出雲族は朝日信仰をもち、日の出を拝んだ。
大和に王権が出現する以前に存在した古代出雲王国の支配地には、「朝日」という地名が多い。
とくに春分、秋分の日に山から朝日直射す日は、季節を知る大切な日でもあり、都で大祭が行われた。
陸奥国津軽から筑前国宗像までの、出雲王国の各地から代表が都に集り、首長らの会合が催された。
美しい姿の山「大山」に昇る太陽を、出雲王国では祭りの日に、都に集合して拝んだ。
その拝所を霊時と云い、大切な斎場が現・松江市大庭であった。
伯者国の大山は、『出雲国風上記』に書かれているように、古くは「火神岳」と呼ばれ、火神(日神)が祀られていた。
一般的に言われる大山津身之神は、元は大山に宿るクナトの大神で、出雲王朝の神、祖先神(幸神)であった。
– 谷日佐彦 著『事代主の伊豆建国』-
中国地方最高峰の1,709mを誇る名峰「大山」は伯耆富士の呼び名も名高い、山陰屈指の聖地です。
大山の中腹、海抜900mの地点に「大神山神社・奥宮」(おおがみやまじんじゃ・おくのみや)があるというので訪ねてみました。
中腹とはいえ、近くまで車で行けます。
駐車場から参道を登って行くと、「大山寺」(だいせんじ)の山門が見えてきます。
その左手に、大神山神社に向かう道がありました。
鳥居を過ぎでてすぐに地蔵などがあり、神仏習合の名残を感じさせます。
そこからはしばらく、なだらかな石畳の参道が続きます。
この一ノ鳥居から本殿まで、約700mにわたって続く自然石が敷き詰められた参道は、石畳の参道として日本一の長さを誇るといいます。
一見歩きやすそうですが、実際には微妙な凹凸もあり、意外と足を取られてしまいます。
この参道は「歩くだけで浄化される」との話もあるようです。
大山は、古くは「大神山」と呼ばれていました。
その名は出雲の幸神(さいのかみ)信仰の大祖神「クナト大神」からきていると、富王家伝承は伝えています。
出雲族の歴史は、インドのドラヴィダ族の日本移住に始まります。
そのドラヴィダ族を率いたのがクナト王でした。
十数分、歩きにくい参道を登ると、ニノ鳥居が見えてきました。
そこにある天然石の手水舎は、もちろん手口を清めるためにありますが、御神水として飲用することもできるそうです。
手水舎の向かいには、神仏習合時代の本坊跡がありました。
「後ろ向き門」と呼ばれる神門が見えてきました。
その向かいには、荒れた道が別に続いていますが、
こちらは旧参道ということです。
この門、名の通り後ろ向きに建てられているそうです。
なぜそのようになっているのか、複数の説があるようですが、明治8年の神仏分離により、今の奥宮と現在の下山神社が神社名義として残り、廃寺になった西楽院の門が奥宮の門としてそのまま移転したので、後向きとなったという説が有力なようです。
「後ろ向き門」をくぐると、60段を超える階段の向こうに、目当ての奥宮が姿をあらわします。
濃密な、山の気が圧してきます。
山から吹き降ろす風も、強くなってきました。
一歩ずつ登る足に、体の重さが乗しかかります。
ついにたどり着いた奥宮。
「本殿」「幣殿」「拝殿」を一体化させた「権現造り」は日本最大級であるということです。
峰を背に両翼を広げる「長廊」(わたどの)と呼ばれる社殿は、
超広角レンズでもフレームに収めきれません。
とにかく美しい社殿。
祭神は「大己貴命」(おおなむちのみこと)。
拝殿内はとてもきらびやかで、美しい造りとなっていますが、内部に入っての撮影は禁止されているため、詳細をお見せできないのが残念です。
向拝の上には、見事な龍の彫刻があります。
T字に突き出た本殿。
境内の横には、大山の登山口があります。
他に「宗像三女神」と「大山津見」を祀る弁才天社、
不慮の最期を遂げた備中の役人「渡邊照政」公を祀る「下山神社」神社があります。
弁財天社に祀られる大山津見ですが、富王家伝承によると、大山の名はその神の名から付けられているようで、大山も元はクナト大神を祀る大神山と呼ばれていました。
つまり、大山津見はクナト神である可能性が高く、
古来から当地に祀られていた神であると思われます。
下山神社は、もともとは別の場所にあったそうですが、
夢のお告げによって、この地に移されています。
その後、その凄まじい霊験があり、多くの武将らから信仰を集めたということです。
さて、帰り道は石畳の道ではなく、途中から旧参道の方へ向きをかえます。
そこには「賽の河原」と呼ばれる渓谷があります。
河原のいたるところには小石が積まれ、
その先にはぽっかり口を開けたような、岩の門があります。
この大きな岩の門は「金門」(きんもん)と呼ばれ、霊峰大山のエネルギーが大地へ注ぐ、古代から続く神聖な場所です。
この大岩はかつて、僧や行者が命を懸けて飛び降りた、荒行の場でもありました。
かつての大山寺の僧兵は一騎当千の強さを誇り、三院にして百八十坊、三千人の僧兵を擁するようになったと云います。
『勝見名跡誌』には伯耆大山の智明大権現と因幡鷲峰山の鷲岸大明神が仲が悪く戦をしたとの伝承が残されています。
金門の端まで行ってみましたが、断崖絶壁から吹きすさぶ風に、思わず身震いしました。
振り返れば、霊山から降り注ぐ山の気にも圧倒されます。
さて、参道入り口にあった山門をまっすぐに進み、急な階段を登ると「大山寺」に至りますが、一旦下りて、また下から登るのはしんどいので、奥宮からの帰り道でショートカットしました。
大山は神仏習合期、智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とするようになります。
そうして建立されたのが大山寺です。
当院は元弘3年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇も鎌倉幕府打倒の祈願を行ったと云われています。
やがて明治8年(1875年)の神仏分離令によって大山寺は廃され、山腹の智明権現の仏塔を廃し、地蔵菩薩を除いて、社殿を奥宮としました。
今の大山寺は後に再建されたものです。
大山寺に伝わる伝承に「大山二羽鳥の伝説」というものがあります。
「大智明大権現」の殿堂を造営するときに、巨大な岩が道がふさいでいました。
寺の僧はこれを取り除こうとしますが、なかなか上手くいきません。
僧が途方に暮れていると、二羽の不思議な鳥がやってきて「仏の徳」を説きはじめました。
「大山多宝佛、関鑰御金門、應化身垂跡、釋迦両足尊」。
すると、岩は簡単に取り除かれ、工事はスムーズに進んだと云います。
この偈(げ)のゆえんによって「大山」と「金門」の名が付いたと伝えられています。
大山の麓、米子市尾高にも大神山神社が鎮座します。
こちらは山腹の奥宮に対し、「本社」と呼ばれます。
住宅街にポツンとある当社。
境内入り口には、石積みの大灯籠があります。
大山は、平安時代には修験道場として著名な山となりました。
しかし冬の大山は雪深く、祭事に支障が生じるため、麓に「冬宮」を設置し、冬期はそこで祭事を行うようになったと云います。
その冬宮が当社本社であり、奥宮は「夏宮」と呼ばれました。
奥宮の祭神は「大己貴命」でしたが、本社の祭神は「大穴牟遅神」となっています。
どちらの神も「オオナムチ」と呼びますが、一般にはどちらも大国主の別名であるとされています。
しかしオオナムチとは「大名持・大穴持」のことで、古代出雲王国の主王の役職名を表す名称でした。
副王は「少名彦」(スクナヒコ)と呼ばれました。
大国主、個人名「八千戈」は出雲王国8代目の大名持でしたが、出雲王国が滅亡する17代まで、つまり17人の大名持が存在します。
出雲王国は西王家の「神門臣家」(かんどのおみけ)と、東王家の「富家」(とみけ・向家)の二王家で交互に大名持を勤めました。
出雲族は春分・秋分の日に山に昇る太陽を特に神聖視し、その日は都で大祭が行われました。
春分・秋分の祭りには、津軽から宗像までの、出雲王国の各地から代表が出雲に集い、首長らの会合が催されます。
そして美しい姿の「大山」に昇る太陽を、霊時と呼ばれる斎場で、皆して拝んだのです。
その祭りの庭は、今の松江市大庭、富家の王宮のあった神魂神社付近であったそうですが、当社も大山の遥拝所の一つだったということです。
つまり当社が冬宮と称される以前から、当地は大切な聖地だったということです。
さて、大神山神社・本社でちょっと変わったおみくじを見つけました。
大吉か凶か、二者択一のおみくじです。
大吉か凶か、
大吉か・・・凶・・・か・・・
だいっ
吉でした~、スリルまんてん!!
大吉の方には大吉用の、凶の方には凶用のお守りも授与していただけます。
まあ、おごらずくさらず、日々を誠実に生きなさいということです。
日本にも朝日を信仰する文化があったんですね。
出雲って行ったことないけど、行きたいと思っている場所。
神秘的な場所ですね(^^)/
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出雲は良いところですよ。
人気なのは出雲大社と八重垣神社のようですが、もっと深いところを探索するのも楽しいです。
最近はやはり、外国人観光客が目立ってきて、静寂な感じではなくなっていますが。
神秘を感じたいなら、早朝参拝がオススメです。
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