高森阿蘇神社:満天ニ鳴ル花 神門天狼篇 19

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阿蘇山のギザギザ顔の山は「根子岳」(ねこだけ)。
「根」は異国人を表し、「子」は貴人を表すのだと。
そして顔とおっぱいの間を繋ぐ尾根を「日ノ尾峠」と言います。
「尾」は王を意味し、つまり「日の王」であると。

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「古墳に登ってみる?」
とアシュラさんに誘われて、登ったのは「豆塚」と呼ばれるものでした。

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高森町の街中から、ちらりと見える小さな丘です。

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てっぺんに大きな木が1本植っており、ルックスもキュート。

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れっきとした古墳で、史跡となっていました。

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アシュラさん曰く、この標識は以前はなかったそうで、最近整備されたもののようです。

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熊本県阿蘇郡高森町に鎮座の「高森阿蘇神社」(たかもりあそじんじゃ)を訪ねてきました。

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境内には三叉の花が咲き誇り、

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阿蘇・南郷檜(なんごうひ)の母樹が林立する美しい社です。

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日本の大半のヒノキは、実から種を採取して育てる実生で、雄花と雌花の受粉によって発芽するため、遺伝的に母樹の特性、 樹形をそのまま引き継ぐことは不確定となります。
ヒノキは挿し木はできないと考えられていましたが、昭和31年(1956年)、九州大学の調査グループにより 全国でも唯一の挿し木品種が高森町で発見され、「南郷檜」と命名されました。

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高森阿蘇神社に現存する南郷檜は、遺伝的に母樹の特性を引き継ぐことができ、すべてが御神木のDNAを持つ貴重なヒノキとなります。

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当社祭神は、「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)、「阿蘇都姫命」(あそつひめのみこと)となっており、相殿に「国龍命」始め十二神を祀っています。
高森町の総産土神で、高森発祥の地と云われています。

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元々は神社後方の宮山の中腹、

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大きな桜の木がある場所に鎮座していたといいます。
約400年前に、現在の場所に奉遷されました。

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現在の社名は明治以降に変えられたもので、元は「矢村社」(やむらしゃ)、「矢村大明神」と称されていたとされます。

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由来としては、次のような話が伝えられます。
健磐龍が阿蘇に下向した時、湖水であった火口湖を乾かし、阿蘇山から南北に向って矢を放ちました。
すると、その一矢は阿蘇神社の鎮座地に落ち、もう一矢はの南の大石に当り、一寸余の鏃(やじり)の跡を残しました。
健磐龍はその大石を「御矢石」(みやいし)とし、宮居を定めたことから「矢村社」と称されるようになった云うことです。

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アシュラさんは事前に、阿蘇神社門前街に鎮座する「矢村神社」にも案内してくれていました。

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そこも、高森阿蘇神社の由来のとおり、健磐龍の館跡だと記されていました。

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これをもってアシュラさんは、「阿蘇神社の創建は1850年であり、高森の矢村社の由緒は、それ以降に阿蘇から持って来たものである」と説かれます。
「高森に矢村という地名は存在せず、高森神社の周囲には”宮”の字名(あざな)が有るのだ」とも。

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高森阿蘇神社の境内の隅に、御堂があります。

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中には小ぶりな仏像が収められており、ここがかつて寺であったことを物語ります。

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仏像の一つ、ハイカラなお兄さんの上に掲げられた

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これ。
ここにも矢村の文字がありますが、

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大事なのはその下に消えかかっている「本地観世音」の文字の方だと、アシュラさんは言います。
「本地」(ほんじ)とは、仏・菩薩が人々を救うために神の姿となって現れた垂迹(すいじゃく)身に対して、その本来の仏・菩薩を指す言葉です。
つまり、高森阿蘇神の本来の姿は観世音菩薩である、ということなのでしょう。

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僕はこの本地垂迹の考え方は、仏が神に背乗りしているようで、また、仏教が神道を下に見ている風も感じ取れて好きではありません。
しかし神仏習合を行う上では、外せない考え方になります。
実際、神仏習合期では、寺の方が強大な力を持っていましたから、その擁護を得られているというのは重要なことだったと思われます。

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では、高森阿蘇神社の真の祭神は、誰だったのか。

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高森阿蘇神社の表の神紋は、阿蘇神社と同じ「違い鷹の羽」紋となっています。
しかし裏神紋は、

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「鶴」。
正式に鶴の神紋を掲げる神社は、熊本ではここだけだという話です。

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鶴は、天鈿女(あめのうずめ)の神紋だと、アシュラさんはいいます。
天鈿女=多加利足尼タカモタリのアマ=高森
それが本当だとしたら、やはり母系の存在を感じざるを得ないのでした。

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アシュラさんは、高森阿蘇神社の後、近くの墓地に連れて行ってくれました。
ここは個人の墓地ではありますが、

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そこに2棟の古い墓碑があります。

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これは、戦国時代に島津軍の深水摂津介を討ち取った津留大蔵の碑だとのこと。
津留大蔵は武田大和守元実の長子で津留姓を名乗っていました。

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この津留姓は、土地の名前である津留村が由来であると思われ、高森阿蘇神社の裏神紋とも無関係ではないと考えられます。

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さらにこの一帯は、弥生中期から後期の弥生集落遺跡「幅・津留集落遺跡」が見つかっています。
津留遺跡は、国内随一の巨大な環濠集落であった可能性が高く、希少な鉄器工具も出土しているそうです。
阿蘇地方では、先に紹介した「乙姫神社」と「赤水神社」の間に、弥生時代後期の「狩尾弥生遺跡群」が見つかっており、そこでは、周囲の遺跡に先立って大量の鉄器を集積した痕跡が見つかっています。
「狩尾弥生遺跡群」は優良な阿蘇黄土「リモナイト」が大量に産出されており、これは渇鉄鉱で品位は低いものの、製鉄原料になりうる可能性も示唆されています。
また、津留遺跡でも狩尾弥生遺跡群に先立って、鉄器工具の集積跡が見つかっており、 しかも集落の移り変わりが石器から鉄器への工具変遷を明確にしめしているということです。

そしてこのあと、アシュラさんが連れて行ってくれた場所で、僕は驚く光景を、目の当たりにしたのでした。

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7件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    私のコメント(名無しのものもありますが)に誠実にお返事くださりありがとうございます。

     天保年間(1835年〜1850年)の大再建を迎える前、阿蘇神社は幾度もの戦火による焼失と時代に合わせた社殿数の変更(変遷)を繰り返していました。江戸時代以前の歴史を遡ると、再建前は以下のような状態や歴史を辿っていました。

    1.  現在の阿蘇神社は、主要な神々を「一の神殿」「二の神殿」「三の神殿」の3棟にまとめて祀っていますが、古代や   中世にはもっと多くの建物に分かれていました。古代・中世:神々を1棟ずつ個別に祀る「十二殿(じゅうにでん)」の体制でした。その後:時代の変遷とともに、建物が統合されて「六殿」になり、さらに現在の「三殿」の形式へと集約されていきました。

    2 . 戦国時代の戦火による全焼天保の再建より約250年前の天正年間(戦国時代末期)、九州統一を狙う島津氏の侵攻を受け、神社一帯の軍事拠点化に伴い、社殿群がことごとく焼き払われ、全焼してしまいました。その後、豊臣秀吉の九州征伐を経て、肥後に入国した加藤清正や、のちの領主である細川氏(熊本藩)によって社領が寄進され、応急的な社殿の造修が行われ維持されていました。(秀吉の九州征伐直後、阿蘇氏の「武家としての本拠地」は肥後国矢部(現在の山都町)にあり、そこで300町の領地を安堵されていました。しかし、当主・惟光の処刑によって武家としての阿蘇氏は一度滅亡します。その後、加藤清正により大宮司家として再興された際、安堵された300町は矢部ではなく、本来の本拠地である「阿蘇神社(一の宮宮地)の周辺の社領」として改めて設定されました。)

    3.  天保の造営直前の状態江戸時代を通じて加藤氏や細川氏の手で修理されながら守られていましたが、天保年間を迎える頃には、戦国時代以降に建てられた古い社殿が老朽化(大破)していました。そこで当時の熊本藩主・細川氏が、藩の威信をかけた大事業として全面的に建て替えることを決定しました。腕利きの若き大工棟梁・水民元吉(みずたみ もときち)を抜擢し、約20年の歳月をかけて現在の豪華絢爛な重要文化財の社殿群へと生まれ変わらせたのです。このように、天保の再建前は「幾度も造り替えられた古い木造社殿」であり、中世には今とは全く異なる配置(十二殿)で建てられていました。(1837年~1850年)
     なお、熊本藩の歴代藩主は、参勤交代の際や藩内の巡検時に必ずといっていいほど阿蘇神社を崇敬し、国家安泰や五穀豊穣を祈願しました。

     以上のとおり、阿蘇神社は中世から現在まで1586年~1601年を除き現在地(と山上)にありました。ここに書いた内容は、多くの資料や阿蘇文書(阿蘇神社宮司阿蘇惟友氏旧蔵の古文書。平安中期から江戸末期にわたり、中世文書は南朝のものが多く、社領支配の実態を解明するために貴重な史料。この内、中世文書34巻(304通)と写本36冊は国の重要文化財に指定されています。その多くは熊本大学附属図書館所蔵で、熊本大学や東京大学史料編纂所により編纂・出版した史料集の版面画像ギャラリーで紹介されており、目録は「阿蘇家文書目録」文化庁文化財保護部美術工芸課が作成)に目を通せば、阿蘇神社と阿蘇氏に関してより詳細に分かると思います。

     勿論、古代においての阿蘇神社については不明な部分もあり、神話を想像・推測して史実か否かを楽しむのは有りだと思います。(個人的には、幅津留遺跡と邪馬台国の関係性を空想物語として楽しんでいます。で、邪馬台国が狗奴国との対立を経て、東の強国大和政権と連合し併呑されたと考えています。これが、神武東征に書き換えられたと推測)

     なお、天鈿女命を祀る主な神社(椿大神社や戸隠神社など)では、個別の固有神紋ではなく、各神社の社紋(三つ巴紋や車紋など)が使用されており、天鈿女命固有の全国共通の神紋は特に定められていません。また、鶴に丸の神紋で有名な神社は鶴岡八幡宮ですが、由来は天鈿女命と全く関係ありません。
     阿蘇神社の基本の神紋は御記載のとおりの「違い鷹の羽」ですが、長野阿蘇神社(南阿蘇村長野)では、阿蘇を統治した武将や宮司家(阿蘇氏)の歴史的なつながりから、「鶴の丸(丸に鶴)」の紋が幕や灯篭の随所に見られます。
     アシュラ氏の見解(阿蘇神社の創建や天鈿女命の神紋)はあまりにも独自的で、歴史的に史実とされた事実を無視或いは脆弱なその裏付けは如何様になされたのか甚だ疑問です(国指定の重要文化財等を否定し得るほどの信用に足る裏付けがあれば失礼になりますが・・・)。

                                by 矢村社の一氏子

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      いえ、矢村社の一氏子様に限らず、貴重なコメントをくださる方々にはいつも感謝いたしております。

      国造神社、草部吉見神社、また高千穂と似て非なる鬼八伝承など、阿蘇神社を取り巻く歴史には、まだまだ謎が多いと感じます。
      しかしながら、さすがに創建が江戸期であったというのは、修正しなければならないようですね。

      先日、宮崎五ヶ瀬と、高森、阿蘇方面を訪ねてまいりました。
      高森阿蘇神社も、阿蘇神社にも参拝してまいりました。
      今回の地震の影響はさほど見られなかったので安心しましたが、高森阿蘇神社の石鳥居が少しずれているようで、その点だけが気になりました。
      私は熊本に1年住んでいたことがあり、その時はかなりえぐい社畜状態で、仕事の途中で寄り道した阿蘇神社の空気に、とても心癒されたことを今も覚えております。
      前回の地震で楼門・拝殿が崩壊したときも、本殿だけは立ち残っていて、その姿に勇気をいただきました。
      そうした意味でも、こんな私ではありますが、信仰としての阿蘇神社を崇敬しております。

      鶴の神紋云々に関しては、全国の神社を巡り、私も別の見解を持っております。鶴と亀は長寿の象徴とされますが、亀はまだしも、鶴がそんなに長生きだとは思えません。鶴を長寿の象徴たらしめるなにかしらの信仰があったのではないかと。
      私は四国に、大いなる母系の一族がいて、不老長寿に由来する信仰を持っていたのではないかと考えております。
      鶴信仰もその一族に由来するのではないかと。
      阿蘇の白水村、蒲池姫、祖母山の豊玉姫、この辺りがその一族につながるのではないかと妄想しております。

      古代出雲王家の時代から、口伝にて歴史を繋いできたという富家の伝承では、九州吉野ヶ里の物部族と、宇佐の豊族が結託して、大和を攻めたと伝えております。
      この豊族の女王が、いわゆる親魏和王のヒミコとされる人物です。
      矢村社の一氏子様の見解と、重なる部分もありそうですね。

  2. 不明 のアバター 匿名 より:

     阿蘇神社の境内がある「一の宮町宮地(現在地)」の位置は、記録が確実になる平安時代末期(中世)から近代、そして現代にいたるまでずっと同じ場所です。しかし、それ以前の古代(神話・古墳時代〜奈良時代頃)まで遡ると、現在地とは異なる場所からスタートし、現在の形へと統合されていった歴史があります。阿蘇神社の場所の変遷と、現在の位置に定着した歴史的背景は以下の通りです。
    1. 古代:
     3つの拠点を結ぶ「聖なるライン」古代の阿蘇における信仰は、現在の阿蘇神社ひとつだけではなく、火山の神と祖先の神を祀る別々の拠点が分立していました。上宮(阿蘇山上神社): 阿蘇山の火口そのものを神体として直接拝む拠点で、火口のすぐ近くにあります。国造神社(こくぞうじんじゃ): 阿蘇神社より北に位置し、阿蘇を開拓した初代阿蘇国造(速瓶玉命)を祀る古社です。下宮(現在の阿蘇神社): この「阿蘇火口(上宮)」と「国造神社」を地図上で直線で結んだ中間の地に新しく造営されたのが、現在地である下宮(阿蘇神社)です。造営年代としては火口や国造神社の方が古く、後からその2つを繋ぐ「聖なるライン」の交点として現在地が選ばれたと考えられています。
    2. 中世:
     現在地への定着と「下宮」の確立遅くとも平安時代末期(12世紀)には、現在の一の宮町宮地に社殿が構えられていたことが分かっています。中世の記録では、阿蘇火口を「上宮」、平地(現在地)の社殿を「下宮」と呼び、大宮司家(阿蘇氏)の拠点として機能していました。戦国時代に豊臣秀吉の軍勢によって全焼した際も、場所を移動することなく同じ敷地(宮地)で復興が進められました。
    3. 近世〜近代:
     神仏分離と現在への継承江戸時代の1850年に完成した大改修(現在の重要文化財)も、中世からの境内地をそのまま踏襲して建てられました。明治の「上宮・下宮」の統合: 明治時代になると、明治政府の宗教政策(神仏分離など)によって、それまで1千年以上別々に管理されていた「山上(上宮)」と「平地(下宮)」が一体の組織として正式に統合され、現在地がその中心(官幣大社)となりました。
     このように、明確な記録も残っている阿蘇神社の創建が1850年であるとの前提は妄想以外の何者でもありません。1000年以上の歴史を持つ阿蘇神社の火振り神事は如何に説明されるのでしょうか?また、1850年創建の神社であれば、宮司である阿蘇氏(多氏子孫)が、明治期に男爵に列せられた理由も説明できなくなってしまいます。
     なお、武田大和守が津留姓を名乗っているのは地名(津留村)からではなく、阿蘇氏の家臣で高森城々代高森伊豫守惟居の侍大将津留兵庫の養子と成り津留大蔵入道一性と改めたからです。存命中は武田姓と津留姓を使い分けていたようですが・・・。
     あと、高森阿蘇神社の例大祭の第一の御仮屋の津留年之神社は幅津留遺跡のすぐそばにあり、その裏手にも古墳があります。この幅津留遺跡については、邪馬台国の存亡(魏志倭人伝等の記録参照)や神武東征(古事記参照)を絡めて推測すると、結構面白い古代史の推測が楽しめると思います。

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      詳しいご解説、ありがとうございます。
      平安時代末期に一の宮町宮地の記録があったとなれば、そこに現在の阿蘇神社が鎮座していたと考えられますね。
      阿蘇神社と阿蘇山を中心とした神社については、まだまだ考察が必要です。

      昨日起きました、熊本の大地震の影響がとても心配です。
      神社もそうですが、まずは人命と暮らしの安全が確保されることを願います。

  3. 不明 のアバター 匿名 より:

     阿蘇神社の創建が1850年との記述がありますが、それは天保6年(1835)から嘉永3年(1850)にかけて、熊本藩の寄進によって再建されたことと混同されてませんか?
     阿蘇神社の創建は社伝によると紀元前282年(孝霊天皇9年)とされ、阿蘇を開拓した神・健磐龍命(たけいわたつのみこと)が創祀したと伝わる2千年以上の歴史を持つ古社です。
     抑々、延喜式(927年完成)に記載のある阿蘇神社が幕末に創建されたとかありえません。阿蘇氏の歴史だけを見ても明白な誤りです。その誤りに基づき、「高森の矢村社の由緒は、それ以降に阿蘇から持って来た嘘歴史である」との記載は、高森阿蘇神社に対して失礼ではありませんか?
     また、健磐龍命が阿蘇山上から南北に放った卜矢は2本です。一の矢(北側)が阿蘇神社付近で、二の矢が矢村社(南側=高森阿蘇神社)です。貴氏が言われる三本の矢伝説は、健磐龍命と鬼八の往生岳と的石の伝説に由来するもので、阿蘇神社近くの矢村神社は、坂梨から放たれた矢が落ちた場所です。
     もともと阿蘇の「手野(ての)」という辺鄙な場所にいた健磐龍命が、新しい本拠地を探す際、「天の神に選んでもらおう」と坂梨の「矢の島」(または手野)から空へ向かって矢を放ちました。その矢が落ちたのが矢村神社の地であり、命はここに最初の館を構えたと伝わっています。その後に新たな館を定める際に阿蘇山上から2本の矢を南北に放ったとされています。
     従って、南北の矢村社(神社)には、それぞれその成り立ちに理由があります。阿蘇山上から南北に放った一の矢・二の矢が阿蘇山上から北側且つ至近距離にあることに、何の違和感も感じられなかったのでしょうか?貴氏にそれ以外にも根拠があればご明示されますよう、なければ早急に訂正されますよう申し上げます。  
                            by 矢村社の一氏子より

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      こんにちは。コメントありがとうございます。
      まずは私の文章力の拙さにより、大変ご不快な思いをさせてしまったことをお詫び申し上げます。
      ご希望に適うものではないと思いますが、一部表現を改めさせていただきました。

      この『偲フ花』というブログは、あくまで私の個人的な旅と古代史考察のブログとなっております。
      古代史に関しましては、現在の一般的に知られる歴史ではなく、古代出雲王家の富家によって残し伝えられてきた富家伝承をベースに考察しております。
      現在の表の歴史は、歴史的勝者によって紡がれたものであり、必ずしも真実を伝えているとは限りません。
      私は敗者の歴史を可能な限り収集し、両者あわせて真実はどうだったのか、ということを探求したいと考えております。

      まず延喜式ですが、これに記載されるのは「健磐竜命神社」「阿蘇比咩神社」「国造神社」の3社となっております。
      このうち、「健磐竜命神社」「阿蘇比咩神社」が現在の阿蘇神社であるとされていますが、名神大社である「健磐竜命神社」は元々、阿蘇山頂付近に鎮座していたということです。古代の神社は地盤の揺るがない場所に建てられていることが多く、国造神社や乙姫神社はそうした場所に鎮座しております。
      これに対し、私は阿蘇神社の裏手にご案内いただきましたが、阿蘇神社は窪地に土を盛った上に社殿が築かれており、これは確かに古い神社ではあまり見かけないもので、不安定に感じました。
      ご指摘いただきました”嘘歴史”だと私に語る方は、ハンドルネームを”アシュラ”と名乗る方で、南阿蘇にお住まいです。
      アシュラ氏は阿蘇地方を広範囲に細かく綿密に歩き回られ、古墳から発掘された剣の銘文や多くの古代史の知識から、南阿蘇地区に広大で強大な王国が存在したことを確信しておられ、それが多氏による国だった、と私に説いてくださいました。
      アシュラ氏は高森阿蘇神社を独立した、古代からの重要な聖地であると認識されており、私もそのように感じております。
      阿蘇山という火の神を鎮め、鉄や鉱石を得られたであろう豊かな阿蘇カルデラは、古代から大いに栄えていたと考えられます。
      海部族、物部族、出雲族など、多くの古代氏族が移住している痕跡があり、今に続く重要な聖地も多数あるのですが、立地の条件から「阿蘇神社は江戸期に熊本藩によって創建された神社である」というのがアシュラ氏の主張であり、私もその可能性を思考しております。

      坂梨の矢の島がどこのことかは私は分かりませんが、一の宮坂梨から阿蘇神社の矢村社までは少なくとも2kmはありそうです。手野といえば国造神社があるあたりでしょうか。ここから矢を放って阿蘇神社の矢村社まで届いたかというと疑問であり、高森阿蘇神社では尚のことです。
      もちろん、これは神話であり、信仰であります。神話・信仰は大切なものですが、私はひとまず、歴史とは区別することにしております。
      矢村社にも別の、そこが聖地たる古い由緒が眠っているのかもしれません。

      失われた歴史を拾い上げるというのは、由緒なども時には疑わなくてはならず、極力不敬にならないように配慮を試みましても、どうしても神社関係者や氏子さんに不快な思いをさせてしまうことがあります。しかしそこに踏み込まなければ見えてこないものがあり、歴史探究とは時に失礼であり、誠に畏れ多いことでございます。
      こうしてお叱りいただけると、それが良い戒めとなります。
      阿蘇に限らず、我が国を日本として築き上げてきてくれた大祖先には、私は感謝の気持ちしかなく、崇敬の思いで各地を旅しております。
      阿蘇一宮地区も、高森にも、古代には素晴らしい先祖が暮らしており、類稀な美しい我が国の基礎を造ったのだと、感じ入っております。
      移民政策に歯止めがかからない昨今、正しい先祖の姿を知ることは、この先の日本のためにも、日本人のアイデンティティを残すためにも、大切なことなのではないかと、ささやかな使命感も抱いております。
      この先も様々な視点からのご指摘をいただけると、ありがたく存じます。
      また厚かましい限りではございますが、氏子さんならではの、地元に伝わるお話などもお教えいただけると嬉しく思います。

  4. orededrum のアバター orededrum より:

    💚

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