勢の土地よこせ」とジャイアン節かました天日別命の娘と仲良く祀られるということに違和感を感じます。
伊雑宮御師・西岡家に伝わる文書による、祭神「玉柱屋姫命」は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」「瀬織津姫神天照大神分身在河」という、玉柱姫、天照大神、そして瀬織津姫の同神説が真実に近いと思われます。
つまり玉柱屋姫は瀬織津姫=常世織姫系の越智の巫女であるということです。
狭依姫命 (さよりひめのみこと)は、宗像三女神の1柱市杵島姫命の別名で、「近くの長藻地と言う島に祀られていたが、島が水没したので当社に合祀された」と言うのですが、僕は狹依姫は「さよひめ」と呼び、元は「幸姫」(さいひめ)だったのではないかと考えています。
残る稚日女尊 (わかひめのみこと)、彼女は天照大神に仕えた神と一般には考えられていますが、富家伝承によれば、彼女は親魏和国の女王・豊玉姫(いわゆるヤマタイ国のヒミコ)の娘、豊姫(台与)のことであるといいます。
『日本書紀』に記載されている神功皇后が三韓征伐を行う際に現れた「尾田(現、三重県鳥羽市の加布良古の古名) の吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋= 安楽島)に居る神.」とは稚日女の事であり、兵庫県神戸市の生田神社に勧請された神は伊射波神社に鎮座していた神であるということです。
こうしてみると、伊射波神社の祭神は、登美家×1、豊家×2、越智家×1の構成になっていることに気がつくのです。
ってかなんだ、このジャバ・ザ・ハットみたいな磐座は。
この磐座は「領有神」と書いて 「うしはくがみ」と呼びます。
領有神とはその文字の通り、領地の神ということになるでしょう。
ならば井沢富彦のことでしょうか。いや、あるいは事代主を指しているのかもしれません。
領有神の磐座の近くにベンチがあり、
そこの枝の隙間から見える景色は「奇跡の窓」と呼ばれています。
なぜ奇跡なのか。
ちょうどそこにいた氏子さんらしき方から教えていただきました。
「何かの形に似ていませんか」
そう、九州です。
ここに鎮まる稚日女尊が、遠く九州から来た神であると、知っている人がいるのでしょうか。
故に奇跡の窓と。
毎年11月23日に行われる大漁祈願祭は、「御魚取り神事」(みととりしんじ)と呼ばれます。
神事では素襖に烏帽子姿の五人年寄りが神前で刺し網を張り、「大漁じゃ」の掛け声と共に新鮮な魚を投げ入れるのだそうです。
動画も見せていただきましたが、なかなか威勢の良い神事でした。神事終了後、魚は焼いて食べるそうです。
先にも記したように、古く伊雑宮と伊射波神社を含む範囲は「粟嶋」と呼ばれていました。
この粟嶋について、大元出版の富士林雅樹先生は著書『出雲王国とヤマト政権』の中で、『伯者国風土記(逸文)』を引用して、次のように紹介されています。
粟島。相見の郡。郡家の西北に余戸の里があり、粟島がある。少日子の命(コトシロヌシ)が、栗をおまきになられた時、粟の実が穂いっぱいに実って落ちた。
その栗柄に乗ったらはじかれて、常世の国へお渡りになった。それで、粟島という。
「常世の国へお渡りになった」とは、あの世に去ったということを示している。この史実の影響で、粟島の隣にあった大きな島が「夜見の島」と呼ばれるようになった。
「夜見」とは、黄泉(死後の世界)を意味する。近くの弓ケ浜という地名も、もとは夜見ケ浜であった。
また同じく大元出版の勝友彦先生著『魏志和国の都』では、つぎのような話を見ることができます。
出雲国には、栗島坐伊射波神社(秋鹿郡伊農郷)があった。栗島(鳥取県米子市彦名町)とは、事代主が枯死された聖地である。
この社には、古くは事代主神が祭られていた。
志摩国の伊雑宮(三重県志摩市磯部町)は、出雲から勧請されたと考えられている。
松坂市にも伊佐和神社があって、この付近もイズモ系の志摩国造の影響があった。
伊射波神社には、伊沢富命も祭られている。
秋鹿郡伊農郷の栗島坐伊射波神社を探してみましたが、もう存在していないようです。
ただ『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷の由来に、 「出雲郡伊農郷(いずもぐんいぬごう)に鎮座していらっしゃる赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかふすまいぬおおすみひこさわけのみこと)の后である天瓺津日女命(あめのみかつひめのみこと)が国をご巡行になったときに、ここにいらしておっしゃられたことには、「ああわが夫よ、伊農よ(伊農波夜)」とおっしゃった。だから、足努る(あしはやる)伊努という」とあります。
赤衾伊農意保須美比古佐和気能命、天瓺津日女命を祀る伊努神社が出雲にありますので、それが栗島坐伊射波神社だったのでしょうか。
しかし遷座されたのか、今の伊努神社は秋鹿郡伊農郷には鎮座していないので、謎が残ります。
いずれにせよ、井沢富彦が事代主を偲んで、当地を亡くなられた聖地「粟嶋」と呼び、御霊を祀った可能性は高いと思われます。
故にここは黄泉の国「常世」へと通じてしまったか。
そして同じく鈴鹿の椿大神社で常世へと参られた、稀代の月読みの巫女「豊姫」を「稚日女尊」として、彼女とも所縁のある一族が伊佐波神社に祀ったのでしょうか。
井沢の文字を伊射波と書くと、やはり常世へ旅立ったイザナミとも呼べるのは、意味があるのかもしれません。
穴ぼこだらけの不思議な石ですが、これは貝が開けるのだと、氏子さんが教えてくださいました。
まるで常世へ道を作るように。
バワ。ゴジョウサン。
イザワジンジャ、ナツカシイネ。
コノチニハ、ニド、オトズレテマス。
ニドメノホウモンジ、チチトアニトノ
サンニンデ、オオアメノヨクジツ・・・読みづらいわ。(笑)
まあ、大雨降った翌日に神社目指してテクテク歩いてたら、茂みがガサガサって鳴った時に猪がこっちへ飛び出してきて横をすり抜けて行った記憶がある。この神社の御朱印は海辺の一軒家まで行かないと直書きは頂けない。
分かりづらくてこれも記憶に。
五条さん。一の宮巡り頑張ってね。
そして美味しい御飯とお酒に出会えますよう(笑)
8まんデシタ 。
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オマエ 8マン オレサマ ケモナー
今日モ ウマソウダナ
今は拝殿に御朱印置いてあります。
コレモ ワンオク コウカナノカ
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🐥…領有神の磐座。墓かと思いました…一瞬、首塚かと。ジャバ・ザ・ハット乙…🐤
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