「父上、ご覧ください。ようやく、先祖の神々も、長い旅を終えようとしています。」
そこには日置王と名を変えた太子の御子が、夕日を眺め佇んでいた。
…
都落ちをした太子の御子「日奉王」は、西出雲の神門郡の郷家に着いた。
旧西出雲王の子孫「神門臣」が出迎え、熱烈な歓迎の宴が催された。
その後、日奉王は、日置郷の官邸に移り住むことになった。
欽明天皇の御代に、富家の山代彦が亡くなり、その葬儀に大王の勅旨として参列したのが「日置志毘」だった。
彼は大和に帰らず、そのまま出雲に残り、王家の娘を娶って暮らし続けた。
太子の御子は、日奉部を額田部太后から受け継いで、日奉王となった。
しかし都では息長系の勢力が強くなっていたので、その迫害を避けるため、日奉王は日置氏の名前を継いだ。
日置氏は元は、朝鮮から渡来した一族だった。
「沈む日を祀る社を建てなさい」
祖母である推古女帝は、日置王にそう望んだ。
日置志毘が建てたという「御前の社」を訪ねてみると、そこは素晴らしい、理想的な場所であった。
「この社を元に、日を祀る社を建てよう」
日置王はその仕事に夢中になった。
三輪山の太陽信仰が日の出を尊重するのに対し、日奉部の太陽信仰は夕日を尊重すると言われる。
その地は平野から離れた位置にあったが、出雲でもっとも立派な神社が築かれつつあった。
日置王は官邸から、馬にまたがり冠を付けて当地に向かうのが常であった。
その垢抜けた王の偉容に、地元の人々は驚いたが、彼の人となりは出雲国造よりもはるかに尊敬を得ていた。
神門臣家も積極的に手を貸し、出雲の地にあって雅な社殿が出来上がった。
その社殿が立つ地は、沈む夕日が美しく、「日御崎」と呼ばれた。
日置王はそこに、L字に並ぶように二つの社殿を建てた。
一つには出雲太陽の女神を、もう一つには海部家・物部家の祖神を祀った。
太古より複雑に交わりあった両一族の祖神が、仲良く並び合うようにしたのだ。
それは長く続く因縁に和平がもたらされたことを意味していた。
日置王は上宮太子の御子であり、父君が大王になられた際は、都に戻るつもりであった。
しかし都の王権は、別の家に移った。
日置王は自分の寿陵を上塩冶に造り始めることにした。
そして日置王は、西出雲で生涯を終えた。
彼の遺体は、自分が築いた上塩冶の御陵に収められたと云う。
島根県出雲市、出雲王家にとって苦い記憶の地「薗の長浜」からさらに島根半島を北に進んだ場所、
日御碕海岸に鎮座する神社が「日御碕神社」(ひのみさきじんじゃ)です。
日御碕神社は「日沈宮」(ひしずみのみや)とも呼ばれていて、日本の夜を守る神社として有名です。
その造りは出雲では珍しい朱塗りのきらびやかな社殿となっています。
6世紀のヒロニワ大王(欽明)の時代に 旧東出雲王家の向家(富家)の山代彦が亡くなりました。
そのときの葬儀にヒロニワ大王の勅旨として「日置臣志毘」(ヘキノオミシビ)が参列しました。
志毘はそのまま都には帰らず出雲にとどまり、山代二子塚古墳を初めさまざまな古墳を築いたと云います。
また杵築郷に「御前の社」(みさきのやしろ)を建てましたが、これが後の日御崎神社となります。
日置氏はもともと渡来系でしたが、向家から嫁を貰い臣家を名乗ることを許されたそうです。
日御碕神社にある二社のうちの一つ、「日沉の宮」(ひしずみのみや)は、天暦2年(948年)、村上天皇勅命により「天照大御神」を祀ったのが創建と伝わります。
「天葺根」(アメノフキネ)が神域「経島」(ふみしま)で「伊勢大神宮は日の本の昼の守り、出雲の日御碕清江の浜に日沈宮を建て日の本の夜を守らん」との神勅を賜り、ここに奉ったと云い、以来、日本の昼を守る「伊勢神宮」に対し、「日御碕神社」は日本の夜を守り続けていると伝えられます。
富家が伝えるところによる日置臣志毘による創建の説において、日置氏は朝廷内において、日神祭祀に関わる職務を担っていたと云います。
”地上の聖火は天上の日神よりもたらされる”という話が、「日置」の名の由来に繋がっていると思われます。
日沉の宮から一段高いところから見下ろす、「神の宮」(かんのみや)は「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)が鎮座します。
スサノオは黄泉の国から「我が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げたところ、この神社裏の「隠ヶ丘」に舞い降りたそうです。
その後、安寧天皇13年(紀元前536年)、スサノオの子でオオクニヌシの父にあたる「天葺根」がこの地にスサノオを奉ったと伝えられています。
ところで創建の時期もバラバラにキーマンとして登場する「アメノフキネ」、彼は出雲王国7代目大名持の「天之冬衣」(アメノフユキヌ)、富家の王のことでした。
とするなら、彼がまだ出会ってもいない異国の人「徐福・スサノオ」を、ここに祀るはずがありません。
当社は上宮太子の息子、「日置王」が創建したというのが、真実のようです。
日置氏がこの出雲平野に円墳と前方後円墳を多く築いたので、西出雲がこの時代に大和政権に占領され、『出雲国風土記』に「日置の伴部らが…政治をした所」と書かれているのを、占領政治と誤解する人が多く出たようです。
しかし時の蘇我王朝が先祖として尊重する神門臣家を、攻撃し領地を占領するはずがないのです。
日置氏が大和系の古墳を築いたのは、単に神門臣家から出雲風の古墳にしてくれというオーダーがなかったからということだけのようです。
推古女帝も信奉した「日奉部」は、沈む夕日を尊重したと云います。
日御碕はまさに沈む太陽を拝するのに、絶好の場所でした。
日奉王は母君・貝蛸皇女から、祖母の后部の領地を受け継いでいたので、その財力をつぎ込み、美しい御崎に美しい社殿を築き上げたのです。
これを知った推古女帝は、大層喜ばれた、と伝えられています。
日置王の御陵とされる上塩冶築山古墳からは、背の高い石棺の中に、地方では珍しい銀張りの馬具と円頭大刀、さらに金メッキの金銅製冠が発見されました。
日置王はこの冠をかぶり、馬に乗って日御崎神社に通っていました。
彼は出雲の民に慕われ、国造の穂日家よりも人気があったと云うことです。
日の沈む当地に、出雲系と渡来系の大祖神が並んで祀られていることを知ると、とても感慨深いものがあります。
幾度となく辛酸を舐めた出雲王家は、それでも時が過ぎれば敵対した民を許し、受け入れて来たのです。
その途方もなく大らかで器の大きな包容性は、結果として王家の血筋を残し、今も生き続けています。
オホドの時代になると、大王家のみならず、和国の民の全てに、海部家・物部家・宇佐家、そして出雲王家などの血が、離れがたいほどに複雑に交じり合っていたのでした。
社域を出て、海岸線を歩くと、日御碕神社の神域「経島」が見えます。
古代出雲王朝時代から、記紀創立までを、富家の伝承を元に追い続けた当シリーズも、一応の完結を見ることになりました。
「八雲ニ散ル花」シリーズは、番外まで含めると110篇に上り、関連シリーズを「神功皇后紀」まで含めると200を超える大作となりました。
大元出版から出される富家の伝承本は、記紀が抱えた矛盾に明確に答えを示していました。
それがあまりに面白く、その検証をするため夢中で旅をしました。
まだまだ全てを旅し終えたわけではありませんが、一旦ここで幕を引きたいと思います。
日本は小さな島国であり、往古から幾度も渡来人による侵攻を受けて来ました。
しかし不思議なことに、日本が日本でなくなったことはなかったのです。
侵略者たちはなぜか帰化し、結局は「大和」という大いなる和(輪)の中に吸収されていきました。
それを為したのは、この日本が創り上げた素晴らしく美しい自然と国土だったのではないかと思っています。
真に「神」というものが存在するならば、それはまさにこの大自然に他ならないのです。
仏教もまた、古代出雲族の故郷「インド」で生まれ、中華の思想を経て、日本へやって来ました。
そして日本に今残り続ける仏教もまた、「大和」の輪に吸収された「和の仏教」となっています。
現代、日本人の心が壊れかけていることと、日本の自然が壊れかけていることは、僕には無関係には思えません。
今一度、日本を、「出芽の国」として蘇らせることが大切であると、故人達はその歴史で訴えていました。
このまま失われゆくのか、再び蘇るのか分かりませんが、可能な限り、カメラ片手にまた、旅に出ようと思うのです。