天照大神の遙宮(とおのみや)、「伊雜宮」(いざわのみや)を再訪しました。
「伊雜宮」と書くのが正式ですが、常用漢字体の「雑」で、一般的には表記されます。
また、「いぞうぐう」とも呼ばれるほか、「磯部の宮」・「磯部の大神宮さん」などとも呼び親しまれます。
内宮・外宮の次に格式高いとされる神宮の別宮は、通常その近辺に鎮座していますが、度会郡大紀町の「瀧原宮」と当社は、車の移動でも約1時間ほどかかる離れた場所に鎮座するため、「遙宮」(とおのみや)と称されています。特に別宮14社のうち、伊勢国外のものは志摩国の伊雑宮のみとなっています。
志摩国一宮でもある伊雑宮は、鎌倉時代成立とみられる『倭姫命世記』によると、伊勢神宮の内宮を建立した大和姫が神宮への神饌を奉納する御贄地(みにえどころ)を探して志摩国を訪れた際、伊佐波登美命が出迎えた当地を御贄地に選定して伊雑宮を建立したとされます。
境内にはそれを示すように、大和姫も使ったという井戸や
「忌火屋殿」(いみびやでん)があります。
「忌火」とは「清浄な火」を意味し、火鑽具(ひきりぐ)を用いて火を起こし、供物の準備がここでなされます。
先の創建についてですが、神宮ではなぜかこの『倭姫命世記』の内容をとっていますが、同書は偽書とされています。
海に近い志摩国では稲作に向く土地がなく、この伊雑宮周辺の土地のみが水田による稲作に適していました。
つまり当地は、古代に伊勢・志摩地区を統治した豪族、「井沢富彦」(いざわとみひこ)の屋敷があった場所である可能性が高いと思われます。
伊雑宮の社家で当主の井沢富彦は大和の登美家の人間でしたが、登美家は出雲王家の血筋を濃く受け継ぎながらも、磯城・大和王朝の海家の血も引き継いでいました。
旅を続けた大和姫は伊勢からさらに志摩国に行き、伊雑宮で井沢富彦の支持を受けました。
ある時、富彦は大和姫を伊勢国の五十鈴川のほとりへと案内し、そこがとても清らかな土地であったので、姫は当地に内宮を建て、そこに太陽の女神を祀ったと富家は伝えます。
つまり内宮よりも先に、伊雑宮はあったということです。
伊雑宮の正殿は、内宮・外宮と同じ「唯一神明造り」で南向きに建てられています。
一般的な神明造りとの違いがイマイチわからないですが、この唯一神明造りは内宮・外宮と他の神社と一線を画す意味合いがあり、伊雑宮だけは例外中の例外であることを示しています。
伊雑宮の祭神は、「天照坐皇大御神御魂」(あまてらしますすめおおみかみのみたま)とされ、いわば内宮と同じ神を祀ることになります。
しかし古くは、伊雑宮神職の磯部氏の祖先とされる「伊佐波登美命」と「玉柱命」(玉柱屋姫命)の2座を祀るとされており、伊雑宮御師である西岡家に伝わる文書では、祭神「玉柱屋姫命」は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれ、同じ箇所に「瀬織津姫神天照大神分身在河」とあるのだそうです。
つまり西岡家では玉柱姫、天照大神、そして瀬織津姫は同神であると伝えているのです。
玉とは玉垂の神の玉であり、豊玉姫の玉。
玉の字は勾玉を意味することもありますが、この場合は月神を意味するでしょう。
そして瀬織津姫は、豊族や龍宮と深い関わりのある越智族の稀代の巫女「常世織姫」(とこよおりひめ)のことだと、僕は確信します。
つまり伊雑宮は、元は井沢富彦と常世織姫(もしくは彼女に類する女神)を祭祀していたのだと思われます。
伊雑宮は別宮の中でも格式が高く、本来の伊勢「本伊勢」と呼ぶ人もいるようです。
神田を持つ唯一の別宮で、神宮の「御贄地」(みにえどころ)として古来から、伊勢神宮の修繕費や神事の費用などはこの伊雑宮の周辺の田の収穫で得た利益で賄われてきたと云います。
そこにある田は「御料田」(ごりょうでん)と呼ばれ、千葉の香取神宮、大阪の住吉大社と合わせて日本三大御田植祭「御田植式」(おたうえしき)が執り行われています。
ところで、伊雑宮には六芒星の入った灯籠があり、ユダヤや秦氏との関連が示唆される、といった話を聞いたことがあり、気になっていました。
が、伊雑宮を探しても、当の灯籠どころか、灯籠そのものがほとんどない。
と、境内を出て正面の建物を見てみれば、おや、ある。
確かに六芒星が刻まれている。
その下には、なぞの団体名も刻まれていました。
調べてみると、「伊勢三宮奉賛献灯会」なる任意団体が昭和30年(1955年)に設立され、伊勢神宮に奉献することを目的として、御幸道路と市道に三重県知事と伊勢市長の道路占用許可を得て、この石灯籠を建てたのだそうです。
これらは伊勢神宮の管理物ではなく、しかもその団体もすでに解散。してます。伊勢市議会において平成19年(2007年)、所有権の不明確さと老朽化を理由に撤去が決定されました。
現在はすべて撤去されており、唯一残っているのがこれなのでしょう。
いやはやなかなかお騒がせな代物です。超古代スピリチュアリストの方々、ご考察お疲れ様でした。
とはいえ、この伊雑宮には重要な秘密が隠されている可能性を、僕は捨てきれないでいます。
大正12年、伊雑宮から北に200m、「倭姫命の旧跡地」であると伝えられる千田寺跡から、石棺が発掘されました。
この石棺には勾玉・矛・2面の鏡の、いわゆる「三種の神器」が入っていたといいます。
当時「これは大和姫の遺跡か」と騒ぎになったそうですが、すぐさま官憲がやって来て持ち去り、矛と勾玉は行方知れずになりました。
鏡は楠の根元から出土したので「鏡楠」と呼ばれ、その残根が保存されています。
この白銅鏡は、志摩市歴史民族資料館に保管されましたが、「室町時代」のものとされ、それら神器を納めたのが石棺状だったことを知る村人ももはやいないのだそうです。
かつてここに鎮座していた千田寺(ちだじ)には、3つの鳥居があったといいます。
その中央には大己貴大神、右に少彦名大神、左に久延彦大神(くえびこのおおかみ)が祀られていたそうです。
さらにその千田寺はもともと杵築社(きづきのやしろ)という神社であり、正式には「杵築宮御光大神宮」と呼ばれていたと伝えられます。
そうなると、多くの人は出雲系の神社がここにあったのだと考えることでしょう。出雲大社は古くは杵築大社と呼ばれていました。
この千田寺跡に建つ小さな堂内には、井沢富彦が祀られています。確かに彼は出雲系大和族・登美家ゆかりの人でした。
しかしこの小さな堂は秋葉堂(あきばどう)と言い、中には秋葉社と庚申碑が祀られています。
秋葉大神といえばカグツチですが、たぶんこの神は越智系の神です。
大己貴・少彦名といえば大国主と事代主を連想させますが、これはそもそも大名持・少名彦という王・副王の役職名です。
この二王制は確かに出雲族の風習ですが、四国南部に数多く鎮座する白王神社の祭神は大己貴であり、越智族も同じ二王制を布いていた可能性があるのです。
さらに久延彦大神は『古事記』に世の中の事をことごとく知っている智恵の神様と記され、阿智神社の祭神である常世オモイカネを連想させます。
井沢富彦には越智家の血も流れていたのではないか、というのが今の僕の考えです。
さて、志摩と伊雑宮の社人らは、苦難の歴史を歩んできました。
平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、伊勢・志摩両国は伊勢平氏の地盤で、源氏勢の侵攻を予想し、平家は警備を強めていました。
しかし養和元年(1181年)1月、伊雑宮は源氏の味方となった紀伊の熊野三山の攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われてしまいます。この時伊雑宮のご神体は、一時内宮に避難することになりました。熊野三山の勢力はさらに山を越えて伊勢国に攻め込みましたが、反撃を受け退却していきました。
戦国期になると、これまで志摩国を管理していた物部十千根の一支族・的矢氏の勢力が衰え、9代九鬼浄隆(くききよたか)によって滅亡させられてしまいます。
すると内宮の衰微もあって、伊雑宮のある神領・磯部の地は無法地帯と化し、その後磯部は11代九鬼嘉隆(くきよしたか)の武家領となりました。
神領を失った伊雑宮の経営は困窮し、伊雑宮の神人と磯部郷民たちは寛永2年(1625年)、神領再興を江戸へ上訴しようとしますが、これを快くおもわない鳥羽藩主の12代九鬼守隆(くきもりたか)は逢坂峠に新関を設置、尚も上訴のため通行しようとした神人がいたことに怒り、50余名の伊雑宮神人らは神島に流刑となりました。
寛永9年に守隆が死去し、九鬼氏が転封となります。
すると伊雑宮神人たちは関東に赴き、老中阿部氏に神領返還を強く訴えました。しかし伊雑宮神領の磯部は四千二百石余りもあり、それを返還すると鳥羽藩が成り立たなくなるとの意向があり、結果なんの返答もなされなかったのです。
伊雑宮神人らはその後も上訴し続けますが、ことごとく芳しい返答はありませんでした。
そこで伊雑宮神人らは明暦4年(1658年)、朝廷へ「伊雑皇大神宮は日本最初の宮で、のちに内宮が鎮座し、次いで外宮が鎮座した」とする「伊勢三宮説」を添えて上申しました。
この伊勢三宮説の根拠となったのは『伊雑宮旧記』なる古文書にその記述があるからと言うのです。
伊勢三宮説は伊雑宮こそが磯宮(いそのみや/伊勢の宮)で日神・天照大神を祀っており、内宮は星神として瓊瓊杵尊を、外宮は月神・月読尊を祀っていたとするものです。
これまでは伊雑宮神人らを相手にしていなかった神宮側も、さすがに無視するわけにはいかず、万治元年(1658年)『伊雑宮旧記』は偽書であると訴え反撃に出ました。以降、神宮と伊雑宮の熾烈な本家争いが勃発、最後は朝廷の裁決にゆだねることになります。
この裁決で下されたのは「伊雑宮は内宮の別宮。祭神は伊射波富美命である」というものでした。これにより寛文2年(1662年)幕府は伊雑宮を内宮別宮の一つとして再建することとなりました。
尚も納得のいかない伊雑宮神人たちは、寛文3年(1663年)四代将軍徳川家綱に直訴しましたが、結果は神人たち47人が伊勢志摩両国から追放されるという最悪の沙汰となったのです。
こうして伊雑宮と「伊勢三宮説」をめぐる騒動は落ち着いたかのように見えました。しかし延宝7年(1679年)、とある書物が江戸の書店、戸嶋惣兵衛の店で発見され、再び大火を引き起こします。その書物は『神代皇代大成経』または『先代旧事本紀大成経』(せんだいくじほんきたいせいきょう)と呼ばれるものでした。
全72巻からなるこの書物は、飛鳥時代に推古女帝の勅命によって聖徳太子が編纂したとされています。
編纂にあたっては、太子は天皇家と有力六氏の吾道(阿智)氏、物部氏、忌部氏、卜部氏、出雲氏、三輪氏の歴史書を元に国史を作成しようと試みたが、欠けている部分があることが分かり、小野妹子と秦河勝が平岡宮(枚岡神社)と泡輪宮(安房神社もしくは阿波の忌部神社)で物部氏と忌部氏が奉納した土笥(はにはこ)を探しだし、中にあった土簡も加えて原典にしたとされており、推古天皇30年(622年)の完成後に女帝の序文が添えられたというものです。
この大成経の内容が公開されると江戸を中心に大きな話題となり、学者や神職、僧侶の間で広く読まれるようになりました。
問題となったのは、この大成経に、かつて伊雑宮の社人らが訴えていた「伊雑宮が日神を祀る社であり、内宮は星神、外宮は月神を祀るものである」という内容が記されていたことでした。これに江戸の町では、知識人を巻き込んでの「伊勢三宮説」真偽の大論争が勃発、慌てた内宮・外宮の神職らは、大成経は偽書であるとして幕府に詮議を求めたのです。
幕府の裁定は、大成経は偽書であり今後一切禁書と処す、というものでした。朝廷は再び、伊雑宮は内宮の別宮であり祭神は伊射波登美命であると裁決したのです。
天和元年(1681年)、幕府はこの裁定により江戸の版元である戸嶋惣兵衛を追放、書店にこの書物を持ち込んだ咎で神道家の永野采女と僧の潮音道海(ちょうおんどうかい)を流罪に処しました。
後に大成経は、伊雑宮の神官・中村兵太夫信盛が永野采女に『伊雑宮旧記』を渡し出版工作をしたとされ、彼は鳥羽藩の刺客によって毒殺されました。天和2年(1682年)のことです。
潮音道海は徳川綱吉やその母・桂昌院とも親しい高僧であり、桂昌院の奔走によって処分を免れ、謹慎50日の後、上州館林の黒滝山不動寺に移り住みました。永野采女も天海僧正に手ほどきを受けたほどの知識人でした。なぜそのような地位も名誉もある人物らが、この『先代旧事本紀大成経』を世に放つという行為に至ったのか。
「伊勢三宮説」にはそれだけ彼らを魅了する何かが秘められていたのだろうと思われます。
潮音道海は天和3年に著した『大成経破文答釈』においてもなお、『大成経』が本物であることを説いていたということです。
この『先代旧事本紀大成経』にまつわる一連の事件は、「大成経事件」、または「伊雑宮事件」などと呼ばれています。
伊雑宮の神跡、「上之郷石神」を数年ぶりに訪ねてみましたが、気付いたことがあります。
このストーンサークル状の岩々は、ほとんどが割れていることです。
これは女神の岩を意味しているのでしょうか。
そしてどことなく宇佐の轟山、白山神社遺跡のストーンサークルに似たものを感じたのでした。
伊雑宮から少し南に下ったところに、伊雑宮境外所管社の「佐美長神社」(さみながじんじゃ)が鎮座しています。
『倭姫命世記』に、稲穂をくわえた鶴を「大歳神」として祀ったと記載されており、この「鶴の穂落とし」伝説に基づき、「穂落宮」(ほおとしみや)とも呼称されます。
祭神の「大歳神」(おおとしのかみ)は本来、出雲の神ですが、丹波に移り住んだ「徐福」と大国主の娘「高照姫」の子、「五十猛」(いそたける)の名でもあります。
イソタケル、磯猛、
この伊勢の由来ともされる「磯」の字が、僕は気にかかっています。
伊勢の地名の由来は、神宮が別名で「五十鈴宮」(いすずのみや)と呼ばれており、古くは「磯宮」(いそのみや)とも呼ばれていたことによるとされます。
磯宮→伊勢ということです。
しかし、伊勢湾岸は磯浜ではなく砂浜のため、多くの川瀬を意味する「イセ(五十瀬)」に由来するとも考えられています。
これに対し、「磯部の宮」「伊雑」(いざわ)に関連があると唱える人も少なくありません。
もうひとつ、伊勢の名の由来に、当地に古くから先住していた神「伊勢津彦」(いせつひこ)の存在があります。
『伊勢国風土記』逸文にその話があります。
伊勢津彦は大和の神武天皇によって派遣された天日別に国土を渡すよう要求されましたが、これを長く先住していたことを理由に断っていました。
しかし、最終的に天日別が攻勢の準備を整えると、恐れた伊勢津彦は東方へ避退する旨を天日別に伝えます。
すると天日別命は「伊勢を去ることをどのように証明するのか」と問い、伊勢津彦は「強風を起こしながら波に乗って東方へ去って行く」ことを誓って、夜の内に東方へと去って行ったということです。
のちに天皇の詔りによってこの国津神の神名を取って、伊勢国としたと記述されているそうです。
なお後世の加筆で、追われた後、別の地の神社で祀られたことや信濃国に鎮座したことが記述されるともいいます。
この話を踏まえると、伊勢津彦とは磯津彦ということになり、伊雑彦、井沢富彦のことと考えることが可能かどうか。やや乱暴な気もしますが。
神武天皇≒物部イクメは豊姫暗殺を目論み、刺客を放っています。彼女は鈴鹿の椿大神社で暗殺されました。
この時イクメに派遣されたのが天日別で、井沢富彦に土地を差し出すように要求したとか。
しかし大和姫はその後に伊勢に訪れ、井沢富彦の世話になっているので、時間的に矛盾が生じてしまいます。うむむ。
他にも伊雑宮には浦島太郎や海女が龍宮へ行ったという龍宮伝説が伝えられており、志摩市阿児町安乗の安乗崎沖の岩礁(大グラ)近くの海底には鳥居に似た岩があるのだと云います。
また、伊雑宮の宝物の一つに海女が持ち帰ったとされる玉手箱があり、その中身は蚊帳で、不幸が続くため伊雑宮に納めたとされています。
さらに御田植え祭の日に、伊雑宮の遣い、または龍宮の遣いという七匹の鮫が的矢湾から川を遡って伊雑宮の大御田橋までのぼると云われており、七本のうち一本は殺され、今は六本なのだとされています。
大御田橋からは蟹や蛙に化身して伊雑宮に参詣するとも云われ、この日は志摩の海女たちは海に入ることを忌み、伊雑宮に参詣するのだそうです。
悲惨な伊雑宮事件の発端となった、『先代旧事本紀大成経』ひいては『伊雑宮旧記』は本物だったのか偽書だったのか。
現在では両書とも偽書であったという考えが大半であり、僕もそのように考えます。
しかし「伊勢三宮説」そのものが嘘だったのでしょうか。
伊雑宮と鳥羽・志摩方面を再訪してみて、あらためて当地が特殊な、重要な聖地であることを実感しました。
井沢富彦の出生の謎、龍宮伝承、その他を見てもそう感じるのです。
また、太陽神を祀るには、海に近い志摩の地のほうが、内陸の内宮より相応しいと思います。
星神を瓊瓊杵尊とするのも、彼が道教の星神信仰を持っていた物部族の出身であるという事実を表しています。
ならば、内宮には星神が祀られていたのか。
外宮には本来月神が祀られていた、というのは確信しています。
が、内宮の深部で僕が出会ったものは、残念ながら星神祭祀の痕跡ではなく、それはおそらく古いサイノカミ祭祀の痕跡だったのです。
さりとて、この一連の騒動の、伊雑宮神人らへの仕打ちというものは非常に厳しく、かつ全てが片付いているにもかかわらず、伊雑宮の神官・中村兵太夫信盛を鳥羽藩は執拗に狙い、刺客によって毒殺するに至るのです。
彼が『先代旧事本紀大成経』の出版工作大罪の張本人というのなら、普通に裁きによって刑を執行すれば良いことなのに。
中村兵太夫信盛のことを調べていると、彼を追善供養する観音石像が、下之郷にある中村家の墓地に建つとの情報を『追跡アマミキヨ』というブログで知りました。
詳しい場所は記されていませんでしたが、Googleマップであたりをつけ向かってみると、確かにそこに、憂を帯びた観音像があります。
その石像の左手に持たれた丸いものは毒饅頭とのこと。無念の象徴でしょうか。
彼の死の違和感には、人の思惑が隠されているのではないか、しかしそれが表に出ることはなく、今の伊雑の郷は、穏やかな潮風が吹くばかりなのです。
🐥…伊雜宮の井戸はなんだかトイレに見えるが気のせいだろう。忌火屋殿はなんだかそこに火を放って生贄を焼くための屋殿に見えるが気のせいだろう…🐤
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それはきっと気のせいだろう😎
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