宇佐神宮:親魏倭王ノ都 05

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「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。」

238年、中国では魏国の勢力が強まり始めた頃、公孫氏や高句麗が中国の呉と同盟を結ぼうとした。
これに対し魏は司馬宣王を派遣して公孫氏を滅ぼし、楽浪郡と帯方郡を占領、韓国の属国化を進め、臣智らに印綬を与えた。

それを聞いた宇佐の女王「豊玉姫」は、自らも魏に朝貢し、印綬を受け取ることを考えた。
物部勢と手を組み、磯城・大和王国を攻める算段が進んでいたが、当時の豊王国は勢力も弱く、魏国に和国の女王として認めてもらうことで箔をつけたいと思っていた。
また銅鏡を魏国から貰い、それを地方の豪族に配ることで味方に付けようという思惑があった。
何としても大和より先に魏と国交を開くことを、豊玉姫は決意した。

豊玉姫は自分が大和の女王である、と魏に錯覚させようと考え、魏への使節派遣の準備をした。
『後漢書』「東夷伝」には、
「和国では、漢に使者を送る国がおよそ30ある。各国には王が居て、その家の者が代々後継者になっている。大王は、大和国に居る」
と書かれている。
豊玉姫は自分たちが、これから大和国を攻める予定だ、とは言いにくかった。
そこで自分が大和国に居る、と偽ることに決めた。

女王は伊都国の役人に指示し、魏から来た使者に都の場所が分からぬようにした。
要するに、魏の使者が女王の住む都に来ることを、自称「ヤマタイ国」は拒否し、使者は、伊都国にある役所までしか行けなかった。
結果「魏書」には、都の場所や方角が不鮮明になってしまった。
魏国は、宇佐豊玉姫にだまされたのだ。

いよいよ魏国への使節団が結成され、船が出港した。
そこには、但馬国から呼び寄せられた「田道間守」(タヂマモリ)の姿があった。
彼は朝鮮辰韓の渡来人「アメノヒボコ」の5世子孫であったから、韓国人との交流があった。
それで韓国語が話せ、漢文が読めた。
魏に行くためには、韓国を通らなければならない。
つまり田道間守は使節団には欠かせない人物であった。

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大分県宇佐市にある「宇佐神宮」は「宇佐八幡宮」とも呼ばれ、全国約44,000社ある八幡宮の総本宮であり、伊勢神宮に次ぐ、日本第二位の宗廟(そうびょう)として地位の高い神社になります。

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しかし宇佐神宮は九州大分の東端、国東半島の根元にあり、なぜかそれほどに重要な社は、こんな日本の外れの方にありました。

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「八幡宮」といえば「応神天皇」とその母「神功皇后」所縁の神社となっています。
実際に宇佐神宮の主祭神はこの二神と「比売大神」です。
神功皇后は応神天皇を出産するとき、八流の幟旗をかかげ、厳重な警護を命じました。
その後、八流の旗を奉納したのが八幡宮の起こりであると伝えています。

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ところが、神功皇后・応神天皇の伝承を追ってみても、肝心の「宇佐神宮」と関わる伝承は、とても希薄で曖昧なのです。
「岩獄稲荷社」などわずかな、小さな神社の由緒で、神功皇后が三韓征伐凱旋後に宇佐に向かったとあるばかりです。
あとは筥崎宮の神託で応神天皇の神霊が「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」と言ったとか、そんな感じです。

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中国の書『三国志』「魏書」に、女王は魏国から、合計「八本の幡」を受け取ったとあります。
そこにいう女王とは、いわゆる「卑弥呼」のことであり、宇佐の豊玉姫女王でした。
女王はこの八本の幡を、宇佐の社に飾ります。
この八つの幡により、社は「八幡神社」と呼ばれるようになったと云うことです。

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さて、長い参道を歩き、境内へとやってきました。

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境内手前にある「黒男神社」は武内宿禰を祀ります。
武内宿禰は300年生きた、謎の男とされていますが、武内大田根から襲津彦までの数代の武内一族をまとめて「武内宿禰」と一人の男であるかのように伝えているに過ぎません。
武内大田根は豊玉姫とも関わり深い人物ですが、ここに祀られているのは神功皇后のパートナーだった「武内襲津彦」の方であると思われます。

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境内入り口の大鳥居を過ぎ、

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砂利の音を響かせて、参道を歩きます。

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まずは手水舎で手口を清めます。

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見事な水盤です。
「延命水」の文字が霊験を感じさせます。

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うっそうとした杜に包まれる境内。
ここから先は、さらに空気が変わるのが分かります。

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苔や蔦に覆われた大木に囲まれるように建つ「春宮神社」(とうぐうじんじゃ)が鎮座します。

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春宮神社は宇佐神宮の主祭神とされる「応神天皇」の御子神を祀っているそうです。
学問にご利益があるとか。

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そして「祓戸」(はらいじょ)。
僕が宇佐神宮でいちばん好きな場所です。

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名の通り祭りなどの際にお祓いをする場所ですが、神々しさを感じる場所です。

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ここから大きな鳥居を抜けて「上宮」の御本殿を目指します。

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階段は、なまった体には少々きつめ。

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しかし美しい杜の中をゆっくり昇っていくと、不思議と体が軽くなっていきます。

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つい見落としがちな、本殿手前にある「夫婦石」。
一人の方は両足で、カップルは手をつないで一緒に踏むと幸せになれるそうです。

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さていよいよ本殿です。

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最も聖なる地へ足を運びます。

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神門の先には「神井」と書かれた井戸があります。

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その先に本殿・拝殿・社務所などが立ち並びます。

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宇佐神宮は本殿が3つ並んでいて、手前から一之御殿、ニ之御殿、三之御殿の順に
「八幡大神」(はちまんおおかみ)[応神天皇]
「比売大神」(ひめおおかみ)[宗像三女神]
「神功皇后」(じんぐうこうごう)[息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)]
が祀られているそうです。

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三社並んでいる場合、普通に考えれば、主祭神は中央に祭祀される「比売大神」となります。
ところが神社曰く、宇佐神宮でいちばん偉い神、いわゆる主祭神は、配祭神の位置にある「八幡神・応神天皇」となっています。
これは明らかにおかしい。

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ずっと謎とされ、多くの人が様々な説を唱えてありますが、これも富家の伝承に答えがありました。

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宇佐神宮本来の主祭神は、やはり中央に祀られる「比売大神」だったのです。
原初は「月読神」、「菟神」だったようですが、厳島で豊玉姫が亡くなると宇佐へ遺体を移し、葬儀が行われ、宇佐の神となったのです。

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拝殿に隠れて、本殿の姿がよく見えませんが、古代出雲歴史博物館にその精巧な模型がありました。

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それまでは宇佐の主神は「月読神」でしたが、途中で亡くなったとはいえ、豊玉姫の東征が成功したので、後世には宇佐八幡は武力の神と見なされました。
「比売大神」とは「姫巫女」の意味であり、「ヒミコ・豊玉姫女王」を指しています。
比売大神=宗像三女神ではなかったのです。

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時代が下がって、神功皇后は三韓征伐からの帰国した後、出産しました。
富家の伝承では、その子は武内襲津彦の御子だと云われています。
しかしその御子は7才で夭折したそうです。
神功皇后は、御子の死を隠して、付き合いのあった上毛野(群馬県)国造家の「竹葉瀬ノ君」を秘密裏に呼びよせて、自分の養子にしたと云うことです。
つまり応神天皇と語られる人物は上毛野国造家の竹葉瀬ノ君だったというのです。

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竹葉瀬ノ君は豊玉姫の長男、「豊来入彦」の子孫でした。
これに感銘を受けた宇佐家の人々は、喜んで彼とその母を、自分たちの社の祭神に加えたと云うのです。

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さて、宇佐神宮の参拝方式は「二拝四拍手一拝」となっています。
通常は「二拝二拍手一拝」であり、この特殊な方式は、宇佐神宮と出雲大社、弥彦神社など限られた神社でのみ、受け継がれています。

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境内には立派な御神木があり、その奥の建物は神功皇后の伝承を説く資料館になっています。

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境内社の「八子神社」(やこじんじゃ)は応神天皇の八御子を祀ります。
覆うように伸びた御神木にその霊が宿ると云います。

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裏手の「百段」と言われる石段は人食い鬼の力と八幡神が知恵比べをしたと言い伝えられます。

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その横には宇佐神宮の奥宮「大元神社」を遥拝する窓があります。

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そこから見える御許山の山頂付近に社があり、その先の禁足地には、これまた宗像三女神が降臨したと伝わる磐座が3つあると云うことです。
しかし宮島で亡くなった豊玉姫は宇佐宮から見える奥山に葬られたと云うことなので、そこはヒミコの御陵ということになるのでしょうか。

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宇佐神宮の上宮は亀山の上にあり、石櫃が発掘されたことがあると伝わります。
発掘後すぐに元の地中に戻されたとのことですが、ここは宇佐家代々の王の墓ではないか、と云うことです。

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さて、上宮を出るとすぐに「若宮神社」があります。

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応神天皇の子「仁徳天皇」と4人の皇子を祀っていると云われています。
この社殿前もかなりのパワースポットであると言う人もいるようです。

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そして杜を下っていくと、

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その先には「下宮」があります。

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上宮と同じ三神を祀る下宮。
古くから「御炊殿」(みけでん)と呼ばれ、神へ捧げる食事を調理していました。
こちらは庶民向けの神殿となります。

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奥には占いに使った「兆竹」(さましだけ)があります。

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魏の景初3年(239年)6月、和の女王ヒミコは、大夫「難升米」らを帯方郡によこし、魏の天子に直接会って朝献したい、と求めた。
郡の大守劉夏は、役人を遣わして難升米らを魏の都(洛陽)まで送っていかせた。
その年の12月、和の女王に返事の詔書が出た。

『親魏和王ヒミコヘ、詔(みことのり)する。
帯方郡の太守劉夏を遣わし、その方の大夫(正使)「難升米」、副使の「都市牛利」らが、貴殿の献上品である男生口(奴隷)4人、女生口6人、斑織りの布2匹2丈を持って到着した。
汝の住む所は遥か遠く、それでも使いを寄こして貢献した。
この汝の忠孝心に、我は甚だ汝を健気に思う。

今汝を以て「親魏和王」と認め、金印・紫綬を与え、封印して、帯方郡の大守に持たせた。
汝はこれを受け、国の民を治めて、我輩に孝順をつくせ。
汝の寄こした使い、難升米と都市牛利は、遠いところを苦労して来た。
難升米を率善中郎将(三署の長官)、都市牛利を率善校尉(宮廷侍直)と認め、銀印・青綬を与え、
我が直接会ってねぎらい、贈り物を与えて送りかえす。』

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上記の話は『三国志』「魏書」に記された内容です。
一般には『魏志倭人伝』と呼ばれる書物ですが、それは日本人が勝手に呼んでいる名称で、正確には『三国志』「魏書」巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条と言います。
古事記・日本書紀のような日本の官史と比べると、中国の官史ははるかに正確だそうです。
政権とは無関係の学者が、利害関係のある権力者がいなくなった後、すなわち前王朝が滅びた後に、その時代を記すからです。

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ただし日本人が嘘をついて都の位置を偽っていたり、書記者が勘違いしたりした記述もあるので、そこは注意して解釈しないといけません。
また、中国では人名を短く省略する傾向があるそうです。

豊玉姫が送り出した使節の頭は「田道間守」で、副使は「物部十千根」でした。
魏書では、田道間守の「タジマ」は「難升米」と略して書かれ、十千根入彦は「都市牛利」と記されています。
「牛」は、「子」の草書体の写し間違いであろうということです。

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和国の使節団が魏国へ到着したとき、洛陽の役人の間でちょっとしたざわめきがありました。
それは和国の使者が「神獣鏡が欲しい」と、申し出たからです。

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当時は道教の乱の直後であり、道教神の浮き彫りのある鏡の所持は禁止され、所持者は鏡を没収され処罰されました。
そんな折に事もあろうか、その神獣鏡を和国の使者が欲しがったので、魏国の役人は驚いたと云います。
魏では道教信仰は「鬼道」と言われ、国家転覆の邪教だと考えられていました。

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この時、魏国では鬼道の国との国交が是か非か、ということさえ論議されたそうです。
しかし大海の遠い島国だということで、魏への影響はない、という結論に至りました。
そこで溶かす予定で国の倉庫に保管されていた神獣鏡などが100枚ほどを和国に払い下げすることにしました。

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伊都国に赴いた豊玉姫は、家臣に魏からの下賜品を持たせ、王国に帰りました。
その中に銅鏡が、およそ100枚がありました。
しかしそれが「三角縁神獣鏡」であると錯覚した人が、後世に表れました。
つまり、三角縁神獣鏡はヒミコの鏡であると言い出したのです。

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しかし三角縁神獣鏡は日本で400枚以上発見されているのに、それらが魏から貰った100枚の鏡だと思うのは、辻褄がありません。
三角縁神獣鏡が国産品であることは、江戸時代から分かっていたことだとも云われています。
この華々しく親魏倭王の称号を受け、数々の宝物を持ち帰った女王豊玉姫を見て、羨ましくなった二人の男も魏に参じることにしました。
その男は、一人は物部の王「イニエ」であり、もう一人は「武内宿禰・武内大田根」でした。

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境内弥勒寺跡の裏手に天満社があり、

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その横には、一生に一度だけ願いを叶えるという「願かけ地蔵」がありました。
ここだけはまた、何とも異様な空気が漂っていました。

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優美な姿の「呉橋」が見えます。

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呉の国の人が掛けたと伝わります。

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境内を横断して菱形池へ向かうと、

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美しく紅葉していました。

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「木匠祖神社」や

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亀山の石の上に建つ「亀山神社」などが鎮座します。

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さらに奥には「御霊水」がありました。

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そこは3つの井戸があり、今も水が湧きでています。

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飲料は不可とのこと。

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ここにある八角形の石は「影向石」(ようごうぜき)といい、この地に八幡大神が現れ、神馬に乗って天翔けた時の蹄跡が残っていると云われています。

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池を渡って

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「水分神社」へ。

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さらに先には神様の別荘「頓宮」がありました。

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宇佐神宮の境内は、本当に広大です。

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一旦境内を抜け出し田園の道を歩きます。

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そこには結構な勾配の階段がありました。

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階段は延々と続いています。

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突き当たりに「和気清麻呂公の碑」があります。

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この突き当たりから右手に行くと和気清麻呂を祀った「護王神社」があります。

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この和気清麻呂にまつわる「道鏡事件」が宇佐神宮の謎に迫る一つの鍵になります。

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奈良時代の769年、女帝称徳天皇の寵愛により法王にまでなった僧の「弓削道鏡」。
やがて道鏡は皇位を狙い、「道鏡を皇位につかせたなら天下は泰平である」とのお告げがあったと太宰主神(だざいのかんづかさ)に嘘の奏上をさせます。
皇族でないものが皇位を継いでいいものか。
それは連綿と続く天皇の血筋が途切れることを意味します。
さすがにこのことは多くの臣下に騒動を巻き起こします。
そこで天皇は宇佐神宮の判断を仰ぐため和気清麻呂を派遣し神託を求めます。

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宇佐神宮で清麻呂が賜った神託は

「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。
臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。
天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。
無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。」

というもの。
天皇は天皇の血筋の者を立てよと神託を得て、
これにより道鏡のもくろみは叶わず失脚に至ることになります。

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さて先ほどの石碑の突き当たりを左へ行くと「大尾神社」があります。

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和気清麻呂が神託を受けに来た時、八幡大神はここに鎮座していたと云います。

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なぜ和気清麻呂は、皇族の存続に関わる重要な神託を受けるために、わざわざ宇佐神宮にまで足を運んだのか?
それはなぜ、アマテラスの鎮座する「伊勢神宮」ではなかったのか?

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それは天皇はもとより大和に生きる民が、史上最も偉大でカリスマ性をもった女王が、ここに眠っているということを、少なくも奈良時代までは知っていたということではないでしょうか。
しかし記紀の制作に当たり、魏の属国となった女王や物部王の存在は隠され、その痕跡は消されていったのでした。

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ただただ妖しく美しく、聖地は秘密を宿し、今もそこに在り続けていました。

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