
百枝の椎の木の下に泉があった。
清らかな良い水が涌きでるので「好井」とよんで人々は水を汲みにきていた。
ある日、国造家の従者が稲田好井の水を汲むため井のほとりを訪れた際、百枝の椎の樹下に立つ一人の乙女がいた。
従者は呆気に取られ、すぐに主人の国造にこのことをお伝えした。
国造が好井の泉に来てみれば、その乙女は静かに佇み、容姿端麗な姿は一目で貴人とわかった。
「そこの乙女よ、お主はどこから来たのか?」
国造が尋ねると、乙女が答えた。
「わらわは素盞嗚尊の妃、稲田なり。この土地の主となって、すでに長い年月を過ごしておる。汝らの祖先も、かつてわらわに仕えておった。わらわはこの地に降りて、ここに鎮まりたいと欲しておる。汝らは、わらわの父母を祀る社と、わらわ夫婦を祀る社を建て、この好井の清水で酒を作り、わらわに奉せよ」
これを聞いた国造は、すぐさま社殿を造営させ、神霊を安じ、更に三田の水田を作って、その米と好井の清水で酒を作り奉じた。
その後、武持という人物が祭事を奉仕したといい、今の宮司家の祖と伝わる。


倉持さんに「ぜひ参りましょう」とお勧めされ、「稲田神社」(いなだじんじゃ/稻田神社)にやって来ました。

鎮座地は茨城県笠間市稲田で、この日、倉持さんも初参拝なのだそうです。
ご同僚からも勧められていた神社で、前々から気になっていたと。

創建は不詳。
御朱印をいただいた際に、宮司家の奥様にお話を伺ったところ、戦火によって社殿等も燃え、資料はほとんど焼失してしまったとのことでした。

当社は『延喜式』式内社として、「名神大社」としてその名が見え、隆盛を誇っていたことが窺えます。

そのようなことから稲田神社は、律令制以前に常陸国の西部を治めた新治(にいはる)国造が創建・奉斎した神社と考えられています。
雲井宮郷造神社の北西10kmのところ、当地からであれば南西に20kmの場所に、県内3位の「葦間山古墳」(前方後円墳)があり、倉持さんによれば、この古墳は、新治国造の祖・毗那良珠命(ひならすのみこと)のお墓とされているとのこと。
当社は雲井宮郷造神社と並び、新治国造が奉斎する主要な神社であったと考えられます。

当社の祭神は「奇稲田姫之命」(くしいなだひめのみこと)。

他に「布都主神」、「菅原道真公」、「大山咋命」、「大日孁貴命」、それと未詳1座 5柱が明治6年(1873年)に合祀されています。
つまり、稲田神社として最初から祀られいるのは、稲田姫1柱のみということになります。

夫とされる「素盞鳴尊」は配祀でもなく、本殿横に摂社として別に「八雲神社」祭神として祀られています。
この摂社がどの時代に置かれるようになったかは不明ですが、稲田姫のみが主体で祀られる神社は珍しいかと。

他に境内社は「天満宮」、

「秋葉神社」、

「稲荷神社」などがありました。

拝殿の手前、随神の位置に鎮座するのは、「手摩乳神社」(てなづちじんじゃ)と「脚摩乳神社」(あしなづちじんじゃ)。

稲田姫の父・手摩乳命と、母・脚摩乳命を祀ります。

「君か代も 我かよのすゑも 久方の あまくたります 神そまもらん」
(主君の治める御代も、我が一族の行く末までも、天から天降られた神々が、いつまでもお守りくださることだろう)
この和歌は、鎌倉時代の武将であり歌人でもある笠間時朝(かさな ときとも)が建長年間(1249-1256年)に開催された稲田神社の歌会で詠んだものとして、残されています。

また、稲田神社の社宝として、徳川光圀公から寄進された「四神旗」(しじんき)が火災などの災害を逃れ、4旗とも残されています。
この四神旗は貴重な文化財のため、通常は「茨城県立歴史館」に保管されていますが、光圀公が寄進した四神旗が完全な形で残されているのはここだけなのだそうです。



稲田神社から400mほど離れた山の麓に「奥の院」があるというので、訪ねてみました。

この辺りに、稲田姫が降臨した「好井」(よしい)があるという話でしたが、

ありました。

『茨城県神社誌』によるところでは、当地の稲田姫伝説は下記の通り。
「初め某氏の家童稲田好井を汲んとして井の辺に至ると一少女樹下に出現。
家童怪み主人に報せ早速見ると容貌端麗に貴人ならむと思ひ問ふと、少女曰く「我は素戔嗚命の妃稲田姫なり。是地の主神と為る既に久し、汝等の祖亦會て我に仕ふる者なり。我今降りて此処に居らんとす、宜しく我父母の祠と我夫妻の宮とを営み、好井の禾を以て酒飯を作り我に奉ぜよ」といふ。
驚いて社殿を造り神霊を鎮齋した。更に水田を供し之を稲田田供村と名付けた。武持と伝ふ者祀事を奉務、その裔孫が田村氏である」

この稲田姫の神霊と出会う人物が、江戸時代の『稲田姫宮神社縁起』では当地の邑長(村長)「武持の家童」、他の伝承では「国造の家童」となっています。
家童とは従者・召使のこと。

何にせよ、新治国造は、井をもってよく治めたと雲井宮郷造神社に伝わりますので、好井もそうしたもののひとつなのかもしれません。

好井の手前には、3つの水田の跡があり、「三田」と呼ばれていました。
実際に稲を育てて、この米と水で酒を作り、稲田姫に奉献していたといわれます。

好井の伝承は「此地の主たるや既に久し」とあるように、稲田姫はこの土地に古い時代から存在していた地主神としての性格が強調されています。
はじめに当地に稲田姫を祀ったのは誰か、それが新治国造家であった可能性は高いと思われます。

新治国造の祖・毗那良珠毗那良珠の父・美都呂岐(みつろき)は、『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、天穂日の八世孫で出雲国造と同祖とされますが、これが怪しい。
富家伝承を知るものからすれば、アメノホヒは出雲族ではない、と言う認識であり、その子孫が新治国や近隣の東国で、アメノホヒを祀るのではなく、これほどまでに出雲祖神をリスペクトしているとは考えにくいものです。
つまり、新治国造は純・出雲系の血筋である可能性の方が高いと。

雲井宮郷造神社の由緒によれば、毗那良珠の子孫「車特命」(くるまもちのみこと)が長くこの地に留まり、優れた政治的な功績を挙げたため、祖先の神を合わせて祀った、とあります。
この車持氏に関して、『新撰姓氏録』では、上毛野朝臣と同じ祖先であり、豊城入彦命の8世の子孫、射狭君の末裔で、雄略天皇の時に乗與を供進したことから、「車持公」の氏姓を賜ったとあります。
故に車持姓は、系譜を豊城入彦命八世孫射狭君とするのが一般的なようですが、B氏は「実際は伊勢都彦命の末裔である新治・伊甚の国造の系譜=土着の出雲族」である、と力説します。

確かに、実際に当地を訪れて、祀られる神々を見れば、新治国造が出雲王家・神門家の「伊勢津彦」の末裔であるような気がします。しかし・・・

奥の院に祀られる神も「奇稲田姫之命」。

少し離れた、小高い場所には、

「手摩乳神社」と

「脚摩乳神社」。

ならばその横に祀られるこれは夫・スサノオか、と思いきや、

「聖大悲観世音 稲田山」とあります。
奥の院にスサノオはいません。

そして本社の横には

切り落としたような形の磐座「太鼓岩」がありました。
この磐座は稲田姫が降臨した場所とも伝えられますが、いわゆる「鏡岩」などと呼ばれる類のものでしょう。

各地の鏡岩が、光をピカピカ反射させて光通信を行っていた、なんて話は僕には俄には信じ難い話ですが、この独特の形状の岩が何らかの特徴的な祭祀に使われていただろうことは想像できます。

そしてこの好井。
辺りに巨木は存在せず、かつては切り開かれていたのではないかと思われます。
それは月を映しとる「水鏡」とするためではなかったか。

つまり、母系一族の香りも感じられたのでした。

