出雲井社:八雲ニ散ル花 03

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日本人はどこから来たのか。

3500年以上も昔のこと、西北方から戦闘的な民族がインドを侵略した。
彼らはアーリア人と呼ばれていた。
農耕民族だったドラビダの民はアーリア人の奴隷にされた。
この時、ドラビダのクナ地方を治めていたクナト王は、民を引き連れて移住を決意した。
民族大移動である。
王はバイカル湖方面からやってくる商人から、シベリア南方の大海原の中に、住民の少ない温暖な島があると聞いていた。

クナの民族は出来得る限りの食料を家畜に背負わせ、旅立った。
ゴビ砂漠を越え、バイカル湖を渡り、アムール川を下った。
敵対民族に出会さないようシベリアを抜け、北海道から日本へ上陸した。

定住に相応しい平地はいくつかあったが、一族は更に南を目指した。
行き着いたところは日本海に面し、冬には雪深いところだった。
なぜ彼らは、そこを定住の地としたのか?
その訳は、黒い川があったからだと云う。
今は斐伊川と呼ばれるその川からは良質な砂鉄が採れた。
砂鉄を取るときに使われた器具を「簸」(ひ)と言ったので「簸の川」となった。
タタラはインド語で「猛烈な火」を意味する。
砂鉄からは野ダタラで容易に鉄が出来た。

極寒の冬が過ぎると、その場所にも春が訪れる。
故郷のインドは熱帯で、濃緑色の常緑樹が繁っていた。
それに対し、ここでは春に芽吹いた森の色が、目にしみるように美しく感じられた。
そこは出づ芽の国、「出雲」と呼ばれた。

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出雲大社の東のはずれ、集落の先に「出雲井社」(いずもいのやしろ)があります。
大社で神主にここを尋ねると、摂社であるにも関わらず、怪訝な顔をされるといいます。
ここは出雲を裏切った、天穂日の一族には、掘り返されたくないものがあるのかもしれません。

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出雲井社は民家の先の、小さな杜に、ひっそりとある小さな社です。
しかしそこに足を踏み込んだ僕は、その清浄たる世界に、一瞬目を奪われました。

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小さくも堂々と立つ社の姿は、まるで古代神殿の遺跡のような、そんな様相でした。
これこそが、古代から、真の出雲の民に祭祀されてきた聖なる社でした。

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御祭神は「岐神」(クナドノカミ)とあります。
「久那斗大神」「久那戸神」(クナト)、「フナトの神」などとも呼ばれます。
由緒には創作された、史実とは異なる神話の内容が記されていますが、実体は古代インドのドラビダ族の「クナト王」を神格化したものと云います。
クナト王の后を「幸姫」(サイヒメ)、その子を「サルタ彦」として、この三神を「幸神」(サイノカミ)として出雲の民は祭祀したそうです。
出雲大社の祭神とされる「大国主」は、後の出雲王のことなので、幸神こそが真の出雲の神であると言えるかもしれません。

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出雲は「出雲臣家」と「神門臣家」の二つの王家によって治められていましたが、出雲臣家は後に「向家」や「富家」と呼ばれるようになります。
この出雲井社は、富家の事代主の御子たちが、幸神を奉じて大和や伊勢に移住したことを記念して、出雲に残った富家の人たちが建てた社だそうです。
それは当然、大社創建よりも遥かに昔の話となります。

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本殿の裏側に回ってみました。

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そこに大きな磐座がありました。

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磐座信仰もまた、出雲の祭祀の特徴のひとつです。

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古墳時代までは父神クナト大神と母神幸姫命と子神サルタヒコが日本の最高神だったと伝えられます。
出雲王国の滅亡により、クナト大神の信仰は隠され、記紀の創作により、クナト神はイザナギに、幸姫命はイザナミや瀬織津姫、太陽の女神に変えられました。
クナト族の車戸氏が禰宜を努めていた滋賀の「多賀大社」は、もともとクナトの夫婦神を祭神としていましたが、今は伊邪那岐命と伊邪那美命の2柱を祀り、摂社として猿田彦大神を祀っています。
このように、飛鳥・奈良・平安の時代に記紀の伝承に合わせて、各地の社では祭神の書き換えが行われたそうです。

https://omouhana.com/2017/08/24/多賀大社/

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現在、「岐神・塞の神」は、村堺・峠・辻などに祀られ、「外敵の侵入や悪霊を封ずる、さえぎる」神であると云われています。
しかし本来は、隣人や近辺の諸国を結んでいく、肯定的でおおらかな神でした。

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出雲井社は、そんなクナト大神の本来の性質を表したかのような、包容力で包まれていました。

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ただし、この看板には、思わずビビります。。

2件のコメント 追加

  1. narisawa110 より:

    いわゆる神改めの時期ですが、明治以外では桓武天皇の代で少なくとも一回は行われていると考えています。
    諏訪大社も桓武期に現在の御柱の祭祀体系が出来たとも言われ、都は道教から陰陽の四神対応がなされました
    霊的に日本国土を強化した時期ではないかと考えられ、諏訪大社がタテミナカタに変えられたのではと思っています
    確か、初代大祝は、桓武の意向で長野に来た様な話を何処かで見かけた気がします。
    更に、温泉寺と呼ばれる地域には、偉い人と一緒に移住してきたという伝承が残っており、今でも御柱の祭祀には世襲の役目が残ってたりします

    よく考えてみたら流石に自分様を祀ったりはしませんよね、タテミナカタも

    そんな中を掻い潜ってクナトの大神の名前をそのまま残す神社は本当に貴重だと思います

    現在の出雲王家本は初代のクナト国に関してはあまり公開されていない様で残念な気がします
    50代くらいは続いていた様ですね

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      クナト社を繋いでみると何か見えてくるのかもしれませんね。そう言えば山形の月山登山中に、隠されたように祀られたクナト社を見つけました。
      斎木雲州氏の著書や口伝伝承は、いわば扉を開く鍵だと思っています。扉を開いてそこに何を見つけるのかは読者次第。だから本だけ読んでいても古代の全貌は見えてきません。narisawaさんや僕のように、現地に出かけて行って扉を開かないと、答えは得られないのではないでしょうか。

      いいね

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