
大山祇神には二人の娘がいた。姉をイワナガヒメ、妹をコノハナサクヤヒメと言った。
二人は年頃になり、それぞれの宮を定めることとなった。
しかし姉のイワナガヒメは目を患い、歩くこともおぼつかない。そこで妹のコノハナサクヤヒメは、姉神の手を引いて宮探しの旅へと出た。
ある日、姉妹二人は飯盛山にたどり着いた時、イワナガヒメが言った。
「私には景色を見ることができませんが、ここは風が通る清々しい場所ですね。私はここに住もうと思います」
飯盛山の頂きから東の方を見たコノハナサクヤヒメが言った。
「ここから遥か彼方に、立派なお山があります。私はそこまで行ってみましょう。私はこの縄の端を握って参りますので、もっと良い住処が見つかりましたら、縄を引いて合図いたしましょう」
そう言うと、コノハナサクヤヒメは長い長い一本の縄の片方を手に持ち、もう片方を姉に握らせた。
そうして幾年月が流れたであろうか。いつまで経っても、妹、コノハナサクヤヒメからの合図は来なかった。
そこで姉のイワナガヒメが、飯盛山の頂きから縄を引いて手繰りよせてみると、繰っても繰っても何の手応えもなく、その端は切れてしまっていたのであった。


島根県安来市広瀬町にある「縄久利神社」(なわくりじんじゃ)を訪ねました。

今回のシズ・モモさんズと”奥出雲”での再会は、当社参拝が1番の目的でした。

ここはシズさんによると、出雲で珍しい「磐長姫」(いわながひめ)を祀る神社で、シズさん自身もまだ未参拝だったからです。

シズさんは、僕の越智族母系論を支持してくださる、希少な友人です。
その越智族の姫だと僕が考える磐長姫が、なぜ奥出雲に祀られているのか、「オラ、わくわくすっぞ」が捗ります。

縄久利神社は古棟札に高倉天皇の代、承安年間殿再修復の文字が記されており、創建は不詳ながらも平安時代には信仰の対象として社が建立されていたことが分かっています。
そんな古い棟札が存在していることに、そもそも驚愕ですが。

手水舎の向かいに置かれている石。

これは「鏡石」だと説明されていました。
白い斑点が可愛い。
鏡石というよりは、狛犬のような感じを受けます。

こちらは正真正銘の狛さん。出雲にしては珍しい精悍なお方、イケ狛です。

縄久利神社の立派な拝殿が見えてきました。

これまた彫刻が素晴らしい。

長寿の象徴たる鶴に、

龍宮と言わんばかりの彫り物が印象深いです。

まさしく、不老長寿を司る姫神の社に相応しい装飾です。

ご存知の方も多いように日本神話では、イワナガヒメは「磐のような永遠性・不老長寿」の象徴として、コノハナサクヤヒメは「桜の花のような美しさ・繁栄」の象徴として、天孫ニニギノミコトに嫁がされました。
しかしミコトが一目惚れした妹のコノハナサクヤヒメに対して、容姿が醜かったイワナガヒメは、一人だけ実家へ送り返されてしまうという、あまりに悲しいエピソードとなっています。

当社祭神は「大山祇命」です。
磐長姫やないんかーい、って思いましたが、姫神はこの先の奥宮に祀られているとのこと。
下の宮である当社は、彼女の父神が祀られているという構図です。

当社は往時より「縄久利の大神」「縄久利さん」と呼ばれ、霊験あらたかな神社として親しまれてきました。

境内には、天満宮ばりに牛の像が置かれています。

これは、磐長姫は「牛馬の守護神」と伝えられており、別名を「牛飼姫命」であるとする、当地独特の伝承によるものとなっています。

境内には、穀物神・倉稲魂神を祀る稲荷社や、

大己貴命を祭神とした田権現社もありました。

鳥取の大山は、平安時代から地蔵信仰と結びつき、農耕や物流に不可欠な動物を守る「牛馬信仰の聖地」として発展した歴史があります。
江戸~明治時代には日本最大の「大山牛馬市」が開かれ、全国の農家が牛馬の健康や繁栄を祈願して訪れたとのことでした。

時を同じく江戸時代には、出雲はもとより伯耆、備中、備後、隠岐まで、縄久利神社の崇敬講社が結成されていました。
牛馬信仰を通じて、大山と縄久利神社との間には、修験や講による結びつきがあったことが推察されます。

当社にまつわるイワナガヒメ・コノハナサクヤヒメの姉妹神に関する伝承は、他で聞くことのない独自のものでした。
姉のイワナガヒメと妹のコノハナサクヤヒメが居を求めていたが、姉のイワナガヒメはここ、飯盛山に留まり、妹のコノハナサクヤヒメは大山に向かった。
この時、二人は縄を手にして連絡を取り合うようにしていたが、いつしか縄は切れ、姉のイワナガヒメが縄を繰っても繰ってもなんの手応えもなくなっていた、というもの。

これが社名の「縄繰」(なわくり/縄久利)の由来だとされていますが、僕は別のことを考えていました。
当社の神が本来はイワナガヒメ1柱であったとするなら、「ナワクリ」の語源は、「魂振」と「魂結び」のことだったのではないかと。
そう、石見・物部神社の『鎮魂祭』(みたましずめのまつり)で行われていた、”ふるべ・ゆらゆらと・ふるべ”のあの神事です。

「魂振」は人形(ひとがた)の入った柳箱を右回りに3回半まわし振るといい、宮中での鎮魂祭でも同じく「魂振の儀」といって、天皇の衣を左右に10回振るといいます。
これは魂を振ることによって体の真芯に据え置く、という意味があるそうです。
「魂結び」は魂振と同時に、五色の絹糸で編まれた紐の玉の緒が結ばれます。
結ぶ=くくる。
鎮魂祭は、遊離した魂を真芯に据え置き、体に結びつけ直し鎮める、いわば魂の再生の儀となります。

イワナガヒメは磐の如く、不老長寿を象徴とする姫神です。
ゆえに彼女の本性は、変若水の姫巫女であったのではないか。
彼女が視力を失っていたという話は水銀毒を思わせ、縄の先が切れていたという話は妹の玉の緒を結べず、早死にさせてしまったことを表しているように思えます。

おそらくは変若水の女神を祀る信仰が古代から当地にはあって、のちに修験者らによって大山(大山祇神)の信仰が持ち込まれたのではないかと、僕は考えます。

牛馬の信仰は、農耕に密接に繋がります。
食もまた、魂を体に結びつける上で、欠かせないこと。
古来の縄久利信仰と、大山信仰が結びついたのは、必然であったと言えるのかもしれません。



さて、縄久利神社から標高にして300mほど登ったところに本宮(奥宮)があるというので、行ってみることにしました。

本宮と掲げられた鳥居から先は草が茂っていて、道ないじゃん、って一瞬なりかけましたが、僕とモモ氏とシズ氏の3人は、すでに先の「伊弉冊の岩柵」においてフょースを開眼していますので、”道がないところでも道があるように見えてしまう”という才能が覚醒されています。
この程度は問題ありません。

「本宮まで300m、すぐ着くよね」と会話する男女3人組。

けどね・・・

まあまあ、だよね、この道。

なかなか味わいのある参道(山道)を、”変態”ボーイと”変態”ガールズは粛々と登り進めていきます。

この日の午前中は、伊弉冊の岩柵でしたからね。
”変態”巡礼はこうでなくちゃ!なんて余裕もぶっこけなくなるくらいに、3人が無口になった頃、それは現れました。



すっご。。
山の中に、突如として現われる、天然石の石段と聖地。
緑と光のコントラストが美しすぎて、なんと神々しいことか。
この写真を撮る僕を、

撮るシズさんを撮るモモちゃん。
いい感じの変態図。

ようやくたどり着いた縄久利神社・本宮ですが、

ここに祀られるお方も、下の宮と同じく大山祇命となります。

では、我らがイワナガちゃんはどこに祀られているのかというと、
本宮の背後、石を積み上げたような磐座の頂部に、磐長姫を祀る「鼻繰社」があるとのことです。

伝承では、当地の磐長姫は牛飼姫命と同神だということでしたが、下の宮の案内板には、ここから少し離れた場所に岩の洞穴のようなものがあり、そこを「籠岩社」として牛飼姫を祀っているようでした。

このことから、磐長姫と牛飼姫は本来は別に存在し、のちに同一視された可能性もあります。

ということで、とりあえず磐長姫にご挨拶するために登りましょうか、この岩を。

我らは岩の側面を登っていくわけですが、大丈夫。
フょースを信じさえすれば、”道がないところでも道があるように見えてしまう”ので、登っていけます、大丈夫、たぶん。

なんとかたどり着いた岩の上には、大人数人が寛げるくらいのスペースがありました。

舟形石とでも呼びましょうか、ソファのような石もありました。

そういえば、貴船神社の結社(ゆいのやしろ)にも、天乃磐船(あめのいわふね)という石が奉納されていましたね。

岩の頂きにナナメりながらチョコンと鎮座する、こちらの社が「鼻繰社」。
ここに磐長姫が祀られています。
何だか愛おしい、萌え社です。

今回、気づかずスルーしてしまいましたが、この山の八合目あたりの横道の先に、水が滴り落ちる磐座があったようで、それは「乳岩」と呼ばれているそうです。

乳岩にはコノハナサクヤヒメが祀られているそうですが、磐から滴る乳水ならば、それはイワナガヒメのお乳、おちち水(変若水)だろう!というものです。

飯盛山山頂のここからは、今は雑木が茂って展望はよくありませんが、かつては東に父神の籠る大山、西に母神の籠る佐比売山が望めたといいます。
朝日に父神を崇め、夕日に母神を讃える聖地、ここはそんな場所です。

そして先ほどまで、登山中は無風で額に汗を流しましたが、この頂に至ると、とたんに心地よい風が吹いてきました。
鼻繰社の鎮座するこの場所は、そう、清らかな風の通り道。
ここよりもっと良い場所など存在せず、イワナガヒメが居と定めたこの場所こそが、最善の地だったのです。

日本神話はイワナガヒメに、全くもって酷い設定、不遇の人生を強いてしまいました。
しかし彼女は本当に、不遇・不幸だったのでしょうか。

当地、島根県安来市広瀬町の比田地方では、例年田植えの時期である5月に「花田植え」神事が催され、大変賑わうのだそうです。
花田植えとは一般に、大勢の早乙女が左下(さげ)の太鼓や唄に合わせ一斉に田植えをする行事を指しますが、比田地方では牛供養として伝えられています。
一時期、農機具の普及が進んだことに伴う農耕牛の減少により途絶えていましたが、平成元年、当時首相であった竹下登氏による『ふるさと創生事業』にあやかり、平成4年5月「牛供養・花田植」として復活をとげています。

また4月24日に縄久利神社・春の例祭として古伝祭「花傘神事」が行われています。
芥子の花の造花が無数に付いた「傘鉾」が立てられ、その花は蓄牛馬の霊符として効験あるとして、持ち帰って厩舎繁盛と無病息災を祈るのだそうです。

宮崎銀鏡神社のイワナガヒメもそうでしたが、彼女にコノハナサクヤヒメのような見目麗しい伝承はないものの、ここ奥出雲の比田の郷でも、姫神は里人の健やかさを願い、里人らは姫神のことを慈しんでおられました。
相思相愛、そんな優しさに包まれる姫神のことを、僕はことさら愛おしく思うのでした。

築貫神社という神社が松江市西岩坂にあるようです。ここは磐長姫主祭神とのことです。
淀江の日吉神社のアメノサナメという珍しい名前の神様が気になり、磐長姫にたどり着きました。
このツヌキ神社の由来を調べてみました。(以下コピペ)
築貫神社と磐長姫の伝承この神社が鎮座する室山(むろやま)の東麓には、次のような切なくも神秘的な物語が残されています。安住の地を求めた旅:神話において、妹の木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と共に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のもとへ嫁いだ磐長姫命ですが、その容姿を理由に一人だけ父神のもとへ追い返されてしまいました。失意の磐長姫命は安住の地を求めて国々を巡る旅に出ます。「つきぬき」の由来:旅の果て、海の入り江の最奥(行き止まり)に達したところで舟が着きました。この「舟が着いた(突き抜けた)場所」であることから、この地が「築貫(つきぬき)」と呼ばれるようになったと伝えられています。
女人禁制の神田:現在、舟が着いたとされる場所は「舟窪(ふなくぼ)」と呼ばれる沼田になっており、かつては「神田」として一切の不浄や女性の立ち入りを禁じる神聖な場所とされていました。
境内の雰囲気と周辺環境神社は椎(シイ)の巨木が立ち並ぶ神秘的な鎮守の杜に囲まれており、すぐ近くには「元田瑠璃光薬師如来堂」というお薬師様のお堂もあります。
なお、西岩坂地区には他にも、出雲国風土記に「石坂社」として記されている古社「磐坂神社」や、巨木で知られる「志多備神社」などが点在しています。少し分かりにくい山際にありますので、もし参拝される際は、地元の歴史や道をよく知る方に確認しながら向かわれるのが安心です。
↑ どうも、見つかりにくいお社のようですね(^_^;)💦
淀江の日吉神社のアメノサナメちゃんは、湧き水があり、冬にその池に張る氷の厚さで次年度の稲作の豊凶を占う神事があったそうです。その池や湧き水のある泉の敷地内?に、サナメホールを淀江町が建てた。。ということで、建設中の続出した人身事故は祟りだとか曰く付きです。
アメノサナメは、古来海神でもあり、農耕の神様でもある。。
磐長姫と似た神性がある気がしますね私にはそう思えてなりません。
磐長姫の別名にコケムス姫とあるそうですね。磐座についている苔。千年万年の寿命からくる苔むす磐座。
サナメ宮も呼ばれていた淀江の日吉神社も苔むす素敵な神社ですね。。
私のこじつけかもしれませんけど。。
佐毘売山からチビ姫佐毘売山と、姉のサナメ。サナメは出雲の知井宮あたりの「滑狭郷」ナメサ郷と昔は呼ばれてた地域と関係性があり、山の神、農耕の女神が元にある伝承なのかもしれません。
そして、冒頭にお伝えした、ツヌキ神社は磐長姫が主祭神ですが、田んぼと船着き場、という、海神と農耕神の両方を兼ね備えた伝承があります。
淀江日吉神社のアメノサナメとは
私にはサナメ→ナメサ→ちょっと磐長姫関係性あり? だったら出雲の
神門家の管轄のナメサ郷とも絡むよね、と繋がってきました。
チビ姫サヒメ伝承から、姉的存在の隠れたキャラ、サナメちゃんが、気になって気になって。
それもこれも、淀江日吉神社のみに祀られてる、主役級のアメノサナメさまのせいでございます。
しかし、アメノサナメをしらべてなんだか磐長姫とかスセリヒメとか気になるなあと思っていたら、縄久利神社ですか。。なんともつながるもんですね。そんなもんですかねえ。
築貫神社は気になりますね
はい。興味深くいま、気になっております。しかし探せる自信はありませんが(^_^;)💦
始めは、志多備神社が近いなら、余裕、余裕じゃあーん、行ったことある地域じゃからとナメてましたが。。
唯一、書かれてるブログを見つけました。
https://jinja.matsue-hana.com/jinja/tukinuki.html
分かりにくい予感
吉報は
ここに行くときは
ワシの大好きな
東岩坂珈琲に道中寄れるぢゃ〜ん☕のみ。
こちらのブログに度々登場される、ツワモノ(失礼、面識もないのに、ツワモノ呼ばわりしてしまうご無礼をどうかお許しくださいませ)っぽい。。。
シズさまや、ナリサワさまのように山に慣れておられ五感が研ぎ澄まされてる方々を羨ましく尊敬いたしまする。
だってワシ。熊怖し、方向音痴。ふつーの、ごくごく普通〜のか弱い民です(笑)
私からすると皆さん山伏にしか見えません。五条先生もです。
あ、これを変態アドレナリンが漲るタイプと言うのですか(笑)
でも、なんとかたどり着きたいお社ですね。東岩坂珈琲でガンバ。。。ろう。。
narisawa110
たった今気付いたんですが、あてくし、岩永姫を妹の方だと思ってましたww事件であります。
神話と日向系図、出雲伝承で言えば、邇邇芸の妻の越智の木花咲耶姫(アタツ姫)はお姉さんで、同じく邇邇芸の妻の豊玉姫の方が後妻さんで妹になってるわけです。
つまりは逆なんですよね。
出雲伝承による出来事や登場人物は使い回しされており、イザナギとイザナギの出来事は、不仲であった垂仁と、ヒバス姫のことであったと書かれています。
神武の設定は歴史が消された事により三つの可能性が一つにされ架空化されています。
なんとなくなんですが、垂仁の前妻である狭穂姫と、後妻さんのヒバス姫、もしくは、狭穂姫の前に結婚してた垂仁の奥方の関係の投影であったと考えていました。
サクヤヒメも、狭穂姫も炎の中でお子さんが云々でしたよね。設定が使い回しされてる様な気がします。
また、生まれたトヨ姫が、豊玉姫の前の婚姻時点での子供と噂されたのか。
記紀においては神武の後に海幸彦、山幸彦が出てきた事になっていましたっけ。
後に日下部連になる磯城前政権の血筋、大丹波のヒコイマスの系統は、確か男系が息長王や、オオツツキに繋がりますので、そういう流れだと思ってました。
別の考えとしては、垂仁は東征に出ていますので、その時点で彼に子供が居た可能性が高いと思います(豊彦にも既に子供が居ましたよね)
その血筋が生き残ったから岩永姫を大事に祀れたような気もしてきますよね。
離縁はしたが、実家にお返しはしてなかったんじゃないかとww
海幸彦、山幸彦は、厳密には豊家と物部氏を含む可能性があります。
崇神が開化の子にされた事により豊彦の子ががヒコイマス系譜に入れられたわけですから。
何にせよ物部氏が親子二代続けてお子さんで苦労した様な書き方になっててww
イワナガ姫=豊玉姫、ではないと思います。
イワナガ姫に相当する人物は、別にいたのかと。
それと別に、富士山のコノハナサクヤヒメはサホ姫だと、B氏は考えておられるようですね。
僕は、富士山は女神というよりは、男神(クナト)の山だと考えていますが。
narisawa110
木花知流比売が、サクヤヒメの妹とされているのに、系図だともっと昔の大国主、ヤシマシノミにお嫁入りしていますので、ここでも逆転。
浅間神社の宮司家の系図見てみますか。うーむ。
チルヒメがいましたね。