出雲大社から431号線を東にしばらく行くと、車道に面する急な石段があります。
「都我利神社」(つがりじんじゃ)です。
駐車場は近辺に見当たりません。
なんとか車を停めて、この急な階段を登りました。
登りつめると、皇居や伊勢の遥拝標なるものがあります。
なんとも写真に収めにくい神社です。
宇宙人のような狛犬が迎えてくれました。
ここは神門臣家の大国主命の子「アジスキタカヒコ」を祀った神社と伝わります。
祭神は「阿遅志貴高彦根命」(アジシキタカヒコネノミコト)とありますが、富氏曰く「根」は余計だと云うことです。
一説には、阿遅志貴高彦根命の剣も祀るとあるそうです。
国譲り神話にて、穂日に次いで天降った「天稚彦命」(アメノワカヒコ)は高木神に裏切りの嫌疑をかけられ、矢に射抜かれて死んでしまいます。
この天稚彦命は「倭文神」(シトリノカミ)健葉槌のことであると云う説があります。
天稚彦の死を嘆く妻の下照姫の元に、アジスキタカヒコが弔いに訪れますが、天稚彦とよく似ていた彼を、天稚彦の父と母が「我が子は死なないで、生きていた」と言ってアジスキタカヒコに抱きつきました。
するとアジスキタカヒコは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣で喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまったと云うことです。
この時、喪屋を切り倒した剣を「我利」と云い、神社の名前となったそうです。
またこの剣は「神戸の剣」とも呼ばれていて、神門臣家との繋がりを示唆しています。
都我利神社とほど近いところに「伊怒神社」(いぬじんじゃ)がありますが、伊怒神社を「西の宮」と呼ぶのに対し都我利神社を「東の宮」と呼んでいたそうです。
https://omouhana.com/2017/08/28/出雲神奈備神社・伊怒神社:八雲ニ散ル花%E3%80%8005/
伊怒神社もまた神門臣家の領地であったと云うことです。
御祭神の「赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命」(アカブスマイヌオオスミヒコサワケノミコト)は「八束水臣津野命」の子神になります。
また配祀神に后の「天之甕津日女命」(アメノミカツヒメノミコト)を祀っていますが、この妻神に似た名前の神に「天津甕星」(アマツミカボシ)がおり、その別名を「天香香背男」(アメノカカセオ)と云います。
この二神は、その名の類似性から同族であった可能性が濃厚です。
日本書紀の「国譲り神話」において、「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名は天香香背男です。どうかまずこの神を除いて、それから降って、葦原中国を平げさせて頂きたい」と経津主神、武甕槌神は述べます。
そこで天香香背男を討つために派遣された神が「武葉槌神」、先ほど穂日の次に降臨して高木神に矢で射殺された「天稚彦」です。
これは先に死んだはずの天稚彦が武葉槌になって天津甕星・天香香背男を打ち取ったという、チグハグでわけのわからない話になっています。
天香香背男の「カカ」とは通説では星神の輝くという意味だろうと解釈されていますが、出雲では「蛇」のことを古語で「カカ」と呼びます。
天香香背男・天津甕星は出雲族と婚姻関係を結んで、出雲族とは戦争をしたくない天津神の一族であったのだろうと思われます。
また天稚彦・武葉槌は一度は出雲族に取り込まれたものの、裏切って天香香背男を討ったのかもしれません。
天稚彦の裏切りに腹を立てたアジスキタカヒコが、彼の屋敷を攻め立てたことが、「剣で喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった」という神話になったように思われました。
漏れ聞くところ、件の神話にあるような王族、貴人らは、
例え血を分けた近親者でも葬儀の場には絶対寄り付き、近寄る等もってのほかの志儀。
万が一、たまたま通行中でも葬儀、死人に関わる(近づいただけでも)と
王族、貴人の特権、地位、もし嗣子(太子)だった場合にはその地位権利を剥奪され兼ねない重大な罪(死穢)を負ったと言いますから、
王族、それも神門臣王家の嗣子~当主で在られたアジスキタカヒコさまがその様な場所、場面に関わる事は一切なかったはず
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はい、やはりそうですよね。
出雲族は徹底して死の穢れを嫌いました。
この話は、以前たぬきさんが話してくれたような、出雲王家を貶める意味が含まれているのだと思います。
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