
「孝霊山って、前妻後妻から取り囲まれたフトニさんが、”あわわ”してるように見えるんよね」ってizumeさんが話してましたが、なるほどこの角度で見ると確かに

見えなくもないわ、あわわ。



さて、izumeさんが「スセリ姫の終焉の地が淀江にあるのが気になる~」っていうので、どれどれ、やって来ましたよっと。

鳥取県大山町唐王に鎮座の「唐王神社」(とうのうじんじゃ)なのですが、

鳥の扁額は「松籬社」(まつがきしゃ)とあります。

『鳥取県神社誌』によれば、「菅原道真は古来天満宮と号し壹宮神社の摂社なり、明治元年10月神社改正の際唐王神社の境内に移転し松籬神社と称せしを同12年允許を得て唐王神社と改称合祀せらる」とあるようで、明治元年に天満宮が唐王神社に合祀され松籬神社となったが、明治12年に再び唐王神社に改称された、ということのようです。ややこしいね。

当社の創立年月は不詳。
「須勢理毘賣命」(すせりひめのみこと)と「菅原道眞」が現在の祭神となっています。
須勢理毘賣命は古来「唐王御前」と称され、当地・唐王集落の氏神でもあります。

スセリ姫はスサノオの娘とされ、父の科した試練である毒蛇・毒虫の災難から大国主を救い、彼とめでたく結婚したという物語りが、記紀神話に語られます。
そのため当社祭神は毒虫除け、マムシ除けの守神として多くの参詣があり、
「まーむし、まーむし、よーけよけ、唐王御前さまのお通りだ」
と当地では山や茂みや草むらに分け入る時に唱えるのだそうです。

境内に足を踏み込むと、一斉に注がれる熱い視線。

すんません、すんません。
あっしは悪いムシじゃございませんので、お見逃しくだせえ。

社伝によれば、スセリ姫は、父スサノオが棲まう夜見の国(黄泉の国)から大国主と共に現世の国に帰ってきて、この地を治め、稼穡(農業)の道を広げ、様々な苦難から心身を救う神呪の法則を世に伝えたといいます。
その後、大国主は日隅宮(日御碕神社)に鎮座し、スセリ姫はこの地に鎮座した、と社伝にはあります。

ゆえに古くから「本殿下の碑石がスセリ姫の御陵である」とも言い伝えられていました。

大元出版ではフィクションの人物とされるスセリ姫ですが、記紀ではヤガミ姫をイテコマして、木の股に娘を投げ捨てて逃げ出させるほどビビらせて追い返した、そんな嫉妬の女王がなぜこのような場所(淀江)にて、一人寂しくお亡くなりになっているのか
また『延喜式神名帳』出雲国神門郡に記載される出雲市東神西町に鎮座の「那賣佐神社」(なめさじんじゃ)は、スセリ姫の出生した地とされていますが、この辺りとの関係が非常に辻褄が合わない気が致します。

まず、当・唐王神社において、スセリ姫を「唐王御前」と呼ぶのは、彼女が唐の王族で唐の国から渡ってこられ、阿弥陀川河口付近の白川に上陸されたから、と云われています。
支那国が「唐」と呼ばれた時代は618年~907年で、日本でいうと飛鳥時代から平安時代にあたります。
これでは全く時代が合いません。

社伝では、中世は海洋を隔てた外国を全て「加羅」(から)と称しており、記紀神話の夜見国を唐土(加羅)になぞらえた、と説明します。
ある方から聞いた話では、出雲のチャネラーのお一人が、「スセリ姫は秦国の徐福の姉であり、徐福に先立って来日し、大国主の妻となっていたが毒殺された」と霊視したということでした。
確かに、出雲王に嫁いだ秦国の姫君が、王殺害の首謀者の姉であったなら、その報復として殺害され、ここに埋葬されたと考えることもできそうです。
ある意味、興味深い話だと私は感じましたが、ここに来てやはり矛盾・違和感が生じます。

スセリ姫が大国主と離れて、なぜ淀江で亡くなられているのか、という疑問の答えとして用意されているのが、『日本書紀』の国譲り神話でした。
『日本書紀』「巻第二 第九段一書第二」に次のようにあります。
大己貴神(大国主神)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大己貴神の幸魂奇魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のために護られよ」と詔した
と。つまり、天津神(大和朝廷側?)の信頼を得るためには、国津神の妻(スセリ姫)を捨てて天津神であるミホツ姫を妻に迎えなさい、ということです。
しかしこの話は、富家伝承を知る者としては奇異に感じます。
記紀及びそれに即した一般常識では、大国主=大物主とされていますが、富家は「三輪山に祀られた大物主とは、東出雲王家8代スクナヒコ・事代主のことである」と明かしているからです。
事実、ミホツ姫=ヌナカワ姫を娶ったのは、事代主(八重波津見)でした。
つまり、西出雲王家8代オオナモチである大国主(八千矛)がミホツ姫を后とした事実はなく、それによってスセリ姫が彼と別れて暮らす理由がないのです。

また、スセリ姫=秦国の姫で毒殺された説も、徐福がその後、西出雲王家の親戚である宗像王アタカタスから末娘を妃に貰い受けていることを考えると、実に不自然に感じます。
個人的な考えとしては、大国主・事代主殺害に徐福は関与しておらず、アメノホヒ並びに息子のタケヒナドリ、それと一部の童男童女らによる犯行であり、スセリ姫云々はまた別の話ではなかろうか、と思うのです。

そのようなことから、私個人としては、スセリ姫のモデルとなる女性は存在したと考えるものの、当社祭神の須世理毘賣命と那賣佐神社祭神の須勢理姫命の関連性は薄く、二者は別人ではないかと思います。
奥出雲や松江にあるイワナガ姫の伝承とも、関連性を見ることはできません。

いつの頃か、異国の高貴な姫君が当地に辿り着き、薬草か何かの斬新な文化をもたらした、それが毒蛇・毒虫の災難から大国主を救ったスセリ姫の話と混同されたのではないでしょうか。
「まーむし、まーむし、よーけよけ、唐王御前さまのお通りだ」
境内で軽く口ずさんだ時、村人たちに慕われ幸せに暮らすものの、ふとした時に故郷の国を想い寂しさがよぎる、そんな姫君の横顔が見えた気がしたのでした。

勘違いの検証(笑)
これです。
私が実在するかどうか不明の須世理姫の母を奇稲田姫だと古事記にあるような気がしてたのは
地元伝承。
ナメサ地区の伝承。
「須世理姫(すせりひめ)は、「八岐大蛇退治(やまたのおろちたいじ)」で有名な須佐之男命(すさのおのみこと)の御子で、いなだ姫を母に宮居し、神西湖の南端の麓谷に「岩坪」という「おう穴」があり、むかし『滑狭の郷(なめさのさと)』と呼ばれたこの地で誕生なされました。ここは、山と川と湖に囲まれた大変に風光明媚なところであり、そこですくすくと成長され美しい姫となられた。そんなある時、「因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)」で知られる大国主神(おおくにぬしのみこと)と出会い、すぐに恋に落ちてしまわれました。しばしば妻問いに通われた大国主神(おおくにぬしのみこと)を須世理姫(すせりひめ)は東神西の神待というところでお出迎えなされた。そのような双方の仲を見抜き、須佐之男命(すさのおのみこと)は婿として受け入れるために厳しい試練を課したが、それに耐え抜き認められめでたく結婚され、数多い后神のなかでも正妻として妻の座を守り大神を助けられた。現在、須世理姫(すせりひめ)は、大国主神(おおくにぬしのみこと)とともに東神西の「那売佐(なめさ)神社」に祀られ崇拝されています」
背景がわかってスッキリはしたものの。。。
あまりに富家伝承とは違いすぎて矛盾してる点と、
古事記にも明記されていない母を奇稲田姫と。
ここに奇稲田姫の系譜に和邇家というのも考えものだわ。。
唐王神社さん
日吉神社さん
私はもうお手上げで〜す
五条先生はスッキリされましたか。。。
モヤモヤ
度々失礼します
追記です
完全に間違えてました。
記紀には須世理姫の母のことは明記されてませんでした。
なぜ、須世理姫の母が奇稲田姫と、
思い出したのか。よくわかりません。。。。
うーん。イズメ(自分で言うか(笑))また混乱しちょるな
一旦リセット。
執着はいかん。
後に加羅王と呼ばれてたのが、だいぶ後になってから唐王御前と呼ばれるようになったってことはないでしょうか。。初めから加羅王や唐王御前と呼ばれてはいなかったのでは。。。うーん🙄
夜見の国といえば、弓ヶ浜半島、その当時は海。粟嶋神社も海中に浮かぶ島。弓ヶ浜半島一帯も、もしかして唐土(加羅土)と呼ばれていたのでしょうか。
唐土から来た。。弓ヶ浜半島を渡ってきた。。滑狭郷から川や海を渡って(現弓ヶ浜半島の海を渡り)大山の麓に辿り着いた。。ということはありえないでしょうか。
三穂津姫。が絡むともう完全にアウトですね(^_^;)
三穂津姫は事代主の后である沼河姫。もう完全に須世理姫の話はそこで仰る通りアウトです。別れた原因は三穂津姫、という設定自体がデタラメ。そこなんですよね。ここから須世理姫はフィクションとしか思えなくなってきますよね。例えば滑狭から弓ヶ浜の海を渡って大山に船で行くおなると、ちょっと先に美保神社、そして粟嶋神社がある。。
美保神社を住処にしていた事代主の后である沼河姫の存在を前面に出さないために、須世理姫の通った船のルートの先である美保神社に三穂津姫を被せて登場させたか。沼河姫自体も八千矛の妻という設定にしているし。。妄想(笑)
八千矛が八上姫と浮気した挙句、下照姫が生まれた。その後に八千矛は殺害されて、下照姫や多くの出雲王家の方々は大和へ移動した。八千矛の他の側室とは懇意にしていなかった孤独で失意の須世理姫は大和へ行くことはせずに、常世の地、弓ヶ浜の海を渡って、粟嶋を横切り最期は大山の麓に辿り着き終焉地にした。素戔嗚命が徐福だとすると。。立場的にも神西湖あたりからは去らざるを得ず。
無理あるなあ。ロマンはあっても
須世理姫が存在してた、と設定すると物語になっちゃいました。
弓ヶ浜がいつ頃できたかにもよりますね。
無ければ、ただの海です。
その海域を通ってきただけで、「夜見の国から来た」と表現するでしょうか。
その当時は海でしょう。さすがにそこを土、とは言えませんよねえ。。加羅土というところの地、ですもんね。
加羅海から来たならわかりますけどね。
弓ヶ浜半島ができてから加羅土と言われるようになったのでしょうね。いずれにしても唐王神社の由緒書きや伝承は後世に語り継がれたものだと思います。なにか原型となる史実はあったのかもしれません。
富家伝承には須世理姫は登場しない。古事記の創作したフィクションの姫君だったということかもしれませんが。。
しかし私は滑狭から神西湖や川、夜見の常世とされた海域を渡り大山麓に渡ってきた姫君がいた、と思うと音白いなあと思います。それは、沼河姫がなぜか大国主の后だったとされたり、三穂津姫の創作があってこれまた事代主と並んで美保神社に祀られていたりするのと同じくらいミステリーを感じます。
須世理姫でふと思ったのですが
父母は不明となっており、実在したかどうかも考察が難しい姫さまではありますが、古事記では一応、母が奇稲田姫となっていて、なんだか和邇家が関係しそうなのかな。。
古事記の信憑性はここでは置いといてですが。
須世理姫が嫉妬深いので、八上姫は大国主との御子を置き去りにした木俣姫=下照姫?事件。
これはもしかして、和邇家の系譜を持つ須世理姫、宇佐家の系譜を持つ八上姫の、
つまり隠岐島をめぐって争った因幡の白兎的な、和邇家と宇佐家の確執を比喩してる。。なんてことはないか。想像力です逞しい部類の(笑)
生誕地がナメサ神社で、終焉地が唐王神社。その出雲から伯耆の須世理姫の孤独な移動ラインと、ナメサから反転した語呂のサナメで関連性を見出せないかと、結構頑張りましたが、まあ、それを伺わせるような確証というか、伝承はなさげということですか。。
なんだか謎は深まるばかりで、この五条先生の記事を見ると別の女神が唐王神社には祀られていて、上記の須世理姫に被せられた経緯があるということでしょうか。
淀江は不気味です。
淀江や日吉津、箕蚊屋周辺は唐やら伽耶やら蚊屋だらけで。また淀江には唐来さんという姓の方が結構おられます。孝霊が高麗になって言われていたり。。。
私は淀江に移り住んだ外来種なので
この地の地名とか姓には疎いのですが、
実家のある安倍、旗ヶ崎近辺は
地名もその集落に住む人の姓も、
どこか粟嶋神社や島根半島に絡む部分があります。尼子、末次、そして私の旧姓(晒せません💦)、そして
安倍やら。地名とその集落によくある姓は侮れないなあと感じています。
富先生は、向山古墳や妻木晩田と向家の関係、なぜ向家の子孫である有力豪族がこの辺りに分布していたのか。。敢えてお書きになられなかったのでしょうか。
東出雲と呼ばれた出雲郷から近い伯耆、米子。こちらに移動してもおかしくはないし、サイノカミ信仰が根強くクナド大神の坐す大山の麓。まだまだ発掘すれば出てきそうです、色々と。
ところで、大山がよく見える、とくに大きく真正面にみえる国道9号線。日野川に大きく架かる日野橋の米子側。車尾(くずも)という地名あります。
個人的には勝手に
車尾はくずも、なんかクナト大神を彷彿とさせる地名だなあ、なんて前から思っています。
narisawa110
しまったw
古参の出雲伝承組は大きな間違いをするのが三穂津姫の事だと思いました。
ミホススミ=三穂津姫と思ってる人少なからずいると思う。
なるほど、この路線ならミホススミ=タテミナカタ説になるわけですよね。
三穂津姫はミホススミってことになってますもんね。
ミホススミ=タテミナカタってのはありうるのでしょうかね。ミホススミもたいがい謎です。
narisawa110
大国主が役職化されていて副王も大国主にされている事を失念していました。
大国主神の后の三穂津姫命とあることから、母親由来の地名であることを考え、ヌナガワ姫が三穂津姫と同一視されている視点の方が記紀的には一般視点のはずである。
これを見落としていました。
確かに目から鱗です。
そうなると、子供であるミホススミがミナカタと同一視される考え方が腑に落ちやすくなる気がしました。
いつのまにか行きなさったんでしょうか(笑)
謎ですよね、この神社。
那賣佐神社で出生して、ここ唐王神社が終焉の地というのも矛盾がある。。のですね。
伯耆の国のお社は、伝承的に整合性に混乱しちゃうお社が結構ありますのね。因幡の白兎も実は中部が起源とするお社もあったり、米子の成美にある阿陀萓神社も木俣姫やらアダカヤヌシタキキヒメの伝承あったりと。出雲の御井の刷り直しのような。まあ、何かあったんだろうなあ、という気はしています。近くにある宗像神社や蚊屋島神社にはきちんとした富先生の検証と伝承がありますから。東出雲王家の中心地から米子は近いので、何かはある気がしますが、調べようにもなかなか手こずりますね。
個人的には
淀江は伽耶、唐など、渡来系の女性が今で言う亡命?なのか移住してきたんだろうなと思います。地名もカヤがつく地名がかなり多いです。
あとは、妻木晩田や向山古墳、あの辺りには向家の子孫(その当時は富でなく敢えて向家としていたのかも)が大豪族として、
暮らしていたと、富先生の記録にあるところから推測したのですが、
伽耶からきた姫君や子どもたちの暮らしを向家が護っていたんじゃないかなあと思えてます。
あとはフトニさん(笑)
朝妻にメロメロになっちやったフトニさん。孝霊山は地元ではなぜか唐山と言われてるんですけど、細姫たちに囲まれて、ほんとアワワしてるように見える山なりですよね。そこだけいつもくっきり日が差し込んで。そういう日は必ずね、大山のほうは霞んでて見えないんですよ。
しかもね、大山の横にその3つの山が連なって、女性の寝姿に見えるんですよ(笑)かなり綺麗な女性の寝姿ですよ。スケベな、いや、もとい、セクシィ゙な形してますよ。それ見ると昔はね、女性の寝仏とか言って、綺麗だなあって見てたんですけどね、富家伝承を知ってからは、このフトニの女好きめ💢とか思えちゃうんだから笑えます。山にはなんの罪はないのにねえ。
フトニさんね、たいしたやつですよきっと。吉備王になって中央から鉄資源確保でも確約されたんですかねえ。。
私には、衆議院。。国会議員を将来約束されると信じて突き進んでいって
調子こいて側室作った上に地元の美女にメロメロになって、あれ?
いつの間にか地方の県会議員止まりになっちゃった現代の役人に見えますね。息子たちは英雄として後世に伝えられてますけど。
はい。辛口です。
女を泣かせるやつは
古今東西ろくな最期にはなりません
キッパリ💢
高杉神社のあの御神事は現代でいうと、なにハラになるんでしょうか💢
唐王御前が那賣佐(出雲)の出身というだけで、矛盾しちゃいますね😅
富家のことですから、流れてきた美女はかくまったんだと思います。良い意味で。。
大山の麓で、日野川や佐陀川が流れる淀江が、単なる集落であったとは思えませんね。
まだまだ何か出てくるのか。
古事記によると、速須佐之男命が「八雲立つ」を歌って、足名椎神を呼び、汝は我が宮の首になれ。と言って稲田宮首須賀之八耳神と名付けた。故、その櫛名田比売をもちて、隠所に起こして、生める神の名は八島士奴美神と言う、となってる。。
人麻呂ちゃんは
出雲王家初代主王・菅之八耳神。奇稲田姫の父ちゃんにして、素戔嗚尊こと徐福と奇稲田姫との間に生まれたのが八島士之身でっせと書いてることになる???
富家伝承では菅之八耳と稲田姫の息子が八島士之身。
また、須世理姫なんて娘としてどこにも出てこないことから、人麻呂ちゃんは、須世理姫を別の意図を持って登場させたとしか思えなくなりました。
和邇家と宇佐家の確執と菅ノ八耳、奇稲田姫って、なんか関係性ありましたっけ。
ありましたっけ。