三國神社:八雲ニ散ル花 64

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彦太殿は越前の福井で振姫君と結婚式を挙げ、「オホド」(男大迹王:紀 / 袁本杼命:記)君と呼ばれました。
彼は交易にさらに力を入れ、九頭竜川の河口にある三国港には各地から訪れる商船で賑わいました。
蘇我家は港の地名で三国国造と呼ばれていましたが、オホドは後に、大和で継体大王となったその人です。

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【高向神社】
福井県坂井市の広大な田園の一角、丸岡町高田に「高向神社」(たかむくじんじゃ)が鎮座します。

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福岡では初夏の陽気を記録する頃、当地で山や日陰に残る雪を見ると、ここが北陸であることを実感します。

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高向神社は「高向の宮跡」と呼ばれる史跡であり、蘇我家の一人娘「振姫」が生まれ育った場所と伝わります。

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祭神は「応神天皇」で「振媛命」を配祀していると云いますが、本来は応神ではなく「継体天皇」を祀っていたと思われます。

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記紀は継体天皇について、応神の5世孫としているので、それに準じた当地の伝承と富家の伝承では、ずいぶん食い違いがあります。
オホド王は応神とは全く血縁がなく、出雲王家の子孫「富家」出身の彦太のことでした。

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振姫が産んだのは、継体天皇ではなく、彼との子である「金橋ノ御子」と「高田ノ御子」です。
二人は後の、「カナヒ大王」(安閑)と「オシタテ大王」(宣化)その人です。

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しかしオホドは大和の大王になる条件として、振姫と離別し、大王家の姫を改めて娶らなくてはなりませんでした。
このことが、後に複雑な、連立政権を招くことになります。

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北陸から越後にかけては、大彦の子孫が豪族になり、道ノ公系国造家として領地を有していました。
蘇我系国造家と道ノ公系国造家は、勢力地が近いので婚姻関係が生じ、両者は出雲の富家(向家)との関係でも、親族でした。
さらに南に接するオウミ国の額田国造家と、三野(美濃)ノ前国造家とも親しかったので、北陸方面の国造たちは、北陸国造連合を形成していました。
つまり当時は、若狭から越後まで、蘇我・道連合王国が存在していたと言えます。

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【三國神社】
暴れ川だった九頭竜川の河口を、オホドは開拓し、川の合流点を広げました。
その場所に鎮座するのが「三國神社」(みくにじんじゃ)です。

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迎える立派な神門が、当社の威厳を示しています。

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平群王朝の末期、平群氏らの横暴が眼に余るようになり、また三韓征伐の功労者である葛城系の豪族の不満は募るばかりでした。

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そのような中、蘇我のオホドの元に、「大伴連金村」と「巨瀬臣男人」がやって来ます。
平群王朝を見限った彼らは、今や豪族たちの人気を得た葛城の血を引く蘇我の王「オホド」に大王就任を申し込んだのです。

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ただしそれには、平群系のオケ大王(仁賢)の娘、「手白香姫御子」を迎えることが条件でした。

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オホド王は蘇我家の振姫と離別することに難色を示しましたが、大伴金村の強い要請に根負けして、条件に応じることになったのです。

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手白香姫御子はオホドとの間に、「シキシマノ御子」(ヒロニワ大王 / 欽明)を出産しました。
しかしオホドに蘇我家の御子がいたことは、後に複雑な政争をもたらしました。
振姫から先に生まれた二人の御子が、後で都に現れ、カナヒ大王とオシタテ大王を名のったのです。
そのため、当時の大和はヒロニワ大王家とカナヒ・オシタテ大王家との二系統政権の並立状態を招きました。
このカナヒ大王の子孫が、飛鳥時代に権力を振るった「蘇我馬子」と伝わる人です。

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神門をくぐると、巨木が茂る境内が広がっていました。

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侘びた神馬堂を覗くと、

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まるで生きているかのような、馬の像がありました。

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なにやら岩を祀った場所があります。

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元山王宮の跡地とあります。

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継体天皇は応神天皇の子孫ではなく、実質的に葛城の血を引く蘇我本家の当主でした。
物部族が大和王朝の権力を得た当時は、古墳様式は前方後円墳でしたが、オホド大王の時代には再び方墳を採用しはじめます。
それは蘇我氏が葛城(出雲)の血を意識していたからに他ならないからです。

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またオホド大王は玉類の生産を、大和で大々的に行うことを考えました。
彼は奈良盆地の西南(高市県蘇我里)に、北陸の人々を移住させて、曲玉や管玉を作らせることにしました。

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材料のヒスイやメノウを越後や出雲から、アワ(安房)国の忌部氏からはコハクを、奈良の蘇我里に送らせます。
蘇我里の南方に、忌部氏一族が住み込み、直接に玉造りを始めるようになりました。
そこが今は、忌部町となっています。

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オホド大王が造らせた玉類は、豪族が珍重し欲しがり、それにより豪族との結びつきが深まり、蘇我王朝の安定につながりました。
平成期になって、その地が発掘され、「曽我玉作遺跡」と名付けられています。

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境内を一回りし、大きな杜の木に囲まれた本殿へとやって来ました。

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三國神社は、式内社「越前国坂井郡 三國神社」の後裔社とされていますが、実際には祭祀の継続性はないものと見られています。

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当社の祭神は「大山咋命」(山王権現)と「継体天皇」となっていますが、鎮座地は澄元が建立した山王宮が元になっているようです。

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伝承では、当地は後に継体天皇となる男大迹王が治めた地で、継体天皇の歿後に朝廷によって継体天皇を祀る神社として創建されたのが始まりとされていますが、それを示す史料は存在しないとのこと。
延喜式神名帳に記された三國神社は、中世までには廃絶したということのようです。

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現在の三國神社は、天文9年(1540年)、竹田川 の支流の兵庫川から流れてきたとされる御神体を住人が拾い、当地の正智院に納めたのに始まります。
明治3年(1870年)、式内・三國神社の後裔であるとして山王宮は「三國神社」への改称を藩に願い出ましたが却下され、地名をとって「桜谷神社」と改称されました。
明治18年(1885年)になって、三國神社への改称が許可され、現社名となり今に至ります。

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三國神社が、中世に廃絶した背景には、記紀創作による歴史の改竄に理由があるように思います。

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オホドの子ら、ヒロニワ大王家とカナヒ・オシタテ大王家との二系統政権の並立状態は、排仏派・崇仏派の対立も合間って、後に不安定な政局をもたらします。

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その時代に生きた人物の一人が、厩戸皇子のモデルとされる上宮王子です。

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この分裂状態のスキをついて、藤原鎌足はクーデターを起し、山背大兄王と蘇我入鹿とされる石川林太郎を暗殺(未遂?)、それまでの歴史書も燃やしてしまいました。

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この暗殺の功績により、鎌足は天智帝に重用されました。

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鎌足の子「藤原不比等」は、日本の名門・蘇我氏の主流を、父が不意打ちで亡ぼしたことを、後世に非難されるのではないかと恐れ、忌部子人や太安万侶らに偽装を命じ、記紀を創作させたのです。

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余談ですが、記紀の編纂に際し、出雲の神官になった「出雲臣果安」(ハタヤス)は、徐福の和名であるスサノオを出雲の祭神にするよう不比等に提案し、出雲神話に、本来の出雲とは関係のないスサノオが組み込まれたのです。

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【継体大王像】
福井の足羽山公園には後世に、継体大王を祀る足羽神社が建てられ、継体大王の銅像が造られています。

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その公園は山頂古墳であったとされ、出土品から、高貴な身分の方の墓であるとされています。

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足羽川と福井平野を望む絶好の当地から、オホド王は、遠く、交易を開いた海の方を眺めていました。

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